祝福論(やまとことばの語源)・「旅(たび)」

この世の中には、どうしようもなく気味の悪い人間がいる。
いや、客観的には人間なんてみな同じ存在だが、こちらが、どうしようもなくそう思ってしまう。
人にまとわりつかれるのはうっとうしいことだが、まとわりついてもいいと思ってまとわりついてくる人間がいる。そういう人間と出会うと、ほんとに気味悪い。
そういう人間は、人にまとわりつかれることのうっとうしさを知らない。人に無視され気味悪がられてばかりして生きてきたから、人にまとわりつかれたがっている。いじられたがっている。いじられて喜んでいる。だから、自分が人をいじること人にまとわりつくことも、なんとも思っていない。
いじりあうのが人と人の関係だと思っている。 
そんなにひとりぼっちになるのが怖いのなら、セレブになればいい。そうすれば、いやでも人は寄ってくる。くだらない人間のところでも寄ってくる。せいぜいがんばってセレブを目指せばいいのだけれど、それが果たせないからもう、こういうネット社会に出没していじられたがり、そして傍若無人に人をいじくり倒しにかかる。
そういう人間は、薄気味悪い。
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どんなに気味悪いと思っても、身すぎ世すぎ、浮世のしがらみで付き合うしかないときはある。
しかし、個人的な発言の場であるこのブログの上で付き合わねばならない義理はない。
僕は、自分が人格者であると認められたくてこのページをつくっているのではない。
いやなものは、いやなのだ。
くだらない人間のくだらない意見をくだらないという自由を放棄してまで付き合う義理はない。
僕は、そんなグロテスクで気味悪いものを見ることに耐えられないのだ。
まったく、人の人生をなんと思っているのか。
若者たちだって、大人たちのグロテスクなさまに耐えられないみずからの心の動きをどうやりくりしてゆくかということに四苦八苦しながら生きている。
まあ、どんなに気味悪い人間でも、離れてさえいれば、それなりに懐かしいと思うこともできる。人と人の関係は、そのようにできている。
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あれこれハンドルネームを変えたって、相手は一人なのだ。ハンドルネームさえ変えれば何をいっても許されると思っていやがる。
誰かが「人間であることをやめたイカ人間、不気味」といっていた。そのとおりだと思う。そんなに悔しかったら、僕より遠くまで考えているところを自分のブログで書いて見せればいいじゃないか。
「批判と懐疑」だってさ。笑わせてくれる。そんなレベルの思考なんかしていないじゃないか。いや、思考というレベルにすらなっていない。
ただもう、ルサンチマンの塊になっているグロテスクな自分に、グロテスクに執着しているだけじゃないか。
暇をもてあまして毎日パソコンの前にへばりついているのだから、毎日書けよ。「思考の持続」というところを見せてみろよ。そしたらきっと、内田先生みたいに取り巻きがいっぱいできるさ。他人にまとわりついている場合じゃないだろう。骨身を削って考えてみろよ。
他人をけなすなら、他人以上に骨身を削って考えてみせろよ。それが、「批判」するもののたしなみというものだろう。
ちょこまかつまみ食いみたいにして書いていても、心ある人は誰も尊敬してくれない。
世の中には、がんばって早起きして、出勤前のひとときだけに身を投じて毎日考えることを書いている人もいるんだぜ。少しは、そういう人の「思考の持続」を見習えよ。
そうやって「支払う」こともしないで他人をけなすえげつなさだけで認めてもらおうとしたって、不細工なだけだ。
どんないやらしい人間であってもかまわない。考えることに、それなりの深さや新鮮さや確かさがどこかしらにあるのなら、認めもしよう。なあんもないじゃないか。言い換えれば、いやらしい人間の考えることなんかそのていどだ、ということだろうか。
大見得切って「批判と懐疑」という看板を掲げるのなら、人間は「思考」に殉じて生きることができる、というところを示して見せろよ。せっかくこの世に生まれてきたのに、そして四六時中パソコンの前にへばりついていられる身分になれたのに、ただの素人芸で終わってしまうなんて、残念だろう。
ニーチェマルクスのようなレベルで考えることはできなくても、考え続けることはだれにだってできるんだぜ。
人にまとわりつくことばかりに身をやつしているなんて、生きることに対する「志(こころざし)」が低すぎるんだよ。真実は何かと問うことより、どうすれば気持ちよく生きてゆけるかということしか頭にない。
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人は、根源的に他者にまとわりつかれて存在している。
だから、「別れ」は、ひとつのカタルシスになる。「みそぎ」になる。
「けがれ」とは、何かにまとわりつかれている状態のことをいう。人間は、根源的に「けがれ」を負って存在している。
日本列島の歴史は、そういう認識というか、「嘆き」の感慨からはじまっている。
旅は、故郷の人や景色や生活と別れる行為である。それは、悲しみであると同時に、「けがれ」を負った存在としてのカタルシスでもある。
旅に出れば、故郷の人も景色も生活も、みんな懐かしく思い出される。そうやって、「けがれ」がすすがれる。
人間にとって、定住することは「けがれ」であり、「けがれ」をすすいでゆく行為でもある。
その「けがれ」をすすぐことができなくなったとき、旅に出る。
群れをつくって定住することは、つねに「けがれ」をすすぐことができない事態に陥る危うさが付きまとっている。その不安を払うために「祭り」が生まれてきた。
定住しているものは、「けがれている」という自覚とともに暮らしている。そしてたえず、「けがれ」がすすがれる事態を紡いで暮らしている。
人との付き合い方の作法も、ご飯をおいしく炊く工夫も、「いただきます」ということばも、そういう自覚から生まれてきた「けがれ」をすすぐいとなみなのだ。
現在の民俗学の学者たちはみな、定住民(村人)は「けがれ」の自覚がなく、旅の僧や旅芸人や乞食などの旅のものに対して「けがれ」を感じている、というような思考のスタンスを取っているが、そうじゃない、定住民(村人)にとって旅のものは、たとえ汚い身なりをしていようと「けがれ」をすすいだ存在として村にやってくるのであり、だから村人に受け入れられるのだ。
人間なら誰にでも「けがれ」の自覚はあるわけで、ことに村人は、そういう「嘆き」を深くしている存在なのだ。
そのとき村人は、そういう旅人のしおれた姿の世話をしてやることによって、みずからの旅への誘惑を思いとどまっている。古代や中世において旅人は、そういう機能を持った存在として、村から村へとさすらっていた。
村人は、つねに「けがれ」の自覚と旅への誘惑を抱えながら暮らしている存在だから、防人の徴用を拒むことができなかった。村人にそういう心の動きがなかったら、古代の防人の徴用はもっと困難なものになっていたことだろう。
村人は、旅をすることの「みそぎ=カタルシス」に対する憧れを抱きながら暮らしていた。それはもう、この国の縄文時代からの伝統である。
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縄文人の多くは、山を暮らしの拠点にしていた。氷河期が明けて広い平原はすべて湿地帯になってしまい、彼らは、山に逃げ込んだ。
狭い山あいの地域に、大きな集落をつくって暮らせるスペースはなかった。そんなところでひしめき合って暮らしているうちに、男たちは旅に出た。
それはもう、自然な成りゆきだった。人間は、他者にまとわりつかれることに耐えられない。女もしんどいが、男はもっと耐えられない。だから、男たちは、旅に出た。
女たちに、山歩きは過酷であるし、子を産み育てるという仕事もある。そしたらもう、男たちが出てゆくしかない。
男たちは、生涯を旅の中ですごし、女たちの集落を訪ね歩いた。
その集落は、ほとんどが10戸ほどの規模だった。
縄文時代、定住することは、女子供にしか許されなかった。山あいには、そういう規模のスペースしかなかった。そして女たちは、定住することの「けがれ」の自覚を深くしながら暮らしていた。
であれば、旅に疲れた男たちとの出会いや、男たちの世話をしてやることは、「みそぎ」であり「カタルシス」だった。
男たちは、定住することの「けがれ」から免れていたが、山道を旅することの疲れを深くしていた。その疲れが、「けがれ」の自覚になった。
縄文時代の男と女は、ひしめき合って角(つの)突きあって暮らすよりも、「出会いのときめき」を交歓し合う関係を選んだ。
そういう男と女の関係の伝統が、古代や中世の村人と旅人の関係をつくっていたのだ。
日本列島の旅(および旅への憧れ)の文化は、そのように形成されていった。
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現在の万葉学の権威である中西進氏は、「旅(たび)」について、次のように語っている。
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古代人にとって一番幸せを感じるのは、家で妻と生活する時間でした。古代、旅に出るというのは大変な決意をともなう、つらい行為でした。日本人は、農耕民族です。農耕社会というのは定住が前提となっており、田畑を耕し食物を生産するのは、自分ひとりの力ではできない。みなが「むら(群)」がって暮らすことから、その集団のことを「むら(村)」というのです。村の一員でなければ生きてゆけない。なのに防人などに選ばれると、ひとりだけ家族と別れ、慣れ親しんだ村社会から離れていかななければならないのです。ですから「たび」というのは、安寧な生活を捨てる、つらく苦しいものでした。「たび」は、非常に古いことばですが、今日に至るまで「たび」の語源は解明されていません。
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古代人にとって旅とはどういうものであったかという解釈で、こんなとんちんかんなことをいっているのだもの、語源に推参できるはずがない。
人間は「不幸=嘆き」を生きようとする。だから定住するのだし、旅にも出るのだ。村にいたいわけではないし、旅に出たくないのでもない。古代人の心に、旅への憧れはなかったというのか。「たび」ということばには、苦しいということばかりで、憧れのニュアンスはまったくないのか。
そんなステレオタイプなことばかり考えているから、いつまでたっても語源がわからないのだ。
「家で妻と生活する時間」を「一番幸せと感じる」のは、「旅」に出てはじめて体験できる。それは、むかしも今も変らない男と女の関係の機微だろう。旅空で、はじめてそれを感じるのだ。だから古代人は、男女が一緒に暮らさないで「通い婚」ということをしていた。「通い婚」だって、ひとつの「旅」なのだ。
それが得られない状況で、はじめてそれが「一番の幸せ」になる。それは、隠されてある。旅に出て、はじめて気づかされる。
「隠されてあるものに気づかされること」、それが「たび」の語源だ。
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「たび=たひ」。
「たいまつ」のことも、古代では「たひ」といった。
おそらく「たいまつ=たひ」ということばが先にあって、それと区別するために「たび」といわれるようになったのだろう。
「たび」と「たいまつ=たひ」はもちろん別のものだが、その音声にこめられた感慨に差異はないのだろう。
やまとことばの原初的なかたちは「感慨の表出」にあるから、そこにこめられた感慨さえ同じであるなら、別のものでも同じ音声で表出される。
「たいまつ」とは、夜道を明るく照らすもの。
「た」は、「立つ」「足る」の「た」。かたちが整うことの安堵・充足から、「た」という音声がこぼれ出る。
「ひ」は、「秘める」の「ひ」、隠されること。「ひ」と発声するとき、息は口の中にとどまり、隠されてある。夜の闇は、すべてを隠している。
「たひ=たび」とは、隠されてあるものが明らかになること。どちらも、そういう安堵・充足の感慨の表出にほかならない。
旅に出ることによって、自分がいかに故郷の人や景色や暮らしを愛していたかを思い知らされる。
故郷に対する愛着は、故郷の暮らしの中に隠されてある。それが、旅に出ることによって気づかされる。
また、古代の旅は、山の向こうに隠されてある未知の世界と出会う、という体験でもある。
隠れていたものに気づいてゆく感慨、そこから「たび=たひ」ということばが生まれてきた。これが、「たび」の語源だ。
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旅とは隠れているものがあらわれてくる体験であり、そこに、この世界の物性にまとわりつかれて存在している人間のカタルシスがある。
隠されてあるということは、まとわりつく関係になることの不可能性であり、まとわりつく関係から解放されていることだ。
人は、隠されてあるものにときめく。
ただ、西洋人が、隠されてあるものを類推し見つけ出してゆくことの達成感によろこびを覚えるとしたら、日本列島では、隠されてあるというそのことにときめいてゆく。
つまり日本列島の住民は、それほどにまとわりつく関係に対する嘆きが深い。
中西進氏は「古代人にとって一番幸せを感じるのは、家で妻と生活する時間でした」というが、たとえそうだとしても、それは、旅の空の下に立ってはじめて実感されることだったのだ。つまり、旅の空の下に立たなければ実感できない。
まとわりつく関係に対する嘆きを深くしたものはもう、旅への憧れから逃れることはできない。
古代の旅がどんなにつらく困難なものであったとしても、やっぱり旅は憧れだったのだ。
縄文人や、古代や中世の旅の僧や旅芸人や乞食など、日本列島には、古代の防人よりももっと本格的に生涯を旅で過ごす人間がたくさん存在していた。それは、定住する村人も含めて、旅への憧れが日本列島の住人の心にどれほど深く浸透していたかを物語っている。それは、「けがれ」をすすぐ「みそぎ」の行為であると同時に「隠されてあるもの」に対するときめきを体験することであり、「旅」(たび)」ということばも、そういう精神風土から生まれてきたのだ。