祝福論(やまとことばの語源)・「離(か)る」と「離れる]

豚インフルエンザは、すでにこの国にも上陸しているのかもしれない。
世界中に広がって、この国だけ何もないというわけにはゆかない。
それがわかったらきっと、さらに大騒ぎすることだろう。
そういう騒ぎぶりも、アメリカからやってきた不況の波に大人たちがうろたえ、派遣切りなどの混乱をきたしたことも、けっきょく人と人がくっついて一緒に暮らしているという、そんな「絆」とやらを正義とする理念にしがみついているからだ。
それは本当に正義であり、人間であることの根源的なかたちであるのだろうか。
離れているものどうしが出会ったときのときめきよりも、そうやって一緒にいることの安心や馴れ合いのほうが大切なことなのだろうか。
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かんたんに世界中のどこへでも行けるようになったから、世界が狭くなったのではない。世界中の誰もが「一緒にいる」という「絆」などというものを正義とするような意識になってしまっているからだ。
西洋人のつくった「近代合理主義」とかいう旗印による強迫が、世界中の人々の心をそんな閉塞した状況に閉じ込めてしまっているのだ。
そんなものの尻馬に乗って正義ぶっている連中が、どこの国でものさばっているからだ。名もない庶民でさえも尻馬に乗せられてしまっているからだ。
人と人がくっつきあって一緒にいれば安心だが、やがて心は澱んでくる。そんな安心にまどろんで生きてゆこうとしているから、「リーマン・ショック」や「豚インフルエンザ」に大げさなうろたえ方をしなければならない。
僕は公共心の欠落したどこにでもいる愚かな日本人だから、豚インフルエンザなんか、お上や専門家でちゃんと処理してくれるのだろうと思っているし、人と人がくっつきあっているという公共心が高くご立派な西洋的「市民」になりたいとも思わない。
政治や社会情勢のことに関心が高くあれこれあげつらうことが、「市民」であることの証しなんだってさ。そんなもの、頭の中がそういう制度性に汚染されているだけのことじゃないか。それでもかまないけど、べつにいばることでもなかろう。
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古代人は、わが身の「けがれ」を自覚していた。それが、「けがれ」ということばの語源とともにある心の動きだ。
しかし現代人は公共心が高いから、「けがれ」なんか自覚していない。「けがれ」は、他人がもっているものだと思っている。だから、クレーマーになって、すぐ人を責めたがる。
このブログも、そんなグロテスクな現代人に、おまえはけがれている、とさんざん責められた。
僕はそんな意識が低くてけがれた存在だから、豚インフルエンザのことなんかお上や専門家にまかせているし、頭のおかしなクレーマーのターゲットにもなってしまうらしい。
古代から中世・近世へと移って共同体の制度が強化されてゆくにつれて、「けがれ」が、自覚するものから、他者を排除するための概念になっていった。
「離(か)る」という古いやまとことばが消えて「離(はな)れる」ということばが生まれてきたのも、そんな時代の移り変わりとともにあったのだろうと思う。
「はなれる」の「は」は、「はかない」「はるか」の「は」、「空間」「非存在」の語義。
「な」は「なれる」「なじむ」の「な」、「親愛」の語義。
「れる」は「……られる」「……される」の「れる」、「受動性」をあらわす動詞の語尾。
「離れる」とは、離ればなれにさせられること。
「はなれる」ということばは、一緒に暮らしている親しいものどうしが離ればなれにさせられることに対してやりきれない気持ちや恨みがましい気持ちを抱く体験を基礎として生まれてきた。
つまり「離れる」ということばは、時代が移って共同体の制度が強化され、人と人が「一緒にいる」ことの正義が定着してきて、それほどに人と人が離れるということにこらえ性がなくなくなってきた社会状況から生まれてきたのだろう。
また、人と人が一緒にいることが正義になって離ればなれになることにこらえ性がなくなるということは、すなわち死の恐怖が肥大化してきた、ということでもある。そういう社会の構造になってきて、もはや「離(か)る」ということばでは「離れる」ということの感慨をあらわしきれなくなり、「離れる」ということばがあらわれ定着していったのだ。
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語源としての「けがれ」の「かれ」は、「枯れる」ではない。「離(か)る」なのだ。
「け」は、「別世界」「異質」「分裂」の語義。
「けがれ」とは、心や体に澱んだ「もの」がまとわりついて「いまここ」に対する反応を失って(=離れて)しまうこと。心や体が澱んだ「別世界」に「離れてしまう」こと。
「けがれ」の「かれ」は、「離(か)る」。
「か」という発声は、声が口の中ではじけて頭に響いてくるような感じがある。だから、頭に血がのぼることを「かっとなる」という。
そして声が頭で響きながら口の中が真空になったような心地がして、息は口の外に離れていってしまう。
声と息が離ればなれになるから、「離(か)る」という。
「かる」という音声には、肯定的な響きがある。離れていればこそ「あなた」のことを熱っぽく想ってしまう。人と人がそのような関係にあったことばだ。彼らは、長く一緒に居すぎると、わが身や関係の「けがれ」を感じてしまった。
それに対して「はなれる」という言い方は、どこか響きそのものに力がなく、離ればなれに「させられる」ことの恨みがましさがこもっている。死んでこの世と離ればなれに「させられる」ことに対する恐怖がこもっている。
「けがれ」ということばは、いまやもう、一緒にいる世界の外にいる第三者を排除するためのことばになってしまっている。
現在の民俗学のリーダーである小松和彦氏や赤坂憲雄氏は、古代や中世の村人にとっての村はいわば聖域で、「けがれ」は山の向こうからやってくる旅の僧や旅芸人や乞食が持っているものだと認識されていた、といっている。
何をくだらないことをいっているのだろうと思う。古代や中世においては、誰もがわが身の「けがれ」を自覚していたのであり、とくに土着の村人こそもっと深くそれを自覚していたからこそ、そうした旅人を歓迎していったのだ。彼らには、旅人から旅の話を聞きながら心の中でいっとき旅の空にさすらってみることによってしか「けがれ」をすすぐすべはなかったのである。
なまはげ」という鬼の旅人を歓迎する祭りも、そういうコンセプトなのだ。
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「離(か)る」という古語を駆逐したのは、一夫一婦制を基礎とする共同体の制度によってつくられた人と人の関係だ。
人と人がくっついて一緒にいることを正義とする共同対の制度が強化されてゆくにつれて、人びとの「離れる」ということに対する意識が変質していった結果だろうと思う。
おそらく、そうした共同体の制度は、近世において、儒教という大陸の思想とともに完成していった。
それは、本当に正義だろうか。
出会いのときめきよりも、くっつきあっていることは、そんなに大切なことだろうか。
古代人は、わが身の「けがれ」を自覚して生きていた。だから、そんなにむやみにくっつきあうことはできなかったし、「離(か)る=離れる」こともそのまま受け入れて生きていた。
他人をけがれた存在として見る意識を助長させているのは、いったい何ものなのだ。
有り余るほどの古語に対する知識をもちながら「けがれ」の「かれ」を「枯れる」と解釈している連中だって、まあ、そういう制度性の範疇でものを考えていているのだろう。