祝福論(やまとことばの語源)・「けがれ」

柳田國男は、「サンカ」などの山の民を、古代の大和朝廷に対する「まつろわぬ(服従しない)」ものたちの末裔であると規定したが、「山姥伝説」もまた、一夫一婦制という当時の新しい家族制度に「まつろわぬ」女の象徴として生まれてきたのだろうと思います。
それは、人と一緒にいることの安心と、人と出会うことのときめきと、どちらを選ぶかという問題だ。
瑣末なようだが、じつはこれこそ根源的な問題であり、人類の歴史も人の一生も、このふたつの生存のかたちをどうやりくり(マネージメント)してゆくかとして動いているのではないだろうか。
人類の歴史はまず、「出会いのときめき」を求めて一ヶ所に人が集まっていったところからはじまっている。
そうして集まってしまえば、一緒にいることの安心に浸ろうとしはじめる。これが、「共同体」の誕生であるのだが、しかしそれは、一緒にいることのうっとうしさをどう克服してゆくかという問題をつねにはらんでいた。
人であるかぎり、生きものであるかぎり、誰もこのうっとうしさ息苦しさから逃れることはできない。
それは、「一緒にいることはすばらしい」という理念(正義)を止揚してゆくことによって解決するのか。
しない。理念や正義では、解決しない。
それは、自殺したり人を殺したりしようとしている人たちに向かって「いのちの大切さ」という理念を説いても空しいだけであるのと同じことだ。
そりゃあ、一緒にいれば安心だ。しかし、安心は、生きた心地ではない。安心は、ときめくことではない。
心がときめいて、はじめて生きた心地を得る。人の心はそのようにできている。
だから「遊び」があり、芸術や宗教も生まれてくる。
宗教なんかよくわからないが、何はともあれそれは、神との「出会いのときめき」の上に成り立っているのだろう。
「空(くう)」とか「悟り」とかその他もろもろのこむずかしい概念を解き明かしたところで、心がときめかなければなんの役にも立たない。神との「出会いのときめき」を果たしたものにはかなわない。
生きてあることは、ときめいてナンボだ。
カミユは「この生のすべてを味わいつくすこと」といったが、味わいつくすとは、ようするにときめくことだろう。
安心は、ときめきにはならない。それは、心が静まることなのだから、心が動くことにはならない。
人々の心が静まり理念や正義に殉じてゆけるのなら、共同体は安泰だ。
しかし心は、動いてしまう。動いてしまうようにできている。
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「一緒にいる」という人や社会との「絆」に安らいでいても、やがて心は停滞し澱んでくる。古代人はそれを「けがれ」といった。
「けがれ」の「け」は、「別世界」のこと。
「がれ=かれ」は、「離(か)る=離れる」の体言。
「けがれ」の語源は、心が「いまここ」から離れて動かなくなってしまうことにあった。たとえば、鬱病みたいなこと。
一般的には、「けがれ」の「がれ=かれ」は「枯れる」と解釈されているが、「枯(か)る」よりも「離(か)る」ということばのほうが古いはずだから、語源的にはそういうことになる。
「枯れる」とは盛りの状態から離れてゆくことだが、「離れる」ことは「枯れる」ことではない。したがって、「離れる=離(か)る」という動詞のほうが先にあったことになる。
離れているものどうしがくっつくことを「噛(か)む」という。逆に、ふたつに離すことを「刈(か)る」という。
離れている関係を一時的にくっつけることを「貸(か)す」「借(か)る」という。この場合の「す」は「能動」、「る」は「受動」の語義。
「勝(か)つ」は、離れた関係に決着をつけること。「つ」は「つける」の「つ」、「接続」の語義。
「けがれ」の「かれ」は、「離(か)る」である。
中西進氏は、「毛」の「け」は「気配」の「け」で、「ぼんやりと漂っているもの」であるといっているが、そうではないだろう。体の「毛(け)」は、「ぼんやりと漂っているもの」ではなく、体を覆っている皮膚とは「異質=別世界」のものだからだ。
それは、身体から逸脱して、ことばのように、ときにその人の人格をあらわしているかのように見える。
バーコードの頭髪じゃあるまいし、普通の頭の「毛(け)」が「ぼんやりと漂っているもの」であるはずがない。それはちゃんと目印になっているのであり、「女の黒髪」にいたっては、女の命であり女の存在証明になっているものだ。
「けはい」の「はい=這(は)う」が、「ぼんやりと漂っているもの」をあらわしているのだ。
まったく、想像力貧困なんだから。
「けはい」とは、「け=別世界」の空気が漂っていること。
「けがれ」とは、人の心や物事が、みずみずしさを失って、別次元の澱んだものになってしまうこと。
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古代人は、心もこの世界の森羅万象も、停滞するのではなく、みずみずしく動いてゆくものだと思っていた。
彼らは、共同体も男と女の関係も、われわれ現代人ほどには「安定」して動かないことを望んでいなかった。現代人はそんな理念(価値観)にしがみついているから、鬱病などという精神の病(=けがれ)を引き起こさねばならない。
古代人は、男と女が一緒に暮らす安定よりも、「出会いのときめき」が生まれる関係のなかで生きていた。
世界中のどの国の歴史もひとまずそういう段階を経てきているはずだが、ただ日本列島はその段階を異常に長く続けてきたわけで、その段階のなかでやまとことばはすでに出来上がってしまっていた。出来上がってしまっていたから、縄文時代が異常に長く続いた。
縄文時代はことばが未熟だったから長く続いたのではなく、すでに完成されてしまっていたから長く続いたのだ。人と人の関係も人の心も、停滞していたから長く続いたのではなく、みずみずしく動いていたから長く続いたのだ。
逆にいえば、人と人の関係や人の心が停滞してきたときに時代が変わるのだ。
共同体の中での人と人の関係や人の心はすぐ停滞してしまうから、時代はめまぐるしく変わっていかねばならない。
日本列島では、本格的な共同体の歴史は、二千年にも満たない。
われわれは、「一緒にいることの安定」という理念に殉じてゆく観念性において、はなはだ未熟なのだ。
われわれは日常の人と人の関係においても、「出会いのときめき」をデザインしてゆかないとうまく生きてゆけないような心のしくみになっている。
安定という理念に殉じようとすると、かんたんに鬱病になってしまう。心が「けがれ」に覆われてしまう。
われわれはすでに「けがれ」ということばをもってしまっているが、このことばをすっかり捨て去ってしまわないと、西洋人のような「理念」に殉じることのできる人間にはなれない。
われわれには、永遠にもちつづけることのできる「理念」などない。「いまここ」との「出会いのときめき」が、われわれの行動様式を支配している。
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お化けを見た人がいる。UFOを見たという人もいる。それは一種の共同幻想かもしれないが、それでもそれは「出会いのときめき」でもあるだろう。心は、「出会う」という体験をしてしまうようにできている。日常生活の中で「出会いのときめき」を失った心が、そういうかたちで帳尻を合わせようとする。
日常生活の中で、コンビニのおねえちゃんにもときめいてしまうなら、お化けもUFOも見るはずがない。
生まれたばかりの赤ん坊は、この世界と出会って、「おぎゃあ」と泣く。われわれの生は、そこからはじまっている。母親との「絆」が生まれたところからではない。
「おぎゃあ」と泣いたあと、母親と出会うのではない。「おっぱい」と出会うのだ。
そこで赤ん坊は、出会うことが生きることだと悟る。
そうして母親との「絆」を感じはじめた二、三歳のころに、その「絆」から逃れようとする第一反抗期が起きてくる。それは、「絆」を「けがれ」として感じはじめたからだ。
人は、「絆」など求めていない。それは、われわれがあらかじめ置かれている「状況」であって、求めているものではない。われわれはそれによって生きた心地を得られるわけではない。
「一緒にいる」という「絆」は、「けがれ」を生む。
生きた心地は、「出会いのときめき」としてやってくる。
あなたは、それをどうやりくりして生きてゆくのか。
内田樹先生のように「絆」だけを信じ、「絆」ばかりを後生大事に抱えて生きてゆくのもひとつの方法であろうが、それによって「絆」が大切だという「理念」は守られるだろうが、相手とのあいだに「ときめき」が生まれる「空間=すきま」を喪失したまま、しだいに澱んだ関係になってゆく。「けがれ」が生じてくる。そうして、相手を息苦しくさせてゆく。
内田氏は、奥さんや娘さんに嫌われたのではなく、息苦しくさせてしまったのだろう。そのとき彼女らは「けがれ」を自覚し、「みそぎ」の旅に出た。
「みそぎ」とは「身(み)を削(そ)ぐ」、体にまとわりついた「けがれ」を削ぎ(=すすぎ)落とすこと。
古代人は、停滞する関係における「けがれ」というものにとても敏感だった。それに対してわれわれ現代人は、「絆」を止揚する「理念」によって「けがれ」の自覚を忘れ、停滞それ自体を生きようとしている。そんな生き方を礼賛したり扇動したりする言説があふれている。
そして、「絆」から逃れようとする若者の悲鳴もあちこちから聞こえてくる。彼らは、日本列島の歴史的な意識としての「けがれ」を自覚している。
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あなたは、みずからの生から「けがれ」ということばを抹殺することができるか。
あなたの心にまとわりついてくる「もの=けがれ」は何もないのか。
あなたは、そんなに清らかな人間であるのか。
清らかでなくてもかまわない、と居直ることができるのか。
僕は、清らかではない人間だが、清らかでなくてもいいはずがない、と思っている。
俗物どうしが、たがいの俗物根性を許しあい居直りあって仲良くしている景色なんか、うんざりだ。できれば、しらんぷりして通り過ぎたい。
僕は、自分を許すことも自分を清らかにすることもできないが、自分を捨てて忘れることはもしかしたらできるかもしれない。少なくとも「あなた」にときめいているあいだだけは。
それは、「あなた」の清らかさと出会うからではない。あなたの中に清らかなものが隠されてある、と思えるからだ。
たぶん、誰の中にも清らかなものが隠されてある。
他者とは、隠す人だ。
隠されてあると信じることができたとき、人は人にときめくことができる。
「空間=すきま」をはさんで向き合っているから、そう信じることができる。「一緒にいる」関係としてくっついてしまえば、相手の胸の中に手を突っ込んで確かめようとしてしまう。