祝福論(やまとことばの語源)・「神」になる瞬間

やまとことばの語源を考えることは、古代人の心の動きに推参することだと思っています。
彼らの心の動きは、われわれ現代人よりもずっと率直で繊細で深く豊かだったのだろう、と思っています。
「迷(まよ)う」とは「ま・よう」で、「ま」という音韻で「酔(よ)う」を強調していることばだといっている人がいます。
つまり、あのときクサナギ君の「酔う」ことは「迷う」ことだった、と。
知ったかぶりして、しゃらくさい物言いだ。
そうでしょうか。僕は、そう考えない。
まあ僕だって、これからしゃらくさい物言いを展開しようとしているわけだけど。
古代人にとって、「酒に酔う」ことは、それなりに貴重な体験だった。だから、神様に「お神酒(みき)」を供えた。
古代において酒は、ある意味で神聖な飲み物だったのだ。
「さけ」の「さ」は、「裂く」の「さ」。人格が裂けること。つまり、神に憑依すること。あるいは、神になること。
「け」は、「別世界」の語義。
「酒(さけ)」とは、気持ちが裂けて別世界に入り込んでゆくことのできる飲み物。
とりあえず、そういうことでしょう。
「酔う」ことは。「迷う」ことではないのですよ。気持ちが単純あるいはシンプルになって、むしろ「迷い」がなくなるのが「酔う」という心の動きです。だから、ストレス解消になるのだし、裸にもなれば、「神」になった気になって話がくどく説教じみてきたりもする。
古代人にとっての「酔う」という感慨は、べつに「迷う」というようなことではなかった。彼らは、ちゃんと「酔う」という心の動きの本質を知っていた。ときにそれは神との「出会いのときめき」でもあったし、だから、「美しい音楽に酔う」とか、「感動」することを「酔う」ともいうようになった。
「よう=よふ」の「よ」は、「寄(よ)る」の「よ」。「夜」は、昼間から寄っていった時間帯のこと。
では、なぜ「よる」ではなく「よふ」かといえば、「る」という動詞の語尾は「なる」の「る」のようにスムーズにことが起きることをあらわしているのにたいして、「ふ」は「ふるえる」の「ふ」で、ちょっととくべつな体験だからでしょう。
たとえば、「あなた」になついていって「すりよる」ことと、「あなた」にときめいて「ふるえ」ながら立ちつくすことの違いのようなことです。
「よふ」の「ふ」には、古代人のそういう感慨がこめられている。
で、「まよふ」の「ま」は、「間(ま)」の「ま」。「まったり」の「ま」、「充実」の語義。古代人は、「充実」は、「外部」ではなく、「間(ま)=内部」にあると思っていた。「ま」と発声するとき、口の中にやわらかく息が満ち、声は、口の中と外の「あいだ=間(ま)」で響いている。
「待(ま)つ」の「ま」。「待(ま)つ」とは、「あなた」と会うまでの「あいだ」のまったりとした時間のこと。
すなわち「まよふ」とは、「間(ま)」という迷宮に入り込んで心が震えていること。古代人にとって「まよふ」ことは、かならずしもネガティブな体験ではなかった。恋のくるおしさは、ある意味で「まよふ」とい心の動きだが、それはそれで豊かな体験でもあるはずです。
女が洋服を買うときに迷いに迷うことは、それはそれで充実した体験でもあるのでしょう。
「うれしい悲鳴」ということばだってあるじゃないですか。
人生に「迷う」ことの中にも、人生の深く豊かな体験はあるでしょう。
「迷う」ことや「酔う」ことを社会通念の範疇でステレオタイプに考えているだけだから、それらのことばの解釈もそんなふうに薄っぺらになるのだ。
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クサナギ君の素っ裸になった狂おしい行為を、ただの社会通念的な「迷う=酔う」ということばの解釈に押し込めてわかったつもりになっているなんて、考えることが安っぽい。
また、クサナギ君の記者会見は彼の誠実さが出ていてよかった、とほかのタレントたちがいっていたが、そういういい方もちょっと気に入らない。
クサナギ君が誠実な人であることくらい、わかりきっていることだ。あんなことをしてしまった、と彼の誠実さを一瞬疑ったとしたら、それはおかしい。誠実な人だからこそ、酔っ払ってあんなふうになってしまうことがときどきあるのだ。
「裸になって何が悪い」といったとき、彼は、「神」になっていたのだと思う。
僕はあの会見を見て、ふと、この人はこんなにハンサムだったのか、と思った。
今までの彼と違って、男らしい色気も漂っているように感じさせられた。
なぜだろうか。
いままでの彼は、「僕を見て」という自意識というか、さもしいスケベ根性がその表情にあらわれてしまっていた。
しかしあのときだけは、そんな自意識が一切なく、ひたすら見られることに耐えていた。ことがことだけに当然といえば当然のことなのだが、それが彼をハンサムにしていたのではないだろうか。
人に見られるのは、うっとうしいことだ。そのことを誰よりも深く知っているのが、スターのスターたるゆえんだ。
一流のスターは、「私を見て」となんか思っていない。彼らにとって見られることは当然の前提であり、その前提にひたすら耐えているだけだし、美しくかっこよくなければ耐えることはできない。
「私を見て」と思っているあいだは、まだ二流なのである。
そのへんが、キムタクとクサナギ君との差だったのかもしれない。
キムタクが、道行く人の顔をじろじろ見るだろうか。そんなことをして見られていることをだめ押しのようにいちいち確認していたら、よけいにうっとうしくなるばかりだ。彼は、ひたすら見られることに耐えている。
「いい人」は、「いい人」であるがゆえに、「私を見て」という自意識を捨てきれない。自分にはそう思っていい権利がある、とどこかしらで思っている。
しかし、人に見られることはとてもうっとうしいことだし、人間なら誰だって「私を見て」と思っていいような柄ではないのだ。そんなことを思う資格のある人間などどこにもいないし、人のことをじろじろ見るなんて失礼なことだ。
それでも人は、人にときめいてしまうわけで、ときめいたらつい見とれてしまう。自分もそうだし、人もそうだし、みんなそうだ。
だったらもう、見られることに耐えるしかない。
人は、見られるために服を着ておしゃれをするのではない。見られることに耐えるためだ。
「私を見て」という自意識が透けて見えるおしゃれは、野暮ったい。
あのときクサナギ君は、深夜の公園で素っ裸になって、誰からも見られていないという大きな解放感と、記者会見に出てみんなから見られているというひとしおの息苦しさを体験した。
これで彼は、役者としてアイドルスターとして、ひと皮むけるかもしれない。
なるべく早く復帰したほうがいい。できれば今すぐ復帰して、見られることのつらさに耐えたほうがいい。
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最後にもうひとこと。
茂木健一郎氏とその一派の知識人たちが、「精神(意識)の志向性」などという陳腐な概念を振りかざしていい気になっていて、これも大いに気に入らない。
「志向性」などと安易にいってもらっては困るのだ。
それは、人間は「監視」する生き物だ、といっているのと同じなのですよ。
精神(意識)の根源が「志向性」としてあるのなら、人間の歴史はもう、人と人が徹底的に「監視」しあうところまで行き着いてしまうしかないのですよ。
現代社会はたしかにそんなふうになりつつあるが、それは共同体の制度性(=共同幻想)の問題であって、人間の精神(意識)の根源の問題ではないでしょう。
「精神の志向性」だなんて、ものすごく制度的な物言いだと思う。そんなふうに制度性にどっぷり浸った思考しかできないくせに、いっちょまえに自由人を気取っているのだから笑わせてくれる。
まあ、制度的じゃないと人気者にはなれないのだろうが。
日本列島の住民の「深くお辞儀をする」という挨拶は、「私はいまあなたにときめいているけど、あなたを監視することはしません」という精神を表現する態度なのだ。
日本列島の昔の人たちの「見るまい」という心の動き、その精神の根源性は、おまえらみたいに中学生の雑談みたいなことばかり考えているやつらにはわからない。
彼らによると、意識の発生は、「トリガーのない発射」なのだそうです。
「トリガー」とはつまり、「契機」とか「原因」というようなことです。
意識は、そんなふうに勝手に発生してくるのか。
そうじゃないでしょう。
はじめに「脳(=身体)」と「世界」との関係が発生し、それが「トリガー」となって「意識」が起きてくるだけでしょう。
「トリガー」のない意識のはたらきなどあるものか。この世界の現象は、すべて「契機」があるのだ。それは仏教用語としての「契機」でもいいのだが、そういう「契機」に鈍感なやつらが「志向性」などとあほなことを言い出すのだ。
「ことば」だって、人間存在の実存的な「嘆き」を「契機」として生まれてきたのであって、意味を「志向」して生まれてきたのではない。「意味」は、ことばから、つまりことばを「契機」として生まれてきたのだ。
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見ようとして見るのではない。「あなた」にときめいているから、つい見とれてしまうだけだ。見ようとして見る「志向性」を失ったまま「あなた」に「見とれてしまう」、人間の精神は根源においてそういうタッチを持っているから、スターは見られることに耐えているのであって、見ようとして見るのならただの「監視」なのだからうっとうしいだけだ。
男のくせに「志向性」を発揮して「監視」ばかりしていると、嫌われるよ。
内田樹先生は、いつも人を吟味する志向的な視線をぎらぎらさせてばかりいて、女房子供に逃げられた。
「あなた」の美しさを吟味しても、「あなた」にときめくことはできない。そんな手続きなど忘れて「あなた」に見とれてしまったときが、ときめいているときだ。そういうときは、女もスターも、許してくれる。許してそれに耐えてくれる。
生きることの何たるかがわかれば、自殺しないですむのか。あなたもかけがえのない人間だとか、命の大切さとやらを教えてやれば、人殺しや自殺はなくなるのか。
そんなものじゃないでしょう。
かけがえのない人間なんかいないし、命なんか大切でもなんでもない……彼らのそういう気持ちを変えることはできない。なぜなら、ほんとにかけがえのない人間なんかいないし、命も大切なものでもなんでもないからだ。
彼らが、自分や他人を殺してしまうことを思いとどまるとしたら、この世界に対するときめきを体験したときだろう。
人間は、根源においてそういう心の動きをもっている。
「志向性」を発揮して「わかる」ことは、なんの解決にもならない。みんなわかったつもりになって、そんなややこしいことを繰り返しているのだ。そういう「制度性」の裂け目の向こうに「ときめき」があるわけで、だから人は酒を飲むのだし、スターに憧れたりもするのだ。
「志向性」を放棄した人間は、すなわち「精神の志向性」が薄い精神ほど、この世界にときめいている。
制度的な「精神の志向性」を放棄することが、酒を飲むことであり、スターにあこがれることだ。
ただの俗物が、薄汚い「精神の志向性」とやらを大騒ぎして自慢してやがる。