不意の出来事・アンデルタール人論119

ネアンデルタール人関連の本で語られている「あるときその洞窟が放棄された」という考古学の証拠は、集団ごと移住していった、ということを意味するのではない。集団のものたちが別れ別れ(散り散り)になっていっただけのことであり、そうやって集団の離合集散を繰り返していたのが彼らの人と人の関係であり社会の生態だった。
人と人の関係は、「別れのかなしみ」と「出会いのときめき」の上に成り立っている。それが、二本の足で立っている人間存在の根源的な心模様であり、原始社会だってそうした淡くゆるやかな人と人の関係の上に成り立っていた。そうやって集団の離合集散が起き、地球の隅々まで拡散していった。
氷河期の寒い冬が続くようになると、人口が減少すると同時に、ひとつの洞窟によりたくさんの人が集まってきて、小さな集団が消滅してしまうことも少なくなかった。そして暖かい時期になれば、ふくらみすぎた集団がばらけてゆく。ばらけながら、血も文化もどんどん拡散・伝播してゆく。それが、「人類拡散」の歴史を背負って極北のその地を生きていたネアンデルタール人の、身に沁みついた生態だった。
「人類拡散」は「別れ」の歴史だったのであり、住みよい土地を求めてとか、そんなことではない。思春期の少年少女が家族という集団の外に出て新しい恋や友情と出会うように、哺乳類の動物だけでなく鳥でも魚でも、まあすべての生きものが成長すれば「別れ」とともに旅立ってゆく。単体生殖の微生物だって、体が大きくなってくると細胞分裂する。われわれの体も、日々新たに細胞が生まれ変わっている。生きものの生きるいとなみの本質・自然は、「別れる=分かれる」という現象にある。
生きものの体が成長することは、ひとつの「けがれ」がたまってくる現象であり、それはもう人だろうと単体生殖の微生物だろうと同じで、その「けがれ」をそそぐ「みそぎ」の体験として「別れる=分かれる」ということが起きてくる。そうやって思春期の若者は家族の外に出て新しい人と人の関係に出会ってゆくのだし、原始人が地球の隅々まで拡散していったことだって、まあそのような「出会いのときめき」とともに起きてきた現象だった。
誰かが「人間は本能が壊れた生きものである」などといっていたが、そうじゃない、人間だって「本能(のようなもの)」に添って進化してきたのであり、人間は、猿よりももっと本能的な生きものだともいえる。
「人類拡散」という「別れ」と「出会い」の体験、それは、この生の根源に遡行してゆく現象だった。


ネアンデルタール人の集団がばらけてゆく危機は、気候が温暖化するなどして集団の「生き延びる能力」が上がってきときにこそあった。そのときにこそ集団の「けがれ」がたまってくる。これはもう、戦後のこの国の核家族という集団が崩壊していったことだって同じで、人類史の普遍的な法則だともいえる。
文明史においても、栄耀栄華を誇った権力集団は、すべて滅びていった。そして今や「市民社会」だの「民主主義」だのと叫ばれているが、その「平和で豊かな社会の幸せ」という栄耀栄華に浸っている「市民」のあいだに、たとえば認知症鬱病やインポテンツや発達障害やいじめや家族崩壊等々の「けがれ」が蔓延しはじめている。
古代のローマ帝国も現代のソビエト連邦も、フランスのルイ王朝もこの国の平安時代の貴族も、すべては、栄耀栄華の「けがれ」とともに衰弱し自滅していった。栄耀栄華、すなわち「生き延びることができる幸せ」が「けがれ」なのだ。そういう「幸せ」に浸りながら自滅していったのだ。
人間性の自然は、生きられなさを生きることにある。そこでこそ心が華やいでゆく。「生き延びることができる幸せ」に浸りながら心は停滞・衰弱してゆく。
平安時代の貴族たちは、悪霊や怨霊に悩まされていた。今なら、強迫神経症ということになるのだろうか。この国の歴史においては、そういう心の停滞・衰弱という「精神病理=けがれ」は、いつだって栄耀栄華という「生き延びることができる幸せ」に浸っている権力階級からはじまっている。
幸せなときこそ精神の危機なのだ。そんなところに人間性の自然=本質があるのではない。人は、幸せに浸りながらというか、幸せを追求しながら精神を病んでゆく。幸せであろうとあるまいと、社会的に成功しようとするまいと、「生きられなさを生きる」ことこそ人間性の自然であり、人間的な知性や感性の輝きがある。
ネアンデルタール人は、その極寒の環境で誰もが生きられなさを生きながら、豊かにときめき合い、豊かに献身し合いながら生き残っていった。気候が温暖化して生き延びることができるようになってきたときこそ、彼らの集団の危機だった。人はもともと「ここにはいられない」という「嘆き」を心の底に抱えている存在であり、そういう「嘆き」を共有しながらときめき合ってゆく。つまり、そうやって「ここにいる」ことができる。そういう「嘆き」が薄くなり共有できなくなれば、避けがたくここにはいられなくなってしまう。
それはもう、思春期の若者たちが家族の外に出て「家族の中にはいられない」という思いを共有しながらときめき合ってゆくのと同じであり、そうやってネアンデルタール人の集団がばらけていった。そうやって彼らは旅に出て、新しい「出会いのときめき」を体験していった。彼らの社会では、気候が温暖化してくることによって「クロマニヨン=ホモサピエンス」というアフリカから伝播してきた新しい血が広く共有されていった。その動きは、北の地域の方が先に活発になっていった。なぜなら北の方が、「ここにはいられない」という気持ちが切実だったし、寒さに耐える気質も体質も文化も発達していたからだ。そうやって、いち早く「生きられることのけがれ」を自覚していった。
生きものの命は、生と死のはざまではたらいているというか、そこでこそ活性化する。人類は、「生きられなさを生きる」ことによって文化すなわち人間的な知性や感性を進化発展させてきた。
原始人や古代人は生きられることの「けがれ」を自覚していたし、現代人は逆に生きられることに執着している。それが人類の普遍的な願いだと決めつけ、それを目指すことが正義だと合唱している。
いずれにせよ、「生きられることの幸せ」によって人の心は停滞・衰弱してゆくのだ。そうやって現代人は、さまざまな精神病理を抱え込んでしまっている。古代においては、そんな「幸せ」や「精神病理」を抱え込んでいるのは支配者階級だけだったが、今や一般の「市民階級」にまで及んでいる。あのバブル景気のころは、多くの一般市民までもが平安貴族のような栄耀栄華を謳歌していた。普通のOLだって、争って高級ブランドの衣装やバッグを身につけ、毎年のように海外旅行に出かけていた。


人は、生きられない無力な存在の赤ん坊として生きはじめ、体の成長とともにしだいに生きる能力を身につけてゆく。それは、「けがれ」を負ってゆくことなのだ。二、三歳の第一反抗期であれ、思春期の第二反抗期であれ、みずからの身体の「けがれ」を自覚しはじめる時期にほかならない。そうやって母親との一体感から離れ、家族の外に出て新しい出会いのときめきを体験してゆく。
この生のいとなみは、「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」の上に成り立っている。どんなに「幸せ」が大事でも、「幸せ」はひとつの「けがれ」であり、「幸せ」の上に居座っていることはできない。
この世に「幸せ」の追求だけに邁進できる人は、そうそういない。誰もがその道からはぐれてゆく「別れ」と、はぐれていったことによる新しい 「出会い」を体験しながら生きている。人と人の関係それ自体に、「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」が通奏低音として響いている。
人と人は、一瞬一瞬の「出会い」と「別れ」を繰り返しながら向き合っている。一瞬一瞬相手の前に現れ、一瞬一瞬相手の前から消えている。根源的には、そのようにして人と人のときめき合う関係が成り立っている。
「共生」などという「一体感」の関係など、たんなる病理的な関係にすぎない。たとえ一緒に暮らしていても、それを成り立たせるために「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」が作用しているのだ。まあ「かなしみ」もひとつの「ときめき」であり、その関係意識を失えば、たちまち「けがれ」がたまってきて、心も関係そのものも崩壊してゆくしかない。
今どきの親は、平気で子供に干渉してゆく。夫婦だって、平気でなれなれしく相手に干渉していったりしている。いや、社会的な関係の中にもそういう傾向はおおいにある。そんなことをしたら嫌われるだけだ、ということがどうしてわからないのだろう。いや、たとえわかっていても、自分の正当性を守り確認するために知らず知らずそうしてしまう。正義を旗印に干渉してゆく。仲良くするにせよしないにせよ、しらずしらずそんな密着した関係をつくってしまう。まあ、密着した関係をつくることが正義の世の中だから、それで成功する人も多いが、そのために挫折してしまうしかない人だって少なくない。いくら社会的に成功しても、プライベートの人と人の関係はそれでうまくいくとはかぎらない。


心がときめかないということ。どんなに上手に生きても、どんなに幸せでも、心はときめいていない。彼らは、他者の心がわかっているつもりでいる。他者の心も人格も「わかっている」という前提で干渉してゆく。
「わからない」という不幸に身を置くことができないから、そのときその場で他者の心のあやに気づき感じたりしてゆくことができないのだし、そうやって人間的な知性や感性が崩壊してゆく。
彼らの中では、「自分は他者にときめかれている」という前提を持ったまどろみと、「自分は他者に嫌われている」という前提の緊張が交錯している。そうやって他者との関係の中にいても、意識はつねに自分に向いているばかりで、彼ら自身は何もときめいていない。ときめいていないから、仲良くするためのマニュアルにたよる。マニュアルは、密着した関係の中でしか機能できない。彼らの関係意識においては、「出会いのときめき」も「別れのかなしみ」もない。密着した関係のまどろみか憎しみかのどちらかがあるだけで、何もときめいていない。
それじゃあ、嫌われる。社会的なうわべだけの付き合いならマニュアルでなんとでもなるかもしれないが、それじゃあ、親密な関係になればなるほど嫌われてしまう。
成功するにせよ挫折するにせよ、今どきは、そんな嫌われ者の大人がとても多い世の中になってしまっている。そうして、嫌われ者どうしで仲良くしている。嫌われ者どうしのネットワークをつくれば成功する。しかしその成功の栄耀栄華に浸りながら精神を病んでゆくものも多い。密着した関係の中でしか生きられない彼らは、人と人の関係は「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」の上に成り立っているという人間性の自然にしっぺ返しされている。
人の心のあやはそのときその場で生まれては消えてゆくものであり、そのときその場で感じ合っていかないと自然な人と人の関係は成り立たない。生き延びる未来が約束されていないネアンデルタール人はそういう関係を生きることにことのほか切実だったのであり、だから、集団の離合集散もたえず起きていた。それに対して生き延びることが約束された平和で豊かな現代社会の大人たちは、そういう「即興性」を生きるタッチを失いながら認知症鬱病やインポテンツになってゆく。自分は幸せだとどんなに自慢して満足に浸っていても、心はすでに崩壊している。
人と人のときめき合う関係なんか、出たとこ勝負なのだ。ときめき合うことが約束された関係なんかないし、約束されているということはときめき合っていないのと同じなのだ。生きてあることは、一瞬一瞬が「不意の出来事」であり、そこでこそ心は華やぎときめいてゆく。