今どきのジェネレーションギャップ・ネアンデルタール人論118

戦後の核家族のもとで子供は、幼児体験として親との一体感を体験させられる。親に愛されたとか愛されなかったというようなことではなく、心が親に囲い込まれてしまうというか、親との密着した関係に置かれてしまう、という体験だ。そしてその体験を一生引きずって生きてゆく。
現代社会は、妙に人と人の関係が密着している。なれなれしいというか、そうやって追いつめたり追いつめられたりしながら、この国の伝統である「淡くゆるやかな関係を保つ」というタッチが希薄になっている。
戦後の核家族は、家族の絆が弱くなって崩壊していったのではない。家族の関係が密着しすぎていった結果なのだ。
内田樹などは、50年代60年代の一家団欒のホームドラマこそ家族の理想のように語っているが、そのなれなれしい家族関係のなれの果てが現在の「家族崩壊」なのだ。鬱陶しいから「崩壊」が起きるのであって、淡い関係の家族は、そうかんたんには崩壊しない。もともと家族らしくない家族なのだから、崩壊しようがない。そしてそこにこそ、より豊かなときめき合う関係がある。
人と人は、淡い関係においてときめき合うのだ。
戦後の核家族のなれなれしく干渉し合う関係の鬱陶しさというのは、すでに50年代からはじまっていた。そのなれの果てとしての団塊世代がいかにはた迷惑な存在かということは、あとの世代の誰もが感じている。なれなれしく干渉してくるからはた迷惑なのだ。
上野千鶴子だって、「自分たちが若者だったころは現在の若者たちよりも人間形成の環境に恵まれていた」などといけしゃあしゃあといっている。団塊世代の人間形成なんて、なれなれしく干渉し合うスキルと意欲を騒々しく振り回してきただけであり、戦後の「家族崩壊」は、団塊世代が親になったころから加速していった。
団塊世代が加速させた「家族崩壊」とは、親が子に慕われないことと亭主が女房に対してセックスアピールを持たなくなってしまうことが、もっとも顕著な傾向だろうか。家族の関係がなれなれしくなってしまったらそういう結果を招くに決まっている。内田樹などはその二つをそのまま絵にかいたようなかたちで実体験して生きてきたくせに、それでもまだ、なれなれしい一家団欒のホームドラマこそ理想だと言い張っている。
まあ、団塊世代だけを責めてもしょうがない。今や社会全体の人と人の関係がなれなれしいものになってきているし、同時にその鬱陶しさから逃れて心が旅立ってゆく若者も増えてきている。
なれなれしい関係にはまり込んで右往左往していた団塊世代やバブル世代(このごろでは「アラフィフ」というらしい)の若者時代よりも、現在の若者たちのほうがずっと若者らしいみずみずしい感性を持っている。彼らは人に対する「はにかみ」と「ときめき」を持っている。人間性の自然としての「遠い憧れ」を持っている。
まあそうやって今どきは、大人たちが目障りで若者が生きにくい世の中になっている。


もう少し戦後の「家族崩壊」について考えてみよう。
関係が密着しすぎているからDVとかが起きる。
親を憎んでいるのに家族の外に出ていけない「ひきこもり」というのもよくあるらしい。
そうやって親に囲い込まれた幼児体験からいつまでたっても抜け出せないし、社会に出てからの人と人のの関係も密着した予定調和のマニュアル的なものになってゆく。人によってそれぞれその傾向に濃淡はあるにせよ、彼らは人にうまく反応できない。
「一体感」を持ってしまえば、反応する必要がない。自分は他者であり、他者は自分なのだ。そうやって意識は「自分」に向いたままになっている。「一体感」とは、ミーイズムなのだ。
幼児体験として「一体感」を持たされてしまい、そのあとはもう無数の喪失体験を繰り返しながらルサンチマンを蓄積してゆく。人が生きることは、いろんな意味で喪失体験なのだ。人と別れることや好きになってもらえないことや物を失くすことだけでなく、時間が過ぎてゆくということ自体が喪失体験に違いない。それはもう、誰もが等しく体験しながら育ってゆく。そして、一体感を希求したり一体感を持ったりする幼児体験をしたものほど、そのこと耐えられないでルサンチマンを募らせてゆく。だから彼らは自分のまわりに対する警戒心や緊張感が強く、それが社会的に成功してゆく今どきは資質になったり、心が病んでしまう原因になったりしている。彼らは人の「心のあや」に気づいたり反応したりすることができないわけで、それが強みにも弱みにもなっている。たとえば、人を支配することは相手と一体化するることであり、彼らはそうやって人を支配しにかかってそれが自分の相手に対する愛だと思っているのだが、そうやってコミュニケーションの能力を磨いてゆくものもいれば、そうやって親密な関係になると決まって相手に逃げられてしまうという人生を生きねばならなくなったりもする。
人に反応して人の心のあやに気づいてゆくのは、人との淡くゆるやかな関係に身を置くタッチを持っていないとできない。そしてそんなタッチを持つなら、「共生=一体感」を目指す「コミュニケーション」というなれなれなれしい関係に対するはにかみがあるから、どうしても自己主張することにためらう生き方になってしまう。そうやって、「草食男子」と呼ばれる若者の一群が登場してきた。それはきっと日本列島の伝統に根差した健康な心模様なのだろうが、今どきは社会全体が密着した関係で動いているから、なんだか変種のように見られてしまう。
戦後の経済発展のダイナミズムは、人と人の密着した関係に負うところも大きい。日本中が一体感で盛り上がっていた。バブル経済はもう、浮足立った妙な一体感で突っ走って、そのあげくにあっけなく頓挫してしまった。そしてその反動として、「草食男子」やら一流企業に入ってもすぐやめてしまう若者など、人との「一体感」を持つことに対する拒否反応を持ったものたちがあらわれてきた。もともとこの国には人と人の関係を淡くゆるやかなものにしておこうとする伝統風土があるのだから、それはもうとうぜんのなりゆきだといえなくもない。
まあ、絵にかいたような一体感の関係など家族の中にしかないし、それを武器に成功するものもいれば、その関係の作法しかできなくて挫折するものもいる。そして、その一体感の関係から逃げてきた「草食系」の子供も多い。


現在は、密着した関係の一体感に執着するものと、それに対する拒否反応を持ったものたちと二極化しているのかもしれない。もちろんその中間のグラデーションもあるわけだが、その二極構造はまた、バブル時代を生きてきた大人たちとその反動として登場してきた草食系の若者たちとのジェネレーションギャップにもなっている。
今どきの大人たちによる人と人の関係は、どうしてこうもべたべたしているのだろう。マニュアルで付き合っているというそのことがべたべたしている。関係を密着させなければマニュアルはうまく機能しない。人との関係の仕方がわかっているというそのことがなれなれしいのだ。
言い換えれば、関係の仕方がよくわからないということはそれだけ淡くゆるやかな関係が保たれているということであり、そこでこそ人間性の自然・本質である「遠い憧れ」が機能している。
「遠い憧れ」を抱いて向き合うということ、親しくなければそれも可能だが、親しくなったとたん、どうして現代人はなれなれしく干渉し合うようになってしまうのか。
今どきは、核家族に象徴されるように親しいものどうしの密着した関係が強化されて、見知らぬ人にときめく、という心映えを失っている。
世界は輝いているのだ。警戒し緊張する必要なんか何もない。自分の正しさや自分が生き延びることに執着するから、まわりを警戒し緊張しなければならない。警戒し緊張しているから、それらの執着しなければならなくなる。それは、豊かな心の動きのように見えて、じつは意識の焦点が散乱したまま一点に焦点を結べなくなっている状態であり、むしろ停滞・衰弱している。まわりのすべてが等価に見えてしまったら、一点に焦点を結んでゆくことはできない。つまり「ときめく」という心の動きが起きてこない。
心が動くとは、「一点に焦点を結んでゆく」ことなのだ。あれこれに同時に焦点が結ばれてしまうと、「ときめく」という「一点に焦点を結んでゆく」はたらきが希薄になってくる。
人類の文化の起源は、「今ここの一点に焦点が結ばれてゆく」意識のはたらきとともに起きてきた。「世界の輝き」に対する「ときめき」が、人を生かしている。
人は飢えても心を病むことはないが、「ときめき」を失えば、たちまち心が病んでゆく。もちろん食い物が体のはたらきを支えているのだが、心のはたらきを支えているのは「ときめき」であって、食い物に対する欲望すなわち生き延びようとする欲望にあるのではない。どんなに食いものと生き延びることが確保されていても、「ときめき」を失えば、心は心であることができなくなってしまう。
われわれは、自分の外のまわりを警戒し緊張していたら生きられない。まわりを警戒し緊張していたら「ときめき」なんか起きてこない。
他者との密着した関係すなわち「一体感」を持てば、そこだけで世界が完結して、まわりのことを忘れていられる。そうやって警戒し緊張することかとから逃れられたとしても、まわりの世界にときめいているわけではない。依然としてまわりの世界は警戒と緊張の対象でしかない。その「一体感」に逃げ込むことによって、さらにまわりの世界に対する警戒と緊張が肥大化してゆく。
現代人は、そのようななれなれしい関係に潜り込みながら、まわりの世界に対する警戒と緊張を飼い慣らして生きている。そうやって、自意識を肥大化させてしまっている。
自意識とは、まわりの世界に対する警戒と緊張のことであり、他者との一体感に浸ろうとする心のこと。そうやって他者を説得し、支配しにかかる。それは、文明社会の発展とともに肥大化してきた。自意識が他者とのなれなれしい一体感を失えば、たちまち世界に対する警戒心と緊張感がむき出しになって荒れ狂う。自意識の強いものほど他者を必要とし、他者との一体感を欲しがる。幼児体験として親との一体感をを持たされたものは、どんどん自意識が強くなってゆく。その一体感は、まわりの世界に対する警戒心と緊張感を肥大化させる。


生きものの自然というか本能(のようなもの)は、生き延びようとしてたえずまわりの世界に対する警戒心と緊張感を募らせていることにあるのではない。そんな状態でいたら、なお危険を察知することが遅れてしまう。無防備のままどこにも焦点が合っていないからこそ、いざ異変=危険が発生したときには、たちまちその一点に向けて焦点を結んでゆくことができる。
生きものの生は、そういう綱渡りのような逆説の上に成り立っている。
無防備だからこそ、いち早く危険に気づくことができる。
警戒し緊張していたら、かえって気づくことができなかったり、気づいても一瞬遅れてしまったりする。
危険は、「存在」するのではなく、「発生」するのだ。
シマウマにとってのライオンは、こちらに向かってこないかぎり、危険な存在でもなんでもない。だから、ライオンがそばにいても悠然と草を食んでいられる。それは、こちらに向かってきたときに、はじめて危険な存在になる。
そのときシマウマは、ライオンが襲ってくるかもしれないという「未来の予測」などいっさいしていない。あくまで「今ここ」において「発生・出現」した危険として察知する。ライオンを見ただけで逃げるということをしていたら、サバンナでは生きられない。ライオンのいないところに行くしかない。
生きものの自然=本能(のようなもの)に、「未来の予測」というはたらきなどない。シマウマが危険を察知するにせよ、人が世界や他者の輝きにときめいてゆくにせよ、それは、「今ここ」という一点にどれだけ鮮やかに焦点を結んでゆくことができるか、という問題なのだ。人間的な知性や感性だって本質的にはそういうはたらきであり、「未来の予測」などしない「無防備な心」にこそ人間性の自然が宿っている。
まあ、「未来の予測」をしつつまわりの世界を警戒し緊張している心のはたらきは、人間よりも猿のほうがずっと強い。人間は、猿よりもずっと鮮やかに「今ここ」の一点に焦点を結んでゆくことができる。その「無防備な心」にこそ人間性の自然があり、それによって人間的な知性や感性が進化発展してきた。人類の文化の起源の問題はそこにこそあるのであって、世の凡庸な人類学者たちが合唱しているような「未来に対する計画性」などという問題ではない。言葉の起源にしろ、火の使用の起源にしろ、石器の発見発達にしろ、埋葬の起源にしろ、すべてそういう問題として問い直されるべきであり、それはまた、われわれ現代人が合唱する「よりよい未来(の社会や人生)をつくる」という正義がはたして人間の本性にかなっているのかという問題でもある。そんなことばかり合唱しているから現代人の心は病んでゆくのであり、人と人の関係もおかしくなってしまうのではないだろうか。


未来は現在よりもよりよいものであらねばならないのか。そういう欲望を膨らませるのは、「今ここ」の一点に焦点を結んで「今ここ」を生ききることができないという心の停滞・衰弱に陥っている証拠ではないのか。現代人は、そうやって人にときめき人の心のあやに気づいたり感じたりしてゆく心の動きが希薄になっている。
「よりよい未来を目指す」という寒々とした心模様。ニヒリズム、と言い換えてもよい。なにを好き好んでわれわれがそんな現代社会の正義にひれ伏したり踊らされたりしなければならないのか。目指したければ勝手にめざせばいいのだけれど、それが人間の本性だと吹聴されるのは、やっぱり困る。「やめてくれよ、そんなことあるものか」と思ってしまう。
未来などどうでもいいと思えてしまうくらい「今ここ」を生ききっている瞬間は、誰でも体験しているだろう。その体験が人を生かしているのではないのか。そういう心模様がこの生の通奏低音として流れているのではないだろうか。それは心の表面で意識されることはないが、そういう無意識のはたらきを持っているから人は、「今ここ」に対する反応の鮮やかさとしての「ときめく」という体験ができる。そうやって「今ここ」を生ききろうとする存在だからこそ、猿よりもずっと豊かなニュアンスの表情を持つ存在になり、胸に思いがあふれて涙を流したりするようにもなってきた。
よりよい未来に向かって生きようとすることが、そんなに偉いのか。そんなに充実したことなのか。おそらく戦後の核家族は、そんなスローガンとともに密着した関係になりながら崩壊していったのだ。親がそんなスローガンを子供に押し付けた。夫婦が押し付け合った。そして社会が人々にそんなスローガンを押し付け、人々が他愛なくそれに踊らされていった。
人と人の関係は、「今ここ」に鈍感になってゆくことによって密着したものになってくる。ときめき合っていないからこそ、予定調和の約束を持った密着した関係になってゆく。その一体感のまどろみは、まわりの世界を警戒し緊張している強迫的な心模様を肥大化させる。その一体感のまどろみそれ自体が、警戒と緊張という強迫的な心模様だともいえる。
この世界の弱い生きものは、まわりの世界に対する警戒心と緊張感など持っていない。持っていたら、素早く危険を察知することができない。無防備にリラックスしているからこそ、素早く察知することができる。それはもう、人間の世界だろうとシマウマだろうとリスやウサギだろうとゴキブリだろうと同じなのだ。無防備にリラックスしているからこそ俊敏に動くことができるのだし、人の世界では「ときめく」という心の飛躍を持つこともできる。弱い生きものが危険を察知して俊敏に動くということは「ときめく」という体験なのだ、と言い換えてもよい。
人の世の、生き延びる能力を自慢したり生き延びようとあくせくしているものほど、体の動きも心の動きも鈍くさい。彼らは、警戒と緊張で体も心もこわばっている。


自閉症の人が一度にたくさんのことを記憶できるというのは、意識の焦点がまわりの何もかもに対して等価に結ばれているからであり、そうやって警戒し緊張しているからだ。彼らは、そうやってまわりの世界との一体感に浸されているのであり、一点に焦点を結んでときめくということができない。まわりの世界を警戒し緊張しつつ、まわりの世界との一体感にまどろんでもいる。その何もかもに対して焦点を結んでゆくというなれなれしさ。まあ、時代や社会の共同性に踊らされている現代人の心模様だって、そういう唯我独尊の傾向がおおいにある。
ときめく、すなわち一点に焦点を結んでゆくことは、あるていど離れていなければできない。その「隔たり」を飛び越えてゆくことを「ときめき」という。そのとき人の心は、まわりの世界から離れながら、無防備になってリラックスしている。
人と人は、この世界からはぐれてゆく心を共有しながらときめき合っている。ときめき合っているからこそ淡くゆるやかな関係になれるのだし、淡くゆるやかな関係でなければときめいてゆくことができない。すなわち、「今ここを生ききる=ときめく」ことは、淡くゆるやかな関係においてこそ体験されている。
「今ここ」を生ききろうとすることが生きものとしての命のはたらきであり、人間的な知性や感性も、その生きられない弱い存在として「今ここ」に鮮やかに反応しときめいてゆくところから育ってくるのであれば、人類の文化の起源はそこにおいて問われねばならない。
人のもっとも基礎的な知性や感性も、もっとも高度で本格的な知性や感性も、世の凡庸な人類学者たちが合唱するような「未来に対する計画性」などというところにあるのではない。だから科学者たちは、原爆が大量殺人の道具になるとわかっていても、それをつくり出すことに熱中せずにいられなかった。原発のこともしかり、人の知性や感性のはたらきのことを考えたら、それはもうしょうがないのだ。よいとか悪いというようなことで裁いてもしょうがない。そういうものなのだ。科学者にそんなことをするなとはいえない。いえば、人間の知性や感性の否定になる。われわれのように凡庸な知性や感性しか持っていないものたちがそのことに居直って「それはだめだ」と裁くことはできない。原始人だって、それが人殺しの道具になるということがわかっていながら石器文化を発達させていったのだ。
人は、根源において、生き延びようとしている存在ではなく、「今ここ」を生ききろうとしている存在なのだ。
人の心がときめくことは、この世界が過去から未来に向かって存在し続けることに対してではなく、「今ここ」において新しい何かが「出現」することに対してはたらいている。そうやって何かを「発見」することを「ときめく」という。
われわれは、母親の胎内を出てこの世界に出現し、やがてこの世界から消えてゆく。それがこの生の掛け値なしの正味のかたちであり、人の知性や感性は、「出現」するものに対する「発見=ときめき」というかたちではたらいている。人類の文化の起源もそういう問題設定で問われるべきであり、人の世のあれこれのことがらも、いくら生き延びることが大事だと合唱しても、それだけではすまなくて、いろいろとややこしい事態が起きてくる。
人の世の心のあやも、原始時代の文化の起源の契機も、「生き延びる」などという俗っぽい問題設定だけではすまない。
人の心のあやは「今ここ」において「出現」し「消えてゆく」ものであって、過去から未来に向かってはたらき続けているものではない。生き延びることが大事の今どきの大人たちは、それに気づきときめいてゆく知性や感性が欠落している。まあいつの時代もそういうことは若者や子供から学んできたのであり、おそらく人類史のイノベーションのほとんどは、そうした若者や子供の「好奇心」から生まれてきたにちがいない。
人類史の文化の起源の契機は、「好奇心」にあるのであって、すれっからしの大人たちの「未来に対する計画性」にあるのではない。