ややこしい・ネアンデルタール人論・117

今どきは、「コミュニケーション」とか「共生関係」とか「生き延びる」とか「未来に対する計画性」とか、そんな言葉がもてはやされる世の中だ。
人間性の自然や本質がそんなところにあるとは思えない。「そうではないだろう」と、ここで何度も書いてきたが、そうはいってもわれわれはもう、世の中が決めたそんな正義や真実に従って生きてゆくしかない。
そんな正義などどうでもいいと思うし、それが真実だとも思わないが、世の中の動きはそこでこそ成り立っているのだし、であれば「はいそうですか」と黙して頭(こうべ)を垂れるしかない。
そんな正義や真実を当然のことのように信じられる人は幸せだ。それを上手に利用して生きてゆくことができる。
そんなのは時代や社会に踊らされているだけだといっても、踊ったもの勝ちだともいえる。いや、踊らされながらひどい事態に陥っているものたちだって少なくはないのだが。
踊ったもの勝ちの人生を生きてきた彼らだって、最後にはそのツケを支払わされるかたちで認知症鬱病やインポテンツになってゆく。
平和で豊かな現代社会では、心のはたらきも命のはたらきも停滞・衰弱してきている。心のはたらきが停滞・衰弱しているから、そんな密着した関係性に執着するのだし、生き延びようともしなければならない。生きることなんか体が勝手にしてくれていることであり、命のはたらきが豊かであれば、意識が今さらのようにそんな欲望を膨らませる必要なんか何もない。
人の心も命も、「もう死んでもいい」という勢いで華やぎ活性化してゆく。だからこそ人は、猿とは違って心の「嘆き」や身体の「苦痛」を深く抱えた存在になっているのだ。
誰だって、病気などで身体の苦痛がきわまれば、「もう殺してくれ」と思う。「生き延びたい」となんか思わない。つまり、ネアンデルタール人は、そういう極限状況を生きていた人々だったのだ。そしてそこから心が華やぎ、命のはたらきを活性化させながら、その極北の地の50万年の歴史を生き残ってきた。
それに対して平和で豊かな現代社会においては、ただもう命のはたらきを停滞・衰弱させたまま、高度な医療技術によって長生きさせられているだけのことではないのか。
今どきの世の中であれこれの健康食品やサプリメントがさかんに出回っているのは、それだけ命のはたらきが停滞・衰弱しているからではないのか。現代人は、賢く上手に生きようとしながら、命のはたらきを停滞・衰弱させている。
命のはたらきも心のはたらきも活性化させて「自然に生きる」ということは、もっと愚かでいいかげんに生きることかもしれない。
愚かでいいかげんに生きることができない世の中になっている。そんな生き方をするためには、「エリート」になるか「落ちこぼれ」であることを覚悟するか、どちらかしかない。まあ文明社会というのは本質的にそういうものであるのかもしれないが、エリートだって歳を取ればこの社会の落ちこぼれであるほかないのだし、この社会から「落ちこぼれ」がいなくなることはない。どこかの総理大臣の「一億総活躍社会」などという発想の、なんと非現実的で愚劣なことか。
平和で豊かな社会であることの恩恵を受けて「活躍」している幸せな市民一般よりも、「活躍」できない存在である「落ちこぼれ」のほうがずっと人として自然に生きているのであり、生きられない生を生きている存在の、病人、障害者、老人、乳幼児、彼らはみな、この社会の「落ちこぼれ」なのだ。人間社会の歴史は、そういう存在に対してどのように思い、どのような態度をとってきたか?生きられない生を生きる彼らこそ人としての自然な存在であり、その存在そのものの輝きにときめきながら「介護」の文化を進化・発展・洗練させてきたのではないのか。
愚かでいいかげんな生き方しかできない「落ちこぼれ」であってもいいのだ。そこにこそ人としての自然や存在の輝きがある。言い換えれば、愚かでいいかげんな生き方しかできないものは、つねに「人としての自然」と向き合っているのであり、つねに「人としての自然」と向き合うことができているかと試されている。つまり、愚かでいいかげんな生き方しかできないことの「いたたまれなさ」を生きている。だから、じっとしていられない。「ここにいてはいけない」、「ここにはいられない」と思う。それはもう、生きものの「身体が動く」という根源・自然の問題でもある。そうやって生きものの身体は動いているのだ。
この国の文化の伝統には、そういう愚かでいいかげんな生き方しかできないもの、すなわち「無用者」の系譜というのがある。たとえば、在原業平西行、一遍、芭蕉種田山頭火、尾崎放哉、さらには無数の無名の旅の僧や旅芸人や乞食や娼婦など、彼らはみな、愚かでいいかげんな生き方しかできないものとして、ひたすら人間性の自然と向き合いながら死んでいったのだ。そして民衆は、そういうものたちがそなえている存在そのものの輝きに「喜捨」を差し出していった。これが日本列島の文化の歴史であり、人類の「介護」の歴史でもあった。
人類の「介護」の歴史は、ネアンデルタール人のところから本格化してきた。氷河期の北ヨーロッパという原始人が生きられるはずもないあんな苛酷な地に住み着いてゆくなんて、愚かでいいかげんな生き方の極みではないか。しかしだからこそ彼らは、誰もが「生きられないもの」としての存在そのものの輝きをそなえていたし、誰もがそれにときめき合っていた。人の心は、そこでこそ華やぐ。命のはたらきが活性化する。彼らはそういう「末期の眼」というものをそなえていた。それが彼らを生き残らせたのであって、生き延びようとする欲望によってではない。
人の心は、生き延びようとする欲望によって華やぐのではない。生きられない存在としての「末期(まつご)の眼」を通して華やいでゆくのだ。
生き延びようとする欲望なんか、たんなる心や命のはたらきの停滞・衰弱の証明でしかない。
「末期の眼」こそ人間性の自然であり、人類史の伝統なのだ。
ともあれ、人の世はいろいろとややこしい。今どきは、愚かでいいかげんな生き方しかできないくせに、正義ぶって人を裁いたり、生きてあることの意味や価値を追い求めたりしながら生き延びようとあくせくしている人がたくさんいる。いやまあ、そこにおいてはエリートも落ちこぼれないわけで、今どきの平和で豊かな社会は、そういうややこしい人の群れを生み出すような構造になっている。上も下もややこしい人がたくさんいるややこしい世の中になってしまっている。
しかしまあ、人としての自然をそなえて輝いている大人がだんだんいなくなりつつあると同時に、そういう輝きをそなえた若者が少しずつ増えてきてもいるのかもしれない。
人間社会から、愚かでいいかげんな生き方しかできないところの「末期の眼」を持った「無用者」がいなくなるはずがない。人の心も命のはたらきも、そこでこそ華やぎ活性化してゆくのだから。