いたたまれない・ネアンデルタール人論116

オリジナルだと気取るつもりもないが、一日にひとつ、世間で常識とされていることに対する反論が書ければいいのかもしれない。
何度でも同じことを書いてもいいのだし、何度書いてもこの反論が世間に聞き届けられることはない。もう、生きているかぎり、何度でも同じ反論を書き続けるしかない。書き続けることで、ようやくささやかに反論のかたちになる。そうやってそのうち死んでゆく。書き続けないと生きられない。生きてあることとうまく和解できない。
そういう「常識」が信じられない。そういう「常識」に従わなければこの世の中を生きることはできないのだが、そういう「常識」に居座って正義ぶったり真実ぶったりする物言いをされると、ほんとに生きているのがいやになる。
そんなことなどどうでもいいじゃないか、そんなことあるものか、と思ってしまうことが多い。
そんなくだらない常識を信じて生きることなんかできない。そのくだらない常識がわれわれを追いつめている。
エリートの世界だろうと名もない庶民の世界だろうと、くだらない常識を振りかざして正義ぶったり真実ぶったりする人間がたくさんいて、平気で人を追いつめる。
だから、この反論が聞き届けられることがなくても、書き続けるしかない。たぶん、同じことの繰り返しでもいいのだ。反論し続けないと生きられない。
この世の中は、うんざりすることが多すぎる。何かしないと生きられない。自殺することは不自然だと考えるべきではない。生きることそれ自体が、命を削る自殺するような行為であり、そうやって命が活性化する。
人はというか、生きものは、生きられなさを生きている。命を削って生きている。
「生き延びようとするのが生きものの本能だ」とか「命の尊厳」とか、そうかんたんにいってくれるなよ。そんなことを合唱しながら現代人は、心のはたらきも命のはたらきも停滞・衰弱させている。


さしあたり、なにがうんざりするかといって、人と人のなれなれしい関係ほどうんざりさせられることもない。その常識はこの社会ではひとまず正義であり真実であるのだから、それを振りかざしながら平気で人を追いつめてくる、悪気があろうとなかろうと、そのなれなれしさはいったいなんなのだ。
なれなれしくなって一体感を持とうとする、その「共生関係」から社会の動きのダイナミズムや人と人の豊かにときめき合う関係が生まれてくるのではない。
なれなれしく仲良くしても、たいしてときめき合っているわけではない。自分でうぬぼれるほどときめかれているわけではない。いざとなると、相手は、その作為が鬱陶しくなって逃げていってしまう。
仲良くするためのコミュニケーションの能力を磨いたって、ときめき合う関係になれるわけではない。ときめくこともときめかれることもできないから、コミュニケーションの能力を磨かないといけなくなるのだ。
この世の中には、存在そのものにおいて他者からときめかれる輝きを持っている人がいる。それを「セックスアピール」という。そして、他者の存在そのものにときめいてゆくことができるのが、人の心の自然なのだ。
人と人は、コミュニケーションによってときめき合っているのではない。ただもう、たがいに一方的に他者の存在の輝きにときめいているのだ。


まあ、コミュニケーションの能力を持たないとこの社会では生きられない。それはきっとそうだろう。しかし、そこに言葉や人と人の関係の本質があるともいえない。
コミュニケーションという名のなれなれしさが、われわれを追いつめる。いったいそこに、どんな人間性の本質と自然があるというのか。そんなものはこの社会で生きてゆくためのたんなる「マニュアル」であって、それが人と人の関係を深く豊かなものにしているわけではない。そんなものが人間性の自然・本質だというのは、ただの幻想であり思考停止にすぎない。
コミュニケーションなどできなくても、人と人はときめき合うことができる。お母さんと赤ん坊の親密な関係は、コミュニケーションの上に成り立っているわけでもないだろう。それでも彼らは、とても深く豊かにときめき合っている。お母さんがやさしいとか赤ん坊がかわいいとか、そんなこと以前に彼らは、他者が存在するというそのことにときめいている。
人のときめく心模様は、コミュニケーションの能力に担保されているのではない。
コミュニケーションの能力は、ひとまず表面的に人と人が仲良くするための道具になるが、同時に相手を追いつめる凶器にもなっている。言葉はそんなこと以前のときめき合う関係から生まれてきたのだし、言葉のはたらきの本質は、「意味」を離れて直接心と心が響き合う関係をもたらすところにこそある。語り合うことの楽しさは、そうやって「音声」を交し合うことにあるのであって、「意味の伝達」などたいした問題ではない。
言葉の本質は「音声」であることにある。その「音声」の「感触」を交歓しながら語り合っている。
幼児が言葉を覚えるきっかけは、その「感触」に対する関心を持ったところにあるのであって、そのときはまだ「意味」に気づいているのではない。言い換えれば、「意味」なんか最初から知っているのであって、言葉によって「意味」を知るのではない。リンゴが赤くて丸いものだということくらい最初から知っている。その赤くて丸いものを「リンゴ」というのかと知るのは、その音声の感触に関心を持ったからであり、その音声を発しようと試みてゆくのだ。そうやって音声を発することのカタルシス(浄化作用)に目覚めてゆく。
「音声」聞き「音声」を発することのカタルシス(浄化作用)に目覚めてゆくことが言葉を覚えてゆく契機なのだ。そしてそれはもう、原始人の社会で言葉が生まれてきたことだって同じに違いない。
「意味」なんか、猿でも知っている。リンゴとバナナを見分けることができない猿なんかいない。
「意味」を伝えるために言葉が生まれてきたのではない。ただもう「音声」を発し「音声」を聞くことのカタルシス(浄化作用)があったからだ。人は、そういうカタルシス(浄化作用)を体験せずにいられないほどに生きてあることのいたたまれなさを抱えた存在であり、そのカタルシス(浄化作用)は、「意味の伝達=コミュニケーション」によってではなく、ただもう一方的にときめいてゆくことによって汲み上げられる。
ただもう一方的ときめいて思わず音声を発してしまったことが言葉の起源であり、そこに意味を伝達しようとする目的などなかった。
「やあ」とか「おお」とか日本語の「おはよう」とか、イタリア語の「チャオ」とか、ひとまずそれらは思わず発せられる「出会いのときめき」を表出する「音声」であり、「意味」はそのあとから気づかれていった。
言葉の本質はコミュニケーションの道具であることにある、と彼らはいう。コミュニケーションが成り立つという関係のなれなれしさ、そのなれなれしさこそが人と人の関係の本質だという、そういうくだらない常識はうんざりだ。
コミュニケーションという名の支配=被支配の関係、その鬱陶しさにわれわれはうんざりしている。現在は、そういう作為的な関係が称揚される社会だから、発達障害認知症鬱病やインポテンツが蔓延しているのだ。
内田樹というインポおやじが「コミュニケーションの能力を持ちなさい」とさかんに扇動しているが、コミュニケーション以前の一方的にときめき合ってゆくところにこそ人と人の関係の本質・自然があり、言葉の起源や本質もそこにこそある。


というわけで、ネアンデルタール人が言葉を持っていたかどうかという問題は、彼らの喉の構造がどのようになっていたかというようなことではなく、どれほど深く生きてあることのいたたまれなさを実感していたかということや、どれほど豊かにときめき合っていたかというところから問われねばならない。そしてそのころの地球上で、ネアンデルタール人ほどその体験のカタルシス(浄化作用)を深く豊かに汲み上げていた人々もいないのだ。
言葉をしゃべることくらい、オウムの喉でもなんとかなるのだし、そんなことはさしあたり問題にはならない。問題は、彼らの社会や人と人の関係がどのような構造になっていたかということにある。
彼らが他愛なくときめき合って乱婚関係(フリーセックス)の社会をいとなんでいたからといって、なれなれしくくっつき合っていたというのではない。そういう集団の結束力というか共生関係はなかった。そこではつねに集団の離合集散が起き、ヨーロッパ中で同じ血と同じ文化を共有していた。
コミュニケーションの能力が言葉を生み出したのではない。言葉におけるコミュニケーション(=意味の伝達)の機能など、文明社会の発祥とともに発達してきたにすぎない。コミュニケーションという支配=被支配の関係、そんなところに言葉の本質・自然があるのではない。
言葉の起源を人類史のどの時代に置くことができるかということは、よくわからない。いずれにせよ人類は、二本の足で立ち上がった当初から、そうした人間的なさまざまな音声を発する猿になっていたのではないかと推測することもできる。
原初の人類は、きわめて不安定で危険な姿勢である二本の足で立っていることのいたたまれなさに身を浸していった。そうして背筋を伸ばしてさらに不安定で危険な直立姿勢になりながら、そこから歩いてゆくことによってそのいたたまれなさが浄化されてゆくことのカタルシスを汲み上げていった。
人類史は、氷河期の北ヨーロッパまで拡散してゆくことによっていたたまれなさがきわまり、そこからそのいたたまれなさが浄化されてゆくかたちで言葉の文化が花開いていった。
あんな厳しい環境で生きていたら、必然的に言葉は育ってくるのだ。現在においては言葉はコミュニケーションの道具としてずいぶん汚れてしまっているが、それでも言葉の本質としての「音声」を交歓する語らいのよろこびというのはあるわけで、どんなに平和で豊かな社会になっても、誰の中にもそういうカタルシス(浄化作用)を汲み上げずにいられない生きてあることのいたたまれなさは疼いている。それが人間なのだもの。