祝福論(やまとことばの語源)・「いろ」

たとえば花を見るとき、視覚(=意識)が真っ先にとらえるものは「色彩=いろ」である。
それから形や質感が把握され、最後に「あれは花である」という「意味」を認識する。
このあたりの意識の発生のからくりは、フッサール先生が「ノエシス」だとか「ノエマ」だとかといって何やらわけありげに説明してくれているのだが、それはさておき、意識はまず「いろ」として世界と出会う、ということだ。
そして古代人は、そういうことを知っていた。
「いろ」とは、「出会いのときめき」をあらわすことばである。
意識はまず、「いろ」として世界と出会う。その瞬間のときめきのことを、「いろ」という。
その瞬間のときめきがすべてであり、その「いろ」こそ世界の本質である、と古代人は思っていた。
「いろ」とは、世界の本質、存在の本質。
「色(いろ)めく」という。
「いろめく」の「めく」は、「春めく」の「めく」、だんだんそうなってゆくこと、だんだんあらわれてくること。「いろめく」とは、だんだん本質があらわれてくること。だんだんその気になってゆくこと。
では、「ときめく」の「とき」とは「時間」のことか。たぶんそうだろう。
しかし、語源としての「とき」は、現代人が認識しているような、「過去から未来に飴のように延びた(永遠の)時間」のことではない。
「とき」の「と」は、「止まる」「留める」の「と」。「ふと思う」というときの「と」は、「瞬間(=せつな)」を意味している。
「き」は、「むかし、男ありき」の「き」。「完了」「終結」「納得」「充足」の語義。
「気」は、この世界に満ちているもの。
「木」は、それ自体でひとつの「世界=空間」を構成しているもの。桜の花の咲く木の真下に立って見上げてみれば、それがよくわかる。緑の葉のころでもいい、紅葉でもいい、「木」は、そういう完結した「空間=世界」をもっている。
「とき」とは、「いまここ」で世界が完結しているという限定された時間のこと。けっして「過去から未来に飴のように延びた(永遠)の時間」のことではない。
だから、「ときがなる」とか「とき満ちる」などという。いずれも「限定された時間(瞬間)」における充足(完結性)をあらわしている。「いま……しているとき」というときの「とき」も、限定された時間のことである。
語源としての「とき」は、「いまここ」の限定された時間のことだった。
「ときめく」とは、決定的な瞬間に入ってゆくこと。決定的な瞬間がやってくること。時間が止まったように立ち尽くす感慨のこと。
「ときめく」ことは「色(いろ)めく」ことでもある。「いまここ」が充実することを「ときめく」といい、「いまここ」があらわれることを「色(いろ)めく」という。
つまり、「ときめき」があらわれ出ることを「いろめく」という。
古代人にとっての「とき」とは「出会いの瞬間」のことだったのであり、その出会いの瞬間に体験する「いまここで世界は完結している」というときめきを、「いろ」といった。
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ことばの語源を、「意味」で説明するのはナンセンスである。
なぜならことばは、感慨の表出として生まれてきたのであり、意味は、ことばから生まれてきた。意味がことばを生んだのではなく、ことばから意味が派生してきたのだ。
言い換えれば、最初の感慨をちゃんと押えておかないと、最初にあった意味もとらえそこなうことになる。
「いろ」ということばは、「色彩」のことをあらわすことばとして生まれてきたか。そうじゃない。「色彩」は、概念=意味であって、感慨ではない。
はじめに「赤」とか「青」とか「白」という具体的な色に対することばはあったかもしれないが、「色彩」という概念=意味を表わすことばなどなかったはずだ。
それでも、「いろ」ということばは、古くからあった。
古代人、とくに縄文人は、「いろ」ということばを、「色彩」という意味には使っていなかったはずだ。「色彩」という概念=意味をともなって「いろ」ということばが生まれてきたということはありえない。
「いろ」ということばが古くからあったということは、それが「色彩」という概念的な意味を表わすことばではなかったことを意味する。
「いろ」の語源は、「色彩」ではない。「いろ」ということばが生まれて、そこから「色彩」という意味が見出されていった。
話がややこしくなるが、古代人が「いろ」ということばに抱いていたイメージの中心は、「色彩」という意味ではなかった。はじめに「色彩」という意味があったのではない。
「いろ」はたぶん、この世界の「本質」とか「中心」というようなことであり、そういうことと出会ったたときのときめきから「いろ」ということばが生まれてきた。「ときめき」をもたらすものを「いろ」といった。つまり、「色彩」もその中のひとつにすぎない、ということだ。
「いろ」とは、ときめきをもたらす本質的な要素のこと。
出会いの瞬間の「ときめき」から、「いろ」という音声がこぼれ出てきた。
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日本書紀には、「いろは」「いろせ」「いろど」「いろね」「いろも」といったことばが出てくるらしい。
「いろは」とは「いろ」の母、すなわち生母。一夫一婦制が確立していなかった古代は、腹違いの兄弟姉妹なんかいくらでもいたのだが、母系社会だったから、生母こそがほんとうの母で、母親を同じにする兄弟姉妹だけがほんとうの兄弟姉妹だという意識があったらしい。「いろせ(=兄)」「いろど(=弟)」「いろね(=姉)」「いろも(=妹)」は、母親を同じにする兄弟姉妹のこと。
とすればこの場合の「いろ」は、「本質」とか「中心」というニュアンスであったはずだ。
万葉学の権威である中西進氏は、この場合の「いろ」は「仲がよく親密である」というのが本質的な意味である、というようなことをいっておられる。
どうしてこんな浅薄な解釈をしてしまうのだろう。古代人をばかにしているとしか思えない。仲良く親密でもいいのだが、そうなる社会の構造というものがあるだろう。ことばは、そういう「構造」から生まれてくるのだ。
そうして中西氏は「色彩をあらわすことばが、なぜ親愛や恋愛をあらわすようになったかを考えると、日本語の奥深さを感じます」といっておられるが、たぶんそういうことではないのだ。「いろ」ということばは、「色彩」という意味を携えて生まれてきたのではない。この人は、なぜ「いろ」ということばが生まれてきたかということをちゃんと問うていない。
そんな思考態度で「日本語の奥深さ」だなんて、笑わせてくれる。
古代の日本列島の住民がそこに「色彩」を見ることは、それじたいが「ここで世界は完結している」という「ときめき」の体験だった。
「色彩をあらわすことばが親愛や恋愛をあらわすようになった」のではない。親愛や恋愛が、「色彩」と出会う体験と同じだと気づいていったのだ。そうして、色彩のことも「いろ」というようになっていった。
「いろ」ということばにこめられた感慨は、「出会いの瞬間のときめき」にある。「色彩」という概念の意味に気づいて「いろ」ということばが生まれてきたのではない。
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「いろ」の「い」は、「いのいちばん」というようにあとのことばを強調する機能と、「居(い)る」すなわち「存在」という意味がある。
立ち去ることを「去(い)ぬ」という。「ぬ」は「終結」「完了」の語義。この場合、いなくなることは「ぬ」によってあらわされているのであり、「い」は、あくまで「居る=存在」をあらわしている。存在するものが隠れてしまうことを、「去(い)ぬ」という。
「ろ」は「炉」、家の中心にあるいちばん大切な「囲炉裏(いろり)」のこと、「中心」「本質」の語義。
「絽(ろ)」は、「穴」がたくさんある織物ですけすけになっている。この場合の「ろ」は「穴」のこと。
「室(むろ)」の「む」は「停滞」「貯蔵」の語義で、「むろ」とは、食料を貯蔵するための土の穴のこと。
「洞(うろ)」の「う」は、「うっ」と息が詰まるような苦しい感慨からこぼれ出た音韻。真っ暗の不気味な穴のことを「うろ」という。
「いろ」とは、「中心・本質そのもの」とか「存在の本質」というような意味。意味はそうだが、そのようなことに出会っているという「ときめき」の感慨から「いろ」という音声がこぼれ出てきた。
「色に出る」とは、本音・本質が表れること。
「色恋」「色町」「好色」といえば、「本音・本能」すなわちセックスのことをあらわすが、そこには、「ときめき」というニュアンスも隠されている。
そして「色男」となると、べつにスケベな男という意味ではなく、「男の中の男」というような意味になる。
「いろ」とは、「本質のありか」とか「存在の本質」というような意味。
青い空の本質は「青い」ということにある。
赤い花の本質は「赤い」ということにある。
青い空と出会った瞬間は、「青い」ということがまず目に飛び込んでくる。
赤い花を見た瞬間は、「赤い」ということしかわからない。
出会った瞬間の、意味も比喩も経ないですんなりとときめいてゆく、その体験こそが世界の本質と出会っていることであり、この生は「いまここ」で完結しているという充足にほかならない……古代人のそういう無防備で直截な感慨から、「いろ」ということばが生まれてきた。