反「日本辺境論」・「真名」と「仮名」

外国のマンガは、総じて心理描写が平板である。
それに対して日本のマンガ家がさまざまな技法を駆使して細かい心理のあやを表現してゆくことができるのは、われわれが日常的に使っていることばそのものに心理の表出の機能が備わっているからだろう。
やまとことばは、意味の前提を持たず、感慨のあやが表出される。
「はし」という音声に「橋」という意味の前提はなく、ちょっと不安なような感慨がこめられているだけである。「意味」がないから、音声を発する感慨がそのことばににじんでいる。
やまとことばは、意味の表出ではなく、意味以前の感慨の表出の姿をしている。
「くま」とは、毛むくじゃらの大きな生き物という意味をあらわしているのではなく、「怖い」という感慨を表出することばである。
やまとことばの語原は、すべて感慨の表出にある。
「たび」の語原は、「隠れていたものと出会うときめき」。
日本列島の住民はそういうことばの話者だから、心理描写の細かい芸も自然に身についてゆく。ことばが意味を前提として持っていないから、細かい心理のあやに敏感なのだ。
やまとことばは、意味というアイデンティティを持っていない。「はし」ということばは、もともと「危なっかしい」という感慨の表出のことばであり、固有の意味などなく「橋」にも「箸」にも「端」にも「嘴」にも使われる。
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やまとことばの話者は、その音声を聞き取ったあとに、「意味」へと飛躍する。われわれは、日常会話において、つねに意味への飛躍をしている。
やまとことばは、説得するためのことばではない。話すものは、意味を前提として持っていないし、聞くものは、その「空気」を読んで意味へと飛躍する。そうやってともに意味へと飛躍する。
つまり、意味以前のことばを意味へと祭り上げてゆく、という作業を共有してゆくことによって、ある親和性が生まれる。そのとき意味は、「伝達」されるのではなく、「共有」されている。現場の空気による「即興性」として「共有」されてゆく。
やまとことばには意味という「規範」がない。それは、日本列島の住民が、個人としても集団としてもアイデンティティを持っていないことを意味する。アイデンティティを持たない立場に立って他者を祭り上げてゆく。だからことばが「意味=規範」を前提として持っていないのであり、祭り上げることは、意味へと飛躍することだ。
日本のマンガには、自由な飛躍があり、意表をつく飛躍がある。それが、ジャパン・クールのエスプリである。もしかしたら日本のマンガのおもしろさは、外国人のほうがよく知っているのかもしれない。
ジャパン・クールのエスプリは、内田先生のいうような「音声(表音記号)と意味(表意記号)の並列処理」にあるのではなく「音声(表音記号)から意味(表意記号)への飛躍」のダイナミズムにある。
とすれば、近ごろのコギャルの「なんちゃって」という「飛躍」もまた、日本列島のマンガ文化のエスプリと同じ地平にあるといえる。
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マンガ表現に代表されるこの「飛躍」してゆくエスプリは、おそらく現代の最先端の感性のひとつになっているのだろうが、同時にそれはまた、現代におけるもっとも原始的な感性でもある。
パンドラの箱」を開けないで原始的な感性をそのまま洗練させてきたところに、日本列島の歴史の水脈の特異性がある。
ここでいう「パンドラの箱」を開けるとは、ことばにあらかじめの意味を付与することであり、それは、個人や共同体における「アイデンティティ」の執着が生まれてきた、ということだ。平たくいえば、自我に目覚めた、ということ。
しかしそんな世界の流れに取り残されているかのように、日本列島の住民は、個人としても国家としても、「アイデンティティ」の意識が希薄な歴史を歩んできた。われわれは、国歌も国旗もどうでもいいと思っている。国歌や国旗に執着するなんて、日本列島の歴史的な感性を失った「非国民」のすることだ。やつらは、そうやって自分こそ真の日本人であるとわめいてばかりいるが、そんなものは、明治以来の、ただの西洋風「近代」かぶれの成り上がり根性だ。
江戸時代以前の人々が、家の前に旗なんか立てていたか。
さしあたり、国歌も国旗もない世界は、人類の理想ではないのか。
アイデンティティ」を捨ててたがいに相手を祭り上げてゆくことこそ、この国における関係の流儀なのだ。国歌や国旗などという「アイデンティティ」など、どうでもいい。
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原始人にとって語り合うことのよろこびは、意味を伝達しあうことではなく、その発せられた音声から意味を汲み上げてゆくことにあった。
「はし」といって、「橋」という意味が汲み上げられた。「箸」という意味が汲み上げられた。「端」という意味が汲み上げられた。「嘴」という意味が汲み上げられた。
それらの、意味を汲み上げてゆくよろこびを大切にするなら、「橋」と「箸」を別々の音声にすることはできない。やまとことばに同音異義のことばが多いということは、ことば(音声)にあらかじめの意味を付与せずにそこから意味を汲み上げてゆくよろこびを大切にする社会だったことを意味する。そして、ことばが生まれてきたころの原初の社会は、世界中どこでもそんなふうだったのだ。
ことばは、アナログな「類推=飛躍」の機能として生まれてきた。
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内田先生は、人類の文化はデジタルな二項対立から生まれてきたとつねづねいっておられるわけで、ことばも、音声と意味を「並列処理」するところから生まれてきたという。
しかし日本列島の住民は、「並列処理」なんかしていない。音声から意味へと「類推=飛躍」してゆくのだ。
内田先生によれば、日本列島で漢字とかなが定着してきたころ、日本人の辺境意識は漢字のことを「真名」といって正嫡の地位を与え、自分たちの土着のことばであるかなは「仮名」という庶子の立場に置いた、のだとか。
しかしそのとき日本列島に住民が、ほんとにそういう意識でそういう呼び方をしたとはかぎらない。すでに意味が決定されている漢字に対して、表音文字の「かな」は、まだ意味が決定されていない音声の表記である。だから「仮名」といったのかもしれない。
いや、その文字に対して、「かな」と呼ぶほかない感慨があったからだ。「かな」ということばは、やまとことばだ。「仮名」と書く漢語があったわけではなかろう。
「美しきかな」というときの「かな」という詠嘆詞は、感動が胸に満ちあふれる状態をあらわしている。「これはりんごかな?」というときの「かな」は、いぶかる気持ちが胸に満ちてきている状態をあらわす。
「かな」とは、心が胸に満ちてくる状態をあらわすことば。つまり、意味以前の心のニュアンスをあらわすことばだから、「かな」といったのだろう。それに「仮名」という字を当て、漢字には「真名」という字を当てていったのは、おそらくあとづけのたんなることば遊びだ。「かな」のない時代に漢字だけを「真名」と呼ぶことなど論理的にありえない。「かな」に対する呼び名として「真名」という呼び方が生まれてきただけのこと。「真名」に対する名称として「かな」ということばが生まれてきたのではない。はじめに「かな」ということばがあったのだ。そしてそれは「仮名」という意味づけで生まれてきたのではない。意味以前の感慨の表出としてことばを扱っていた古代人は、そういう機能を託して「かな」と呼んだだけだ。
やまとことばは、「仮名」などと、意味を先験的にともなって生まれてくることばではない。「かな」と呼ぶほかない意味以前のニュアンスがあったのだ。
「かな」の語原は、「仮名」ではない。「感慨の表出」というニュアンスで「かな」と呼んだまでのこと。
「かな」の「か」は「かっとなる」の「か」、気持ちが表面に出ること。だから、文字で表現することを「書(か)く」という。「な」は「なれる」「なじむ」「なれそめ」の「な」、「親愛」の語義。「かな」とは、すなわち「親愛の情の表出」、そういうニュアンスで「かな」ということばが生まれてきたのだ。
そのとき古代人がなぜそれを「かな」と呼んだかということには、内田先生のこんな薄っぺらで下品なこじつけの思考で届くはずがない。そんなゲスな脳みそで日本語の講釈をされても、ありがたくもなんともない。
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日本列島の住民は、意味を持たない音声としてのことばの「感触」を知っている。「かな」ということばも、その「感触」を大切にするところから生まれた。その「感触」がなければ、意味に「飛躍」してゆくよろこびもない。
一方大陸のことばは、それを発声した瞬間から、すでに意味にまとわりつかれている。だから「飛躍」がない。
意味以前の姿をしているやまとことばは、「意味への飛躍」をうながす、ひとつの「暗喩」である。
このことが、日本のマンガ文化の土壌になっている。
額の横に汗の粒を描き添えることも、空中の木の葉の上ににゅるにゅるっとした曲線を描いて木の葉が舞い落ちるさまを表現するのも、いわば日本的な暗喩であり、日本のマンガは暗喩の宝庫である。
最近定着している、わりとリアルな絵のマンガなのにときどきいきなりギャグマンガのようなコミカルな絵のタッチになって登場人物の心の動きを表現するという手法も、ひとつの日本的な「飛躍」のエスプリであるのかもしれない。こういう「飛躍」をわれわれは、すんなり受け入れてしまう。そして外国人の読者も、それによってみずからの中の原始的な心性を呼び覚まされるのかもしれない。
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原始的な心性は、現在、世界の最先端でもある。
人と人が共有できるのは、「いかに生きるべきか」という「規範」などではなく、生きてある「今ここ」に驚きときめいてゆく「原始的な心性」にある……ということに世界の人々が気づき始めている、ということだろうか。
それが、ジャパン・クールのエスプリだ。
最近「ハーバード白熱教室」とかいう哲学系のテレビ番組が一部で評判になっているらしいが、その内容はといえば、アメリカ人はあいも変らず「いかに生きるべきか」という「規範」のことばかり騒ぎ立てている、という印象である。
そりゃあ僕だって、ときには発言する若者のひたむきな物言いや表情につい涙ぐみそうにもなるが、「正義」がどうとかこうとかというような議論には、いいかげんうんざりさせられる。
個人の正義と共同体(国家)の正義、そういう「意味=規範」が先験的に存在するかのような議論には、やまとことばの住民としてはついてゆけないのだ。
あなたたちも哲学を志すなら、ひとまず「正義」ということばを疑ってみろよ、徹底的に疑ってみろよ。そんなわけのわからないことばを、よく恥ずかしげもなく振り回せるものだ。
最低限、正義ということばの前でひとまずはにかんでみせろよ。それが、人間としてのたしなみというものだろう。
悪いけど、古代の日本列島の住民には、そういう「はにかみ」があった。だから、ことばに先験的な意味など付与しなかった。意味以前の世界や他者に対する「ときめき」があった。そこから、意味へと飛躍していった。
人と人がときめきあって生きるためには、どうすればいいのか。
国の正義だの個人の正義だの、そうやって「アイデンティティ」にこだわっているかぎり、人と人がときめき合う社会なんか永久に実現しない。あなたたちのその「アイデンティティ」が、アイデンティティを持てない人間を追いつめている。
アイデンティティなんか捨てないと、人にときめいてゆくことはできない。とすれば、アイデンティティにこだわるあなたたちこそ、人と人がときめき合う社会の実現を阻んでいることになる。
内田先生のように「自己愛を大切にしよう」などとしたり顔してほざいている人間が、自己愛を捨てて他者にときめいている人間を追いつめている。
われわれは、いっさいの共同体的な「意味=規範」から解き放たれてこの世界に立つことができるか。やまとことばに先験的な意味が付与されていないということは、そういうことを問いかけてくる。