反「日本辺境論」・追いつめられる

いまや、世界中の人間が何かから追いつめられている。
混乱しはじめている資本主義にか、それとも地球温暖化や環境破壊にか。
いや、人間は、存在そのものにおいてすでに何かから追いつめられている。人間は、追いつめられて生きている存在なのだ。
誰においても、死の瞬間は刻々迫っている。
追いつめられているから、幸せになりたいと願う。生きてあることを許されたいと願う。
われわれは、許されてあるか。「今ここ」に生きてあることを許されているのか。
幸せな人はきっと許されているのだろう。
「心がけをあらためて幸せになりなさい」ということは、不幸な人が不幸であることを許していない、ということだ。
不幸な人は、許されていない。追いつめられている。
追いつめているのは、「幸せになりなさい」というあなたであり、あなたたちの社会的合意だ。
その人が幸せになりたいと願うことと、そう思わねばならないその人の現在を否定することとは、また別のことだ。
幸せになりたいと願うその人の現在は、否定されなければならないのか。
幸せになりたいと願うことは、幸せであると自覚することよりも愚かなことであるのか。
幸せであると自覚しているあなただって、もっと幸せになりたいと毎日あくせく生きているではないか。あるいは、幸せであることにすっかり退屈してしまっているではないか。
あるいは、幸せであるという自覚は、あなたの不幸の上にしか成り立たないではないか。
太っている人間が痩せたら幸せだろう。しかし最初から痩せている人間にとって、痩せていることなんか幸せでもなんでもない。それでも幸せであるというのなら、それは、まわりの太っている人間を眺めながら、自分は幸せだ、とまどろんでいるだけだ。
幸せであるという自覚は、他人の不幸を食いものにして成り立っている。
そのようにして、不幸なものたちはつねに幸せな人々から追いつめられているのだし、この世に不幸なものがいなくなれば、彼らの幸せであるという自覚もなくなってしまう。
人間は、幸せになりたいと願う生きものであって、幸せであると自覚する生きものではない。
そして幸せになりたいという願いの切実さは、幸せではないもののもとにある。
幸せになりたいと願うもののほうが、幸せであると自覚している人間より、ずっと人間的なのだ。
だからわれわれは、幸せになりたいという願いは否定しないが、幸せになるための処方箋なんか差し出さない。
幸せになりたいと願っているあなたの「今ここ」を祝福する。幸せになったあなたの「未来」なんか、われわれの知ったことではない。だから、幸せの処方箋なんか差し出さない。
自分は幸せであるとか、自分の人生は幸せであったと思っているあなた、あなたの人生はもう終わっている。
自分の人生なんてひどいものだったし、この先自分が幸せになれるとも思えない。だからこそ、もうこれでいい、と思えるほど「いまここ」を味わいつくしてしまいたいと願わずにいられない。
「今ここ」に体ごと反応し、「今ここ」を深く豊かに味わいつくしているものには、未来の幸せになるための処方箋なんかいらない。
まあ若者は、おおむねそういうかたちで生きているから、ネットカフェ難民や引きこもりのニートのような生き方でもできるのだろう。そんなことをしていちゃ幸せな大人になれないよ、といわれても、彼らはもう、すでに「今ここ」に体ごと反応してしまっている。だから、幸せな大人になる未来がうまく描けない。あまりぴんとこない。どっちでもいいや、と思ってしまう。
われわれに必要なのは、幸せな未来ではない。「今ここ」を味わいつくすことだ。死ぬまで幸せになりたいと願いながら、「今ここ」を味わいつくして生きてゆくことだ。
われわれは、幸せな未来が欲しいのではない。幸せになりたいと願いながら「今ここ」を味わいつくして生きていられる未来が欲しいのだ。
だから若者は、ネットカフェ難民になる。引きこもりのニートになってしまう。
幸せの処方箋を差し出す大人は、「自分は幸せな人間であり、自分の人生は幸せだった」と思っている。不幸の自覚を持てない彼の人生は、もう終わっている。だから若者は、あんな大人になんかなりたくない、大人になってしまったらおしまいだ、と思う。
不幸の自覚とともに幸せになりたいと願う、これが、人間の生きてあるかたちだ。だから、人間は、けっして不幸を拒まない。幸せになりたいと願う生きものであるがゆえに、不幸を拒まない。
人間であることはせつないことだ。幸せの処方箋とやらを差し出しながら他人に対する優越感を「かっぱえびせん」みたいに食い散らかして生きているお前らが人間であることのほんとうのかたちだなんて、誰が認めるものか。