鬱の時代4・ここにいてはいけない

内田先生がこんなことをいっておられた。
今回の参院選の結果は、民衆が政治過程がフリーズすることを望んだからだ、と。
ばかいってんじゃないよ。
そんなことはただの「結果」であって、投票した一人一人は、それぞれの思いがあった。民主党にがんばって欲しい人はいっぱいいたし、自民党に逆転して欲しい人もいた。みんな、それぞれの思いで投票したのだ。
みんなが政治のフリーズを画策してそうい結果をもたらしたのではない。そんなことを望んだ人など、ほとんどいなかった。でも、結果的にそういうことになってしまった。それだけのことさ。それは、民衆の望んだことじゃない。
先生は、民衆を、十把ひとからげの連中として眺めてさげすんでいる。いつもそうだ。人間の一人一人に対する視線を持っていないから、そういう見方になる。つまり、あんたの思考には「他者」がないんだよ。
まったく、傲慢で薄っぺらな思考だ。一人一人にそれぞれの思いがあって投票したに決まっているじゃないか。
何をくだらないことをいっているんだろう。
これも一種の、陰謀史観という観念のお遊びだよね。頭の悪いやつは、すぐそういうことを考えたがる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
みんなツイッターをやっている。
内田樹先生もやっておられるらしいのだが、こういう人にやられるのは、ちょっと怖い。
例によって、小ざかしくも耳障りの良さげなつぶやき(アフォリズム)を次から次に弄して、たくさんの善男善女をたらしこんでしまっているのだろう。
それはちょっと困ったものだ、と山姥さんも言っておられた。山姥さんの口から内田先生に対する感想を聞いたのははじめてだったから、そこんところはまあほっとした。
しかしたしかに困ったものである。
やつらがさらにのさばれば、われわれはますます追いつめられてしまう。
まったく、こんな隅っこのところでぶつぶついっているだけなんて、無力なものだ。しかも僕は、こうして悪口を書いて、内田先生の宣伝をしているのだ。
やつらに対抗する言説空間もあってしかるべきだと思うのだが、いまいちぱっとしない。対抗しているようで、けっきょくあんたも同じ穴のムジナじゃないか、とがっかりすることのほうが多い。
個人や未来の社会の「幸せ」とか、親や社会の「責任」とか、「命のかけがえのなさ」とか、右も左もそんな言葉をぶつけ合っているばかりだから、それらのすべてを疑うほかない存在である追いつめられているものたちの言葉や思想が機能できる空間などどこにもない。
そして、われわれの好きな「野生」とか「起源」とか「歴史」という言葉すら、やつらに奪われてしまおうとしている。
どんなにたくさんの人が幸せになっても、そこから追いつめられているものたちはけっしてなくならない。幸せを止揚する社会は、必ずそこから追いつめられているものたちを生む。また、個人の内面世界そのものが、追いつめる立場と追いつめられる立場に分裂してしまう。さらには、追いつめる立場で生きてきたのに、いつのまにか追いつめられる立場に立たされていたという人生の軌跡もある。歳をとって体が動かなくなったり社会の外に置かれたりすれば、誰だって追いつめられるがわの人間になるしかない。
この社会で、追いつめられているがわからの論理は、ちゃんと提出されているだろうか。
「鬱の時代」として。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
みなさん、「鬱」から抜け出す方法ばかり語っている。そんな処方箋など、どっちもどっちだ。
そうじゃない、鬱そのもの、すなわち追いつめられてあることそのものを生きることのできる論理が必要なのだ。そしてそれは、死んでゆくことのできる論理でもある。
人間は「ここにいてはいけない」存在である。そういうかたちでわれわれは、すでに追いつめられて生きてあるのだ。
われわれは、「死んでしまう」のではない、「死んでゆくべき」ところの「ここにいてはいけない」存在なのだ。太宰治の心中が教えてくれていることは、じつは、そういうことにほかならない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
太宰が心中した相手は、育ちのよい知的な美人だった。それを、まわりが寄ってたかって、いかれた女が無理心中に引きずり込んだ、ということにしてしまった。
そのとき太宰は、ほとんど昏睡状態になるくらいの量の睡眠薬を飲んでいた。女は飲んでいなかった。だから、女がその薬を飲ませたというが、それは太宰が常用していた薬である。女がこっそり用意したのではない。
一緒に死んでくれないのなら僕ひとりで死んでゆく……といって太宰が、女の制止も聞かずに飲んでしまった。しだいに意識が朦朧としてゆく太宰を前にして女は途方にくれ、絶望し、やがて覚悟を決めて太宰と自分の体をくくりつけて、玉川上水の土手に横たわった。そして、雨にぬかるんだ土に跡を残してずるずると滑り落ちていった。
そのとき太宰にとっては、生涯最高の恍惚だったのだ。
女に死ぬ気がないのなら、自分ひとりで病院に走り、医者を連れてくればいいじゃないかというが、そんなことをしたら彼女は、永久に太宰を失うことになる。生き返った太宰に捨てられるのは、目に見えている。太宰はもう、それらのことはすべて計算のうちにあった。女がけっきょく覚悟を決めるだろう、という確信があった。
死にたかったのは、過去に何度も自殺未遂や心中未遂を繰り返している太宰のほうだったに決まっているじゃないか。作家としての地位を築きつつあったとか、そんなことは関係ない。はなから心中して死んでいくつもりで生きていた人間なのだ。彼にとっては、どんな仕事の栄達よりも、有島武郎のように心中して死んでゆくことのほうがずっと大切なことだった。あくまで心中を飾る道具として、仕事の栄達というか、「選ばれた人間」としての自覚や名声が必要だったのだ。
この気持ちは、生き残ったまわりの俗物どもにはわからなかった。そうして、女の無理心中だ、という太宰の自意識を逆撫でするような決着にもっていった。
それが、人間の自意識の行き着くところだとは、誰も思いたくなかった。
時代は、自意識を携えて進んでゆこうとしていた。死のうとする自意識よりも、生きようとする自意識を守り育てていこうとしていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
現在の「ヒューマニズム」という概念には無理がある。生きようとする自意識はそのまま死のうとする自意識でもある、ということは誰も認めたがらないが、それはわれわれが凡庸だからそうならないですんでいるだけのことで、並外れて鋭敏な自意識を持った人や、追いつめられている人の自意識においては、ときにどうしても死を選択する地平まで分け入ってしまう。
もともと人間は「ここにいてはいけない」存在であり、われわれの観念はそうした存在の仕方の上に生きるいとなみを逆説的に成り立たせているわけで、その行き着く果てに自殺や人殺しがあることは避けられない。
だから僕は、「そんなことはない」と強弁する「ヒューマニズム」は嫌いだ。「そんなものだ」と自覚するところからわれわれの思考がはじまる、と思っている。
三島由紀夫が割腹自殺したことだって、「自意識にけりをつける」ということができなくなってしまった人間はもうそういうところに行き着いてしまうしかない、ということを意味しているのではないだろうか。
お幸せな連中がはんぱな自意識振り回して浮かれていられるあいだはけっこうだけど、この世の深く追いつめられた人やひといちばい鋭敏な自意識を持ってしまった人間はそういうわけにはいかない、ということを太宰の心中や三島の割腹自殺が教えてくれている。
秋葉原通り魔事件の犯人の若者だって、やっぱりそうやって自意識に殉じていった「いけにえの羊」だったのではないだろうか。
人間社会は、人殺しや自殺者などの「いけにえの羊」を生み出す構造になっている。そしてそれは、ヒューマニズムや自意識の満足という「幸せ」によっては、けっして解決されない。明日はあなただって、「追いつめられる」がわに立たされるかもしれないのだ。
というか、人間は、存在そのものにおいて、すでに追いつめられている。われわれは、「ここにいてはいけない」存在なのだ。(つづく)