祝福論(やまとことばの語原)・川(かわ)

あまり安直な議論に対抗してもしょうがないのだけれど、この世界では、研究者もアマチュアも大差ないらしい。
たとえば、ある研究者が「川(かは)」の一音一義の解釈をこんなふうに説明している。
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カ・・・動詞「来」のa接続形であり「向こうから来るもの」を意味する。
ハ・・・「pa」であり、「川のミズのはねる音」の表現。
カハ・・・向こうからやってきてバシャバシャ音を立てるもの。
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なんだか、安っぽい解釈だ。一音一義であるということは、「川」の「か」も、「皮」の「か」も、「「離(か)る」の「か」も、「刈(か)る」の「か」も、みんな同じだということなのである。気持ちがぷつんと「離れる」感慨から、「か」という音声がこぼれ出る。だから、これらのことばはすべて、「離れる」という意味を持っている。
これに対してあるアマチュアのインテリが、勝ち誇ったように反論して、こう結論している。どっちもどっちだと思うのだけれど。
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カ・・・「発生」を現す音「K」に「危険」を現す音「A」が接続したものであり、「危険の発生」を意味する。
ワ・・・「大量」を現す音「W」に「危険」を現す音「A」が接続したものであり、「大量の危険」を意味する。
カワ・・・「大量の危険が発生」という意味であり「洪水」「鉄砲水」あるいは「堤防の決壊」などの場面で最初に発言された。
日本語「かわ」の起源は上記の通りだ。洪水は村の大事件であるから「かわ!」という言葉は完璧に周知徹底される。もし人災でもあったなら、その警告語「かわ」は子々孫々まで言い伝えられるに違いない。余談であるが古事記「伊邪奈岐命」は川の水でみそぎをして「天照大御神ほか二人」の子供をもうける。これは彼が水害で死去した事を示すと私は見ている。
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「かわいい」の「かわ」も、「警告語」なのだろうか。
「か」は「かっとなる」の「か」、古語「離(か)る=離れる」の「か」。「か」と発声するとき、声と息が離ればなれになって、息だけが口の外にぽっと飛び出て現われるような心地がする。「か」は、「離脱」「分裂」「出現」の語義。
「か」が「危険」をあらわすことは、その語義の、ほんの一部のニュアンスにすぎないのであり、げんみつな「語原」のかたちではない。
「わ」は、「わっと押し寄せる」の「わ」。「わあと驚く」の「わ」。口をいったん閉じて広げてゆくようにして発声し、そのとき声が口いっぱいに反響する。その広げてゆく感じと反響する感じが、「押し寄せる」さまや「驚き」の表現になる。
「湧(わ)く」というさまも、おおよそそのようなニュアンスがある。
「笑う」も同じだし、「輪(わ)という円」は、広げた唇のかたちであり、あるいは、声が反響している口の中の内周のかたちでもある。

そして「皮(かわ)」は、「肉から離れた外側の周囲」だからそういうのだろう。感じは、わかる。
また「かわいい」の「かわ」は、ときめきが胸いっぱいに満ちてくる心地を表出している。川の流れを見た原始人だって、きらきら光りながらやってくるそのさまに、そういうときめきを体験したかもしれない。
たしかに「川(かわ)」ということばに「氾濫する」という意味は含まれている。
縄文人弥生人は、村が洪水に押し流されてはじめて「川(かわ)」ということばを持ったのだろうかか。
そんなこともあるまい。川の氾濫にあわない場所はいくらでもあるし、たとえまれに氾濫にあうことがあっても、人間は川に対する親しみを持っている。
原始人は、きらきら光る川の流れを見てときめかなかったのか。川のふちに立って、そのとき、思わず音声がこぼれ出るようなときめきは体験しなかったのか。
日本列島の住民は、「川(かわ)」ということばに、恐ろしい災難の象徴のイメージだけをこびりつかせたのだろうか。しかし川がそんな対象であるのなら、「川の水でみそぎをする」というようなことはしない。
日本列島の住民の「川」に対する親しみを、この人はどう説明するのだろうか。橋の上から川の流れを眺めながら、生きてあることそのものに思いをいたす、という心の動きの伝統だってあるだろう。
「あ」という音韻は、「危険」を知らせるためにこぼれ出てきたのではない。カラスじゃあるまいし。
ようするにこの人は、人間の生は「生き延びようとする」戦略の上に成り立っているのであり、ことばもそのための道具として生まれてきた、と思っているのだろう。よくある俗物根性丸出しの思考だ。
こんなステレオタイプな思考で「語原」を語られたくはない。
また語原としての「川」が、「かは」と表記するのだとしたら、以前に言ったように、それは、「疎外感」というか、「離れてあることの嘆き」を表出している。
「は」は、「はかない」の「は」、空気が洩れるような発声、「空虚」「空間」の語義。
「かは」は、離れてある空間に対する感慨の表出。
橋をつくる技術がまだ未熟だった原始人や古代人にとっての川は、向こう岸とこちらを決定的に隔てるものだった。川を挟んで向こうがわはもう、別世界だった。そういう「離れてあることの嘆き」を表出して「かは」といったのかもしれない。どうも、こちらのほうが、原初的な感覚のような気がする。
川のふちに立って、向こうがわには行けない、と嘆いた。それで「かは」といった。「向こうからやってきてバシャバシャ音を立てる」とか、そんなことじゃない。
水の流れそのものに対しては、「せせらぎ」とか、まあべつの言い方があったのだろう。
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やっぱり、こんなレベルで反論していてもモチベーションが上がらない。
こんなレベルの議論でも、自信たっぷりに語られると、読みながら僕は「おまえの考えることなんか、問題にならない」といわれているような気がしてきて、ついちょっと落ち着かなくなってしまったりする。
しかし、そんな心配をする必要はない、といってくれる人もいるのだから、寄り道はもうこれくらいにしておきます。