閑話休題・一音一義

じつを言うと、今回杉山巡さんに言われるまで、「一音一義」という用語を知りませんでした。
知らずに「一音一義」をやっていた、というわけです。
でも僕の場合は、「語義」の向こうに「感慨」がある、という前提があるわけで、語義にとらわれすぎると語原のかたちを見失う、とも思っている。
ヤフーで検索したら、一音一義を主張するある素人のインテリが、「あ」は「危険」というのがもとの語義だといっていた。英語のA(あ)もおなじで、「あぶない」の「あ」だってさ。
本人は、それですべて説明がつく、という。
じゃあ「わたし」という意味のおそらくもっとも古いやまとことばである「あ」は、英語でも「アイ=わたし」というが、どちらも「危険を認識する人」という意味か。危険を感じたときだけ「あ」という音声がこぼれ出るのか。
そうじゃない。
そんなことを感じなくても「あ」という音声はこぼれ出る。感動したり、うれしいときだって、「ああ」といったりする。西洋人だって「ああん」と甘えたりもするし、「アハン」とうなずいたりしている。
別に危険があろうとなかろうと、世界や他者に気づいたとき、「あ」という音声がこぼれ出るのであり、気づいたときに人は「わたし」を意識する。この世界や他者に「あ」と気づく存在だから、「あ=アイ」というまでのこと。「あ、スーパーマンだ」とか、仲良しの友達に気づいて「あ、よしこちゃんだ」というときの「あ」は、なんと説明する。
「ありがたや」の「あ」は、「危険」という意味ではないだろう。
「あまい」の「あ」は、「危険」ということか。
その人は、この調子の解釈でやまとことばの語原をひとまず体系的・学問的に念入りに語っておられるのだが、こんな程度の低いオタクっぽいことをやっているから、プロから無視されるしかないのだ。
概念をもてあそんでいるだけでは、語原には届かない。
ともあれ、江戸時代に起こってきたやまとことばの一音一義説は、今の学会ではほとんど否定されてしまっているのだが、がんばっている研究者もいるらしい。
そして素人の中には上記のような畑から小判を掘り出したようなつもりの人もいて、あんがいまだまだ人気があるらしく、この国でもっとも知性豊かな知識人の一人であった小林秀雄だってひとまず認めていたという。
その葬り去られた一音一義説を掘り返そうと、僕もしている。
墓掘り人夫ではなく、墓堀り泥棒、ネアンデルタールのことにしろ、僕はそんなことばかりやっている。
一音一義説は、まだまだ滅んでいない。
それは、人間とは何かということと、ことばの起源を、根源的なレベルで問い直すところからはじめるしかない。それができないから、やつらに甘く見られるのだ。やつら以上に、そのことを深く問うてゆかねばならない。