祝福論(やまとことばの語源)・「かわいい」39・生き延びる

人間は、直立二足歩行することによって、二本の足で立ったままでいることの居心地の悪さを忘れてゆく。つまりそれは、身体の「物性」を無化し、身体を「空間」として扱ってゆく行為である。
生きてあることの醍醐味は、身体を「空間=ない」と感じることにある。人はそうやって楽になり、さっぱりした心地になる。
息をして息苦しさを忘れることも飯を食って空腹のうっとうしさを忘れることも、身体の「物性」を無化して身体を「空間=ない」と感じてゆくいとなみにほかならない。
身体が「ない」のであれば、「生き延びる」という問題も存在しない。
「生き延びる」という問題を無化することが、生きることの醍醐味である。
人間だけではない。生きものが生きてゆくいとなみは、身体を忘れてゆくいとなみであり、したがって生きものに、生き延びようとする衝動など存在しない。
身体の「物性」を忘れて「楽になりたい」という願いがあるだけだ。生きているということは、身体の「物性」のうっとうしさが起きてくることであり、そこから「楽になりたい」という願いが生まれてくる。
生きていれば「楽になりたい」という願いは必然的に生まれてくるが、「生き延びようとする衝動(本能)」が起きてくる必然性などどこにもない。
楽になろうとすることが、生き延びる結果につながっているだけのこと。
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生きることはエネルギーを消費する行為であり、消費すれば、しんどくなる。そして「楽になりたい」と願う。どの生きものにおいても、その楽になろうとする行為の結果として生き延びてゆくようなシステムにひとまずできているのだが、必ずしもすべてが生き延びるという結果につながるとはかぎらない。楽になろうとして、かえって命を縮めてしまう場合もある。
エネルギーを消費することは、「生き延びる」能力を喪失してゆくことである。つまり、「生き延びようとする衝動(本能)」など持っていたら生きてゆくことなんかできない、ということだ。「生き延びる」能力を喪失することが「生き延びる」ことなのだ。
生き延びたいのではない、「今ここ」において「楽になりたい」だけなのだ。
未来という時間など存在しない。
たとえば野鼠の群れは、群れが密集しすぎてくるとヒステリーを起こし、集団で暴走したあげくに、群れごと崖から海に転落していったりする。
こういうことを、一般的には「本能」が壊れてしまう現象だといわれているが、「本能」などはじめからないことの証明だといっても説明になるはずである。
そのときどの個体も、気も狂わんばかりに「楽になりたい」という願いをふくらませてしまったのであり、野鼠にとっては「生き延びる」ということなどはじめから頭にないのだ。
ヒステリーを起こすというのは、ものすごくエネルギーを使ってしまうことである。「生き延びようとする衝動(本能)」があったら、そんなもったいないことをするはずがない。
彼らは、ひたすら楽になりたかったのだ。そうして、エネルギーを使い切ってしまおうとした。生き延びるとか、死んでしまうとか、そんなことは頭になかった。
寒くなって身体が体温を上げようとするのは、寒さが苦痛だからだろう。そうやってわれわれの身体は、楽になろうとする。
雪山で遭難したときはもう、むやみに体温を上げようとしてエネルギーを使い果たしたあげく、結果的にはもとの体温すら維持できなくなってしまう。
南国育ちの人と北国育ちの人とどちらが寒さに強いかといえば、南国育ちの人である。これは、科学的な実験で証明されているらしい。
北国育ちの人は、寒さにすぐ反応してしまう体になっているから、すぐエネルギーを使い果たしてしまう。それに対して南国育ちの人は寒さを知らないから、寒さに対する反応が鈍く、かえってふだんの体温を長く維持できる。
寒くなって体温を上げようとすることは、生き延びることにはならないのであり、生き延びようとするなら、寒さに耐えてもとの体温をけんめいに維持しようとするはずである。なのに身体は、楽になろうとして、すぐ体温を上げてしまう。
生きものに、生き延びようとするシステムなどはたらいていない。それは、生命のシステムなどではなく、人間社会のたんなる共同幻想である。
人間がことばや火を使うことを覚えたり、石器などの道具を生み出していったのは、生き延びるためではなく、楽になりたかったからだ。
それは、生き延びようとする「労働」ではなく、楽になろうとする「遊び」だった。
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原初の人類が二本の足で立ち上がったのは、それが「生き延びる戦略」だったからではなく、密集しすぎた群れの中で体をぶつけ合ううっとうしさから解放されたかったからだ。そうしてそこから歩いていったのは、それが、二本の足で立っていることの居心地の悪さから解放されてゆく体験になったからだ。
べつに、木の実を手に持ってメスのところに運んでゆくためでも、手に棒を持って外敵と戦うためだったのでもない。
それは、とても居心地が悪く、生き延びるのにまったく不向きな姿勢だったのである。
そのとき原初の人類は、その居心地の悪さから解放される「遊び」を試みたのだ。
進化とは、そういうものだ。
「生き延びる戦略」ではない。
「生き延びる」ことは生きたことの「結果」であって、「目的」ではない。
生きものの「今ここ」にある問題は、生きてあることの居心地の悪さであって、生き延びようとする戦略ではない。
生きものは、そんな戦略を立てようとするほど、生きてあることに満足しているのではない。
生きていれば、生きてあることのやっかいな問題があれこれ降りかかってくる。
まずそこから逃れようとする。たとえそれが生き延びるのに不合理なことでもそうしてしまうのが、生きるといういとなみである。
そうやって、寒くなったら、すぐ体温を上げようとしてしまう。
生き延びるためなら、女も野鼠も、ヒステリーなんか起こさない。それは、エネルギーを使い果たして自滅してしまう行為なのだ。
生きものは、「今ここ」に憑依してしまう。
その意識の根源においても、生命システムにおいても、「生存の戦略」などというものはない。
「今ここ」に憑依して、「今ここ」から逸脱してゆくのが、われわれの生きてあるかたちなのだ。
生きものは、生き延びようとなどしていない。
「今ここ」において消えてゆこうとしているだけだ。生きていれば、そういう身体の「物性」を消去しようとする衝動が生まれてくる、というだけのことさ。
身体のことなど忘れて「ない」という感触を得ることこそ、生きるいとなみなのだ。
人間が直立二足歩行することも、アメーバが水の中をゆらゆら動くことも、みずからの身体存在の感触を消そうとするいとなみにほかならない。
われわれは、身体の「物性」に悩まされて生きている。蛙もネズミもアメーバも、みんなそうだ。
この生は、そこからはじまる。
われわれは、「本能」とか「進化」という問題の立て方を、根底的に変更する必要がある。
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人間は、猿よりもたくさんのものを記憶する。
だから「生存の戦略」として記憶しようとする衝動が強いかといえば、そうともいえない。
われわれだって、あんがいあっけなく忘れてしまうときがある。むしろ、そういうことのほうが多い。忘れてしまうから、頭がパンクしないで生きてゆける。
知識や記憶に頼って生きていこうとすると、そのうち頭がパンクしてアルツハイマーになっちまうよ。
現代は、人間にそういう生き方を強いる世の中だ。
たとえば、出かけるときに、鍵をかけたかとかガスの元栓を締めたかというようなことは、家を出て10メートルも歩けばもう忘れてしまっている。
まったく、猿並みではないか。いや、猿よりも浅はかだ。
そういうことは、いつもやっていることだから、印象に残りにくい。
印象的なことだけが、記憶として脳に刻まれる。
つまり人間は、それほどに深く「今ここ」に憑依しているから、長く記憶することができる。
猿だって、印象に残る体験は、いつまでも記憶している。
犬やオットセイに芸を仕込むとき、うまくやったときだけそのつどえさを与えてやれば、その記憶は残ってゆく。
また、犬や猫や猿も含めて誰しも、いやなことは、いつまでも忘れられない。それが何を意味するかといえば、人間は他の動物以上に生きてあることも居心地の悪さを深く抱え込んでしまっている存在だから、そのぶん長く記憶する能力も持っている、ということだ。
いやなことは、忘れたい。人間は、記憶しようとする存在ではなく、記憶してしまう存在であり、その記憶してしまったことを忘れようとする存在でもある。
だから、鍵をかけたことを、猿よりも早く忘れてしまう。
ある女優は、鍵をかけた瞬間にそのことを忘れてしまい、鍵穴に鍵を差し込んだまま出かけてしまうことがときどきあるらしい。
彼女は、鍵をかけた瞬間、わたしはきれいに見えているかという意識が頭をよぎる。そうしてその手を髪に当てたら、それだけでもうすっかり鍵のことは忘れてしまっている。
たぶん、そんなところだろう。
しかしそれは、健康なことだし、とても人間的なことだ。
「忘れる」という機能を持っていなければ、われわれは生きてゆけない。
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アルツハイマーは、記憶の病だという。
脳の中の「海馬」という記憶装置が萎縮して壊れてゆくのだとか。
それによって、やがて脳全体がスカスカになってゆき、しまいには一緒に暮らす家族のこともわからなくなってしまう。
知識階級の人がかかりやすい病気らしい。
知識や記憶を多くため込んでゆけば、社会的に有能な人間になれる。だが、脳の老化が進めば、そうもいかなくなる。脳の老化は、20歳を過ぎればもうはじまる。彼は、知識や記憶をため込んでおくために、脳の「忘れる」という機能を封じ込めて生きてゆかねばならない。
若いうちはそれでもいいが、歳をとって衰弱した記憶装置はパンクしてしまう。
歳をとっても知識や記憶を必要とする職業で活躍している人ほど、アルツハイマーになりやすい。
そういう職業はもう。50歳くらいで定年にしたほうがいいのかもしれない。
記憶装置が優秀だからこそ、記憶装置がパンクしてしまう。「忘れる」という機能を封じ込めて生きてきたことのツケが、そこで出てきてしまう。
賢いということは、あまり健康なことではない。
いやなことをいつまでも覚えているという傾向も、健康だとはいえない。
ちょっとでもいやなことがあるとすぐ懲りてしまう人がいる。そういう生き方は不自由だろうし、心の病気になりやすい。
そして、蛇のように執念深い人もいる。日本列島の文化はほんらいそのようになっていないはずだが、最近ではそうでもないらしい。記憶することが価値の世の中だからだろう。
生きものは、ほんらい、記憶しようとする衝動を持っていない。
にもかかわらずわれわれは、記憶することが価値の世の中で生きている。それは、「文字」の文化を持ってしまったからかもしれない。その文化が体にしみこんでいるから、海馬という記憶装置に過剰な負担をかけてしまう。
記憶を維持する訓練が、果たしてその病気の治療になるのだろうか。
記憶しようとすること自体が不自然なことであり、その衝動が病気を進行させているのではないだろうか。
とりあえず不要な記憶はぜんぶ洗い流してしまう。そうして、日々、印象的な新しい体験をしてゆく。そのようなことが必要なのではないだろうか。
忘れなければ、新しい記憶が生まれてくることもない。
古い記憶やため込んだ知識に執着していたら、新しい記憶は生まれてこない。
団塊世代なんて、アルツハイマー予備軍だ。
生き延びようとするより、いつも生まれたばかりの子供のような気分で、この世界との出会いにときめきながら生きていられたら、それがいちばんいいのだろう。
そのつど消えてゆき、そのつど生まれ変わってゆく。
生きものは、生き延びようとするのではなく、この居心地の悪い生から消えてゆこうとする願いをつむぎながら生きている。
偏差値の低いギャルが「かわいい」とときめきながら生きていて、何が悪い。われわれ大人たちは、彼女らのその心の動きから学ぶべきことがある。