祝福論(やまとことばの語源)・「かわいい」38・本能

進化の問題として、「生存の戦略」とか「生き延びようとする本能」というような言い方をされると、むかしから僕は、妙なプレッシャーを感じて、どうしても素直にうなずけなかった。
生きものとは、そんな衝動をつむいで生きている存在なのか。
だったら僕は、生きもの失格だ。
そんな言い方をされるたびに僕は、なんだか自分ひとりこの世界から置き去りにされているような心地になった。
僕は、「生存の戦略」などへたくそだし、「生き延びようとする本能」も希薄だ。
へまばかりして生きてきた。
そして人間なんて、へまばかりして生きている生きものだとも思う。
この世の中には僕よりももっとへまな人がたくさんいると、このごろ気づいた。それは、感動的な体験だった。
へまなことが僕だけの資質でないのなら、僕は、学者たちのいうことに反論する権利と資格を手に入れたことになる。
というわけで、「生存の戦略」とか「生き延びようとする衝動(本能)」とか、そんなスケベったらしい意識が生きものの根源的な意識だとは、やっぱりどうしても思えない。
そんなものは、ただの制度的な意識ではないのか。そんな意識をあふれさせて生きている大人たちが、それが生きものの根源であるかのように語って自分たちを正当化しているだけではないのか。
生きものをそういう存在であると規定してしまっていいのだろうか。そのように規定してしまうことによって、現代社会を生きるわれわれが直面している問題のありかを見失ってしまっていることがあるのではないだろうか。
おまえら、どうしてそんな通俗的な物言いばかりしてくるんだよ。
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「言語にとって美とはなにか」を書いた吉本隆明は、言語の発生について、このように語っている。
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 言語は、動物的な段階では現実的な反射であり、その反射がしだいに意識のさわりを含むようになり、それが発達して自己表出として指示機能を持つようになったとき、はじめて言語とよばれる条件を持った。この状態は、「生存のために自分に必要な手段を生産」する段階におおざっぱに対応している。
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べつに、人間だけが「生存のために必要な手段を生産」しているわけでもなかろう。啄木鳥(きつつき)が木の幹に穴をあけて巣をつくることだって、まぎれもなく「生存のために必要な手段を生産」する行為に違いない。
すべての生きものの行為が「生存のために必要な手段を生産」する行為であり、それは、そうしようとする衝動を持っているからではなく、結果としてそうなっているだけのことだ。
息苦しくなって息をするのは、「生存のために必要な手段を生産」する行為だろう。しかしそれは、生き延びたいからではない。楽になりたいというだけのことだ。それが生き延びることになるなんて、啄木鳥も魚も、誰も思っていない。ただ結果として生き延びることになっているだけだ。
ただ「楽になりたい」という衝動がはたらいているだけだ。
苦しいことを苦しいと思う、それが「意識のさわり」であるとするなら、そういう「意識のさわり=拒否反応」なんか、アメーバだって持っている。
「楽になりたい」と願うから息をするのであって、「生き延びようとする」からではない。
それはともかく、カラスが「かあ」と鳴くのは、たんなる「現実的な反射」ではない。「危険だぞ」とか「餌があるぞ」とか、カラスなりの「自己表出としての指示機能」を持っていることが多い。
つまり言語は、「生存のために必要な手段」として「生産」されてきたのではない、ということだ。そんなことは、カラスでもしている。「生存のために必要な手段」ではなくなったとき、はじめて人間的な言語になったのだ。
言語は、自分の中の「意識のさわり」を、外に吐き出してしまう行為である。
その「意識のさわり」が、みずからの身体の「物性」を意識させるからだ。その「物性」から解放される体験として、言語が生まれてきた。
それはつまり、「生存のための必要な手段」を持たない存在になることである。
身体が「物性」を持たないのなら、「生存のための必要な手段」を持つ必要もない。
生き延びたいのではない。「楽になりたい」のだ。さっぱりしたいのだ。それだけのことさ。
そういう安直な生き方をしたらいけないのか。
そういう安直な生き方をしたらいけない、と大人たちは若者を責める。そうして、生きものは「生存の戦略」や「生き延びようとする衝動(=本能)」で生きているという。
「意識のさわり」くらい、アメーバだって持っている。そういうところで人間は他の動物と違うと考えること自体が、制度的なのだ。考えることがステレオタイプで、思考停止しているのだ。
人間は、猿よりももっと深く「意識のさわり(=拒否反応)」を持ってしまう。だから、それを外に吐き出して楽になろうとする。
原初の言語は、べつに「生存のために必要な手段」であったのではない。生存するという自覚(=身体の物性)からの解放として生まれてきた。
それは、生き延びようとする「労働」として生まれてきたのではなく、楽になろうとする「遊び」として生まれてきたのだ。
人はパンのみによって生きるにあらず。人間の歴史をつくってきたのは「労働」ではなく「遊び」である。
いや、生きものの「進化」そのものが、そうやって実現してきたのだ。
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吉本氏は、この記述のあとに「たとえば原初の人類が海を見て<う>といったとすれば……」というようなたとえ話をしているが、なぜ「う」といったのかということについては何も語っていない。
「う」という音声は、「うっ」と息がつまる感慨からこぼれ出てくる。
水平線を眺めれば、その向こうをイメージできない閉塞感を覚える。知識があれば、その向こうに大陸というもうひとつの世界をイメージすることもできるが、そういう知識も経験もない原初の人類はもう、「何もない」と思うほかなかった。そういう感慨から「う」という音声がこぼれ出てくることはありうる。
ちなみに、日本列島の原初の人類による、死んだらわけのわからない闇が広がるだけの「黄泉の国」に行くという世界観は、そのような水平線に対する感慨からきているのだろうと思える。
そのとき「う」という音声=言語は、胸の中の息苦しさを吐き出すようにしてこぼれ出てきた。それは、息苦しさというかたちで身体の「物性」を意識させられていることから解放される体験であった。
相手ににらまれたり問いつめられたら、「うーん」とうなってしまう。人間は、そのように、必要以上に「意識のさわり」を持ってしまう存在だから、そこからの解放としての言語という体験も持つようになっていった。
それは、「生存のために必要な手段(=身体存在)」からの解放であって、それを「生産」することでも「確認」することでもない。
生きものは「生きてあること」から解放されて楽になりたいと思って生きている存在であり、人間は、そういうことをよりダイナミックに思ってしまうから言語という機能を生み出していった。
生きてあることから解放されて楽になりたいとより深く切実に思ってしまうから、自殺ということもしてしまう。それは、ある意味で究極の言語行為なのだ。
現代人は、自分は特別な存在だというエリート意識に憧れる。だから、人間ももまた生きもののレベル超えた特別な存在だと規定してしまう。
人間だって、ただの生きものさ。そして生きものは、「生存の戦略」や「生き延びようとする衝動(本能)」をつむいで生きているのではない。
ただ、楽になってさっぱりしたいだけだ。
それほどに、生きてあることのかなしみや嘆きを深く根源に抱えて存在している。
いや、生きものそのものが、そのようにして存在している。生きものとは、生きてあることから逸脱してゆく存在である。生きものの身体が動くのは、そういういとなみであって、生き延びようとしているのではない。
だから、われわれがへまばかりして生きているのは、しょうがないことなのだ。
生き物が「生存の戦略」や「生き延びようとする衝動(本能)」で生きている存在であるのなら、われわれのような愚かな人間が存在するはずがないのだ。
言い換えれば、われわれのような愚かな人間の存在が、生きものは「生存の戦略」や「生き延びようとする衝動(本能)」で生きていると思いたがるあの連中のアイデンティティをおびやかしている。
だからあの連中は、われわれのことを「おまえらは人間じゃない」と否定しにかかってくる。
われわれとしてはまあそれでもいいのだけれど、ただそれでは、「人間とは何か」とか「生きものとは何か」という根源的な問題が永久に解決できない。
まあ彼らは、そんな問題を解決するよりも、うっとりと自分に満足して生きてゆければそれでいいわけで、彼らにとっての真実はそのために存在するものらしい。