祝福論(やまとことばの語源)・「かわいい」37・鬱の時代
五木寛之氏は、「鬱の時代」が到来した、とさかんにいっておられる。
21世紀における人類最大の問題のひとつなのだとか。
この地球上の誰もが人生に対する答えを見失ってその不安から逃れられなくなっている時代である、と外国の人たちもいっている。
とすれば、今どきのギャルの「かわいい」というときめきは、そういう時代に対する彼女らなりのせいいっぱいの抵抗で、彼女らにだって「鬱」におちてしまいそうな不安があり、その気分が世界中の女子供に広がりつつある、ということだろうか。
最近、五木氏をはじめ、ひろさちや氏とか玄有宗久氏とか内田樹先生とかその他もろもろの心理学者とか、多くの知識人がそうした角度からの人生に対する処方箋を書いた本を出版し、大いに売れているらしいのだが、果たして本当にそれらが処方箋になりえているのだろうか。
ともあれ、僕が気に入らないのは、処方箋を差し出そうとするとするその根性だ。
庶民など処方箋を差し出してやらないとまともな生き方ができないと見くびり、自分には処方箋を差し出す能力があると思っている、その思い上がったいやらしい根性だ。
それは、他者の「今ここ」を否定している態度だ。
どんなに愚かで悲惨でも、その生き方に「イエス」といえる視線を持たなくてはならないときがある。
たとえばその人が、次の瞬間死んでしまう状況にあるとしたら、この先どう生きなさいと処方箋など差し出している場合ではないだろう。
そういうせっぱつまった場に立って他者と向き合ったとき、われわれは何がいえるだろうか。
そういうせっぱつまった場に立って人間というものを考えたとき、われわれに何がいえるだろうか。
えらそうに処方箋を差し出しているひまがあったら、まず自分がそういう場に立って他者を人間を考えてみろよ……僕などは、自分に対するいましめもこめて、ついそういいたくなってしまうのだ。
愚かで悲惨な人生に追いつめられているからこそ、「かわいい」とときめき、「今宵逢う人みな美しき」とときめいてゆくことができるのだとしたら、その人の生にわれわれが何がいえるだろう。
多かれ少なかれそういう場に立って人は、この世界にときめいているのであり、多かれ少なかれそういう愚かで悲惨な立場を抱えているのが、人間の生きてあるかたちなのだ。
原初の人類が二本の足で立ち上がることは、きわめて不安定で、しかも胸・腹・性器等の急所を外にさらしてしまうことだった。それは、とても居心地が悪く、攻撃されたらひとたまりもない姿勢であり、そういう愚かで悲惨な生を抱え込んでしまう体験だった。しかしそこから直立二足歩行してゆくことによって、「かわいい」とときめき、「今宵逢う人みな美しき」とときめいていった。これが、人間が生きてあることの根源のかたちなのだ。
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そもそもこの世に、どう生きてゆけばいいのか、というような問題があるのだろうか。
明日は存在しない、「今ここ」があるだけだ……人間の生きてるかたちをそう思い定めたら、どう生きてゆけばいいのかというような問題は、原理的に成り立ちようがない。
愚かで悲惨な人生を歩んだらいけないのだろうか。そんな人生より賢く幸せな人生のほうが上等だといえる根拠など、どこにもない。
言い換えれば、われわれは愚かだからこの生の問題を解決できないのではない。解決できない状況を生きているから解決できないだけなのだ。解決できない状況を生きることが人間のかたちだからだ。
そりゃあ誰だって、賢く幸せに生きたいと思うさ。しかし、賢く幸せに生きたらそれでこの生の問題がすべて解決されるとはかぎらない。
賢く幸せに生きることが人間のかたちであるのではなく、賢く幸せに生きたいと願うのが人間であることのかたちなのだ。
その、賢く幸せにいきたいという願いによって、「かわいい」とときめき、「今宵逢う人みな美しき」とときめいてゆくのだ。
あの知識人たちは賢く幸せに生きるための処方箋を持っているのかもしれないが、それは、この世界の輝きにときめいてゆくための処方箋ではない。
賢く幸せに生きている人間こそがこの世界の輝きにときめいていると考えるのは彼らの勝手な思い込みにすぎないのであり、賢く幸せに生きることによって心は停滞しけがれてゆく、ということもある。
賢く幸せに生きている人間こそが世界の輝きにときめいている、という合意の上にこの社会が成り立っている。それだけのことさ。そういうことにしておかないと、この社会が成り立たない。
そしてそういう社会的な合意が、愚かで悲惨な生を生きている人たちを追いつめている。あなたも賢く幸せに生きなさいということ自体が、彼らを追いつめているのだ。
彼らがなんといおうと、悲しみ嘆くことが人間であることの根源的なかたちであり、そこにおいてより深い世界の輝きに対するときめきが体験されている。そういうことがいいたくて、僕はこの「かわいい論」を書いてきた。
しかし何度繰り返しても、それを書きえたという満足はやってこない。僕の書き方がつたないこともあるが、何はともあれ、そんなことをいっても聞く耳持たない大人ばかりの世の中だ。
そういう社会の状況からのプレッシャーがある。そして、けっきょく俺はしょうもないことばかり書いているだけなのだろうか、とつい思ってしまう。
しかし同時に、われわれが負けたら人間の真実が滅びる、という思いもないわけではない。