祝福論(やまとことばの語源)・「かわいい」36・捨て身

内田樹先生ほど、自分をよく見せる手練手管を心得ている人もいないのかもしれない。
だから、人気がある。
人間なんて、誰もが自分よく見せたがっている存在なのだ。
上手に自分をよく見せて、なおかつ自分をよく見せようとすることが人間の真実であるかのようにおっしゃっているのだから、誰もがその説に飛びつきたくなる。
それはまあそうなのだけれど、そういう態度を見苦しいと思う傾向も、この国の歴史の水脈として流れている。
だからわれわれは、そんな自分がときどきいやになる。
見苦しいとも浅ましいとも思う。
だから、そんなつもりなどないかのように振舞いつつ、さりげなくアピールして見せる、という手練手管が必要になる。
内田先生の場合はさりげなくというよりもかなりあからさまなのだけれど、それを自分の無邪気な人なつっこさのように見せるすべを心得ていらっしゃる。
まあ、それくらい、自分をよく見せることの研鑽を積んで生きてこられた、ということだ。
それくらい自分をよく見せようとせずにいられない強迫観念を深く抱えて生きてこられた、ともいえるのだけれど、とにかくそのようにしてわれわれ現代人のお手本になってくれているらしい。
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よく見られようとする自意識が透けて見える身振りなんか見苦しいばかりだ。
大人たちはそんなことばかりして生きているから、若者から幻滅されるのだし、そんな身振りで若者を追いつめている。
彼らは、人に見られることに対するおそれとか恥ずかしさとかうっとうしさというものをあまり感じていないらしい。
人間なんか見られてなんぼだ、と思っている。
まあささやかなりとも僕がこうやってブログを発信し続けることも、「見られる」ことには違いないのだけれど、われながら恥知らずなことをやっているという思いがないわけではない。
それはきっと、僕が日本列島の住民だからだろう。
因果なことだとは思うが、恥を噛み殺してでも発信したいことがある。
僕よりももっと、見られることの恥ずかしさやおそれやうっとうしさを知っている人は、ブログなんかしない。浅ましく自分をよく見せようとすることもしない。
とすれば、内田先生をはじめとする世の大人たちは、何か見られることに対する飢餓感があるのだろう。
彼らは、人間は見つめ合う生きものであり、それが人間性の根源だ、と思っている。
深くお辞儀をするのが習慣の日本列島の住民は必ずしもそうとは思っていないが、西洋人はけっこう本気でそう信じている。
だから、西洋人の見つめるまなざしは濃い。そして日本列島の住民のそれは、あまり迫力がない。だって、深くお辞儀をする民族なのだもの。西洋人に言わせると、われわれの目には「まなざし」というものがないのだそうだ。われわれのこの目は、ただのあなぽこなんだってさ。
そうかもしれない。うまいことをいいやがる、と思う。
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「自我(アイデンティティの確立」というスローガンのもと、彼らの意識は、自分へ自分へと向かってゆく。
他人によく見られることによってしか、自我(アイデンティティ)は確立できない。
「他者の承認を得る」といえば聞こえはいいが、そういう口当たりのいい言葉を隠れ蓑にして、その、人によく見られたいというスケベ根性を正当化されても、誰がだまされるものか。
そんなものは、「愛」などという「他者意識」でもなんでもなく、スケベ根性というただの「自己意識」なのだ。
この社会は、たがいに監視し合い承認し合うという制度性の上に成り立っているが、そんなものはしかし、人間性の根源でもなんでもない。
そういう制度性にどっぷりひたっているから、恨みがましい視線で人間を眺め、自分をよく見せようとするスケベ根性をたぎらせて生きてゆかねばならなくなってしまうのだ。
そういうスケベ根性が旺盛だから、うつ病になったりインポになったりボケ老人になったりしてしまうのだ。
人間が二本の足で立っていることは、もともと不自然で不安定な姿勢である上に胸・腹・性器等の急所をさらしてしまっているのだから、とても居心地の悪いことのはずである。
だから、電車やバスには座席があるのだ。
人間にとって、二本の足で立って歩くことはひとつの快楽であり、みずからの身体のけがれを注ぐカタルシスであるが、じっと立ったままでいることは、とても居心地の悪いことなのだ。
言い換えれば、じっと立ったままでいることの苦痛を味わいつくした果てに、二本の足で立って歩くことのよろこびに目覚めていったのだ。
その居心地の悪さは、「すでに見られている」という意識である。誰に見られていなくても、その不安定で胸・腹・性器等の急所をさらしていることの居心地の悪さは、「すでに見られている」という意識を呼び覚ます。
人間は「すでに見られている」存在なのだ。
したがって、「見られたい」とか「見つめたい」という衝動が、根源においてはたらいているということはありえない。
日本列島の住民の、深くお辞儀をして見るまいとする態度こそ、根源的なのだ。
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たがいに見つめ合い監視し合うことによって、社会の秩序がつくられてゆく。
戦後の日本列島も、いつのまにかそういう社会になってしまった。そのことに対する閉塞感というかうっとうしさを、現在の若者たちは抱えている。
日本列島の歴史の水脈に浸されている者たちは、見つめ合う身振りが下手で、自分をよく見せようとする欲望が希薄である。
内田先生をはじめとする大人たちばかりがそんな欲望をたぎらせ、そして若者たちは、そんな大人たちの親や学校や社会から監視されて育ってきた。
監視する、というサディズムが、この社会を覆っている。
安定した社会、安定した家族では、監視の目がきつくなる。その目によって、若者や子供が追いつめられている。
追いつめられたくないのなら、大人たちのように、よく見られたいと欲望し、よく見られていると満足できるものにならなければならない。
人気者になったやつが勝ちの世の中だ。
誰よりも見られたいという欲望をたぎらせ、ひとまずそうした人気者におさまっている内田樹先生にとっては、わが世の春といったところだろうか。
まあそれでもいいのだけれど、彼はなぜ、庶民や若者や子供たちをさげすむような言い方ばかりするのだろうか。
それではなんだか、自分と自分のまわりにいるものだけがまっとうな人間であるといっているみたいではないか。
わが世の春なら、この世界の何もかもが輝いて見えるだろうに。
与謝野晶子が、桜月夜を愛でて「今宵逢う人みな美しき」と詠ったように、幸せならそれくらい浮かれて見せなくちゃ。
あなたの庶民や若者や子供たちに対する視線は、どこか恨みがましい。
あなたにとって世界の輝きは、自分がちやほやされる空間だけで、自分とは無縁の空間はすべて排除されている。
内田先生にとっては、自分をよく見てくれない人間は、人間の範疇に入らないらしい。そういう人間は、さげすむか、この世に存在しないものとして無視する流儀であるらしい。
見られたがっている人間は、欠点を見られていることも気にしなければならない。だから、そういう人間は抹殺するにかぎる。自分がよく見られているという聖域を守るために、つねにそうやってサディズムをたぎらせている。
「よく見られたい」という欲望をたぎらせて生きてゆくのは、けっこうしんどいのだ。
内田先生だけの話ではない。世の中にはそんな大人たちがたくさんいて、そのストレスが高じて、うつ病になったりインポになったりボケ老人になったりしている。
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内田先生は、「自分は誰に対してもオープンマインドだ」という。
だったら、働こうとしないニートや学ぼうとしない子供たちやパチンコ狂いの主婦に対しても、「今宵逢う人みな美しき」という態度をとりなさいよ。
「よく見られたい」という欲望をたぎらせてそのための自慢話をあれこれ節操もなく吹聴しまくっているなんて、ちっともオープンマインドじゃない。
オープンマインドなら、相手が自分に好感を持とうが持つまいが関係なく、「今宵逢う人みな美しき」とときめいている。
人と人が仲良しでなければならないなんて、不自由でかたくなな態度だ。
人間が一生のあいだに仲良くできる人間の数なんて、たかが知れている。われわれは、それ以外の地球上の何十億という人たちと見ず知らずの関係のまま死んでゆかねばならない。
いや、隣町の人たちだって、みんな見ず知らずの相手ではないか。
見ず知らずの相手はみんな美しい……与謝野晶子は、そう詠っているのだ。
それが、オープンマインドだ。
オープンマインドは、捨て身でなければならない。
相手が愚かで醜いことも、自分のことをよく思っていないことも問わない。
そういうところがないからこの先生は、体を動かすのも鈍くさいのだろう。
捨て身のオープンマインドとは、社会からも人間からも自分からも逸脱して丸裸になって見せること。仲良くしなければならないというような強迫観念でも、仲良しの仲間は輝いているというようなべたついた村意識でもない。
そんなものはただの欺瞞であり、内田先生や世の大人たちは、そういう欺瞞を欺瞞とも感じないで、その関係に浸っている自分に満足している。
もちろん若者たちのあいだにも、そういう不自然な関係はある。しかし彼らは大人たちほどその関係を上手に遂行することも浸りきることもできずに、ひどくぎこちない身振りになってしまっている。
そして彼らのその態度を、大人たちは、誰もが自己中心的でオープンマインドではないからだ、というのだが、そうじゃない、「よく見られたい」という欲望をたぎらせたエゴイスティックな人間のほうが、なんの疑いもなくその気になりきっているぶん、ずっとそういうことは上手なのだ。
若者たちのそのぎこちなさは、そういうことの欺瞞を自覚しているからだ。だから、痛々しいくらいぎこちない。
若者たちは、ぎこちなく仲良くしながら、懸命に捨て身の丸裸になれる瞬間を模索している。大人たちのように、その欺瞞に浸りきることができない。
その浸りきることのできないぎこちない心が、「かわいい」とときめいてゆく。
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心を開いてときめいていないから、うわべだけで仲良く付き合うことができる。
そういう欺瞞を、生きてゆくための手練手管として内田先生から学ぼうとしているものもいれば、うんざりしている若者もいる。
たとえそれが欺瞞のかたまりになることであっても、内田先生のように考えて行動することが、とりあえずもっとも賢明な人生の選択であろう。
それはたしかにそうなのだ。
だから、それをやめろという権利は誰にもない。
内田先生だって、そんなふうに欺瞞のかたまりになってしか生きられないのだろう。
気の毒といえば、気の毒だ。
ただ問題は、そんなふうに生きることが人間の真実で、愚かで貧しく弱い庶民や若者や子供たちは人間としての真実を生きることができていないと否定されることが社会的合意になってしまうことにある。
まあ内田先生が人間の真実を生きているというのならそれでもかまないのだけれど、じつは、人間の真実から逸脱することが人間の真実なのだ。
人間の「にせもの」になってしまうことが、人間の真実なのだ。
愚かであることも貧しいことも弱いことも、人間の真実から逸脱して人間の「にせもの」になることであるが、じつはそうやって「にせもの」になることにこそもっと深く根源的な人間の真実が潜んでいる。
人によく見られることに絶望しそれを断念している愚かで貧しく弱い人間たちのほうが、ずっと本格的に人間を生きている。
ひとまず僕はこれまでそういうことを書いてきたわけで、これからも書いていこうと思っている。
よく見られたいという欲望をたぎらせそれを実現している内田先生や大人たちがみずからの正当性を社会的合意にしてしまっているから、貧しく弱く愚かなものたちがそれをまねて「さかしら」に生きようとして、ときにさまざまな悲惨な事態を引き起こしてしまっている。
彼らは、そういう社会的合意から追いつめられている。
いや、内田先生だって追いつめられてしまっているのかもしれない。自分はよく見られる存在でなければならない、という強迫観念で生きている。
それによって内田先生や大人たちは、人間であることから逸脱するという、人間であることの醍醐味の多くをすでに失ってしまっている。
若者や子供たちはもう、人間であることそれ自体からすでに追いつめられているのだが、その上まだ内田先生や大人たちから追いつめられねばならない。
だからわれわれはやっぱり、内田先生にこういわねばならない。
あなたたちが正義づらして、貧しく弱く愚かなものたちを裁くな、と。
人間の根源は、貧しく弱く愚かなわれわれが教えてやる。
「社会」から「人間」から「自分」から逸脱してゆく醍醐味は、あなたたちにはわからない。
「かわいい」というときめきは、そこにおいて生成している。
人間として深く追いつめられて生きているものにしか、その醍醐味はわからない。
自分をよく見せることばかりに勤勉な人間にはわからない。
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自分をよく見せようとする衝動は、相手を支配しようとするひとつのサディズムである。
そして、よく見せることのできないわれわれのような貧しく弱く愚かな相手に対しては、徹底的に卑しめはずかしめようとしてくる。
彼らは、彼らのよさがわからないわれわれのような人間と出会うと、アイデンティティの危機におちいる。
彼らにとってわれわれはもう説得不能の相手だから、われわれを卑しめ辱めることによってしか彼らのアイデンティティは確認できない。
彼らが、われわれのような貧しく弱く愚かな人間を説得できるはずがない。
だって、われわれのほうが深く遠くまで考えているのだもの。
そういうことにどこかで気づいているから、われわれが許せなくなるのだ。
彼らは、人間の根源に分け入ることを避けており、そのことにどこかで気づいている。
内田先生も内田先生を支持する人たちも、僕の知っているかぎり、たいていがサディストだ。
みずからのアイデンティティに執着する人格者なんて、みんなサディストだ。いざとなったら、何をしてくるかわからない。戦争だっていとわない。
彼らは、みずからの正当性を守る権利と資格を持っていると自覚している。それは、他人を追いつめる権利と資格を持っていると自覚している、ということでもある。
現在のこの国の自殺率の高さは、そういうサディストがたくさんいてのさばっている社会だからだ。
自殺率が高くなったり、秋葉原事件が起きたり、うつ病などの社会的病理が蔓延したりしているのも、彼らをそういうところに追いつめているサディズムがはたらいているからだ。
内田先生だって、いずれ、みずからのそうした「欺瞞」に追いつめられないともかぎらない。
いつのまにか、自分をよく見せたいというスケベ根性が旺盛なものばかりがのさばる社会になってしまっている。
自分のことなんか、どうでもいいじゃないの。
自分なんか、うんざりじゃないか。
ただ「今宵逢う人みな美しき」とときめいていられたらいいだけじゃないか。
人間は、生き延びることを断念している存在なんだよ。それは、自分のことなんかどうでもいい、ということだ。
深く自分にわずらわされている存在だから、自分のことなんかどうでもいいと思ってしまうのが人間であり、そうやって生き延びることを断念し、「今宵逢う人みな美しき」とときめいていったのだ。
そういう捨て身の精神は、西洋人にも、戦後世代のあなたたちのようなサディストにもわかるまい。