祝福論(やまとことばの語源)・「かわいい」35・へうけ=ひょうけ
大人の女は、若い娘がむやみに「かわいい」を連発することに少々批判的であるらしい。
何か向上心がないことや、感性がステレオタイプであるかのような印象があるのだとか。
しかしそれは、ちょっとちがう。向上心があっても、感性が豊かな娘でも、「かわいい」ということばに対する違和感はない。
そういう時代なのだ。
彼女らは、「かわいい」ということばに親しみを覚えてしまうような状況の中に置かれている。
個性の問題ではない。
「かわいい」ということばそのものにあまりこだわる必要はない。そうやってときめいてゆく心の動きが生まれてくるような情況がある、それが問題だ。
日本列島の歴史の水脈として、そんなふうにときめいてゆく心の動きがある。
関西弁のおばあさんがまったりとした口調で「かわいらしなあ」とつぶやいたりする風情も、歴史を感じさせてなかなかいいもんである。
そしてそういう風情にいちばん敏感に反応しているのは、今どきのギャルに違いない。
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「かわいい」というときめきは、縄文時代からはじまっている。
人間が定住し「けがれ」を自覚すれば、そこから「かわいい」とときめく心の動きが生まれてくる。
ただ小さくて愛らしいものに対してだけではない。
今どきのギャルは、「きもかわいい」などともいう。
縄文時代の土偶は、まさにそんな表情をしている。
埴輪の原初的な造形だって、そういう系統だといえなくもない。妙に不思議な「きもかわいい」雰囲気がある。
それは、そのころの人々の造形能力が稚拙だったからではない。呪術性というか宗教性を表現するために、わざとあんなかたちにしたのだ。リアルにつくろうと思えばつくることくらいできたのである。縄文中期の火焔土器の、あの精緻な細工を見れば、その能力がなかったとは思えない。
その証拠に、そのあとに輸入された仏教の美術は、絵も彫刻も建築も、最初から大陸のものとそっくりに表現している。そっくりであればあるほどありがたかったからだ。
そして、天平時代を頂点にしてリアルな仏像彫刻は急速に衰退してゆく。
日本列島の住民は、あまりリアルで生々しいかたちには興味がないらしい。
リアルな現実から逸脱していこうとする衝動がある。
万葉集におさめられた歌謡や和歌には、神に現世利益を訴えたものなどほとんどなく、恋や旅の感慨を歌ったものばかりである。恋や旅は、リアルな現実から逸脱してゆく行為だからだろう。
そして、万葉後期のリアルな自然描写もそのあとの古今集・新古今集へと移ってゆくにつれて影を潜め、ことば遊びのような歌が主流になってゆく。現実よりも、非現実的な「雅び」が尊重されていった。
海に閉じ込められた日本列島の住民は、つねに身の「けがれ」を自覚し、現実世界から逸脱してゆこうとする。
焼き物の世界でも同じである。せっかく染付けの技法を覚えても、リアルな模様を追及してゆくことにすぐに飽きて、安土桃山時代になると、まるで縄文時代の土偶の生まれ変わりかというような「織部焼」が一世を風靡するようになる。
今風にいえば、「ヘタウマ」とか「きもかわいい」の美意識である。
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「へうけ」と書いて「ひょうけ」と読む。すなわち「ひょうきん」、「織部焼」の美のコンセプトをそのように称したのだとか。
それは、武将にして名茶人であった古田織部の美意識に指導されて生まれてきたといわれ、左右非対称のゆがんだかたちや一見粗雑なまるで子供のいたずら書きのような幾何学模様の染付けなどが特徴だった。つまり現実社会の秩序から逸脱してゆくこと、それが古田織部の美意識であり、その精神を「へうけ=ひょうけ」といった。
「へう=ひょう」は、「飄々(ひょうひょう)としている」の「ひょう」。「消失」の語義。「ひょうと矢を放つ」などともいう。「ひょう」という音声には、消えてゆくような語感がある。
「へ」は「へえー」と驚くときの「へ」、意外性の語義。
「う」は、「産(う)む」の「う」、「こぼれ出る」というニュアンス。
「け」は「蹴(け)る」「消(け)す」の「け」。「分裂」「変化」「別世界」の語義。
「け=気」と書くときは、分裂や変化に気づくこと、あるいは分裂や変化の「気配」をあらわす。「けっ」というのは、「そんなことあるものか」という気分のこと。
「へうけ=ひょうけ」とは、意外なものが現われ出ること。ただおどけているのではない、あくまで「逸脱」することに本領がある。意表をつく意匠のこと。
「へうけ=ひょうけ」とは、秩序に対する拒否反応。安土桃山時代の人々は、無意識のうちに、そういう気分を共有していた。しかし、海に囲まれた日本列島の出口はなく、世界の裂け目に消えてゆくことこそ、秩序からの逸脱だった。
そういうコンセプトで、茶の湯や織部焼が生まれてきた。
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安土桃山時代は、ひとまず戦国時代が終息し、天下が統一されていった時代だった。
その秩序の中に置かれることの閉塞感を、人々は「へうけ」という逸脱の精神によって癒そうとしていった。
茶の湯の「一期一会」の精神だって、秩序からの逸脱であり、この世界の裂け目において出会う、というコンセプトだった。戦国の世を潜り抜けてきた当時の武士たちにとってその茶室という狭い空間は、命のやり取りをする場であったわけで、そのようなかたちで秩序の閉塞感から逸脱していこうとした。
縄文時代以来、日本列島の住民は、長いあいだ、男と女が一緒に暮らすよりも一期一会の逢瀬を重ねるという関係の歴史を重ねてきた。
定住する縄文の女たちは、集落の土とみずからの身体のけがれを意識していた。土偶は、一部を壊して土に埋めるものだったらしい。彼女らは、その「きもかわいい」形象にみずからの心と体の「魔=けがれ」を表現していった。そうして、必ず一部を壊して土に埋めたというのは何かのまじないに違いなく、それによって土とみずからの心や身体の「みそぎ」をしようとする祈りが込められていたのだろう。
その壊れた部分に、今ここの「裂け目」を見ていたのだ。
弥生時代の祭りの道具である銅鐸も、土に埋めて保管されていた。これもまた、土の「けがれ」を拭い去ろうとするというか、土の清浄を保とうとする祈りの行為だったのだろう。そうして、集落に疫病が流行ったり不作になったりしたときには、壊して埋めた。このときこそ、本格的に、穢れた土の「みそぎ」をしなければならなかったからだ。
彼らにとって壊すことすなわち逸脱することは、ひとつの「みそぎ」であり、壊すことによって新しいものが生まれてくる。
縄文文化と弥生文化の連続性はあるのだ。多くの学者たちは、この壊れた銅鐸が畿内地方で発掘される結果に対して、九州や大陸からの侵略者が壊したのだと解説してくれるが、何をバカなことをいっているのだろう。あの時代にそんな大がかりな侵略などなかったのだ。村どうしの小競り合いくらいはあったとしても。
そういうくだらないことばかりいっている学者たちに、僕はこういいたい。もっと率直な想像力をはたらかせて、古代人の暮らしやこの国の歴史の水脈を探索しようとする視線を持てよ、と。
中学生の昼休みの雑談じゃないのだから。
海に閉じ込められた日本列島では、「外」に出てゆくことがあらかじめ断念されている。したがって人々は、その閉塞感(けがれ)からの解放を、今ここの裂け目と出会うことに求めていった。
日本列島の住民は、もともと茶の湯の芸術を生み出すような素養を持っていた。
それは、千利休一人によって創造されていったのではない。そこには、日本列島の歴史の水脈と、そのときならではの人々の時代意識が反映されていた。
「へうけ」とは、「けがれ」を自覚したものの、秩序から逸脱してゆこうとする精神。
安土桃山時代の天下統一は、日本列島の住民に、かつてないほどの閉塞感をもたらした。
秀吉が朝鮮征伐に出かけたことも、そうした閉塞感という時代意識が契機になっているのかもしれない。それは、日本列島の住民が、歴史上、初めて敢行した侵略戦争だった。
そのとき新しい秩序の時代になって、頂点の支配者から最下層の庶民まで、人々の意識に得体の知れない閉塞感が覆いはじめ、そこから茶の湯や「へうけ」の精神が登場してきた。
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それはたぶん、貨幣経済の定着ということと重なっている。
中世は、貨幣経済が試されていった時代だった。
貨幣は、それによって一度にたくさんのものが所有できる。大きな金貨を持っていれば、それだけで家も土地も持つことができた。それを持っていることが、家や土地を所有しているのと同じになった。これによって人々の意識は、大きく変化し、所有欲は際限なくふくらんできたし、略奪や搾取に対する罪の意識も薄くなってきた。たとえば、奪ったものを貨幣に換えてしまえば、奪ったという証拠もなくなってしまい、奪った当人の心の負担も同時に消えてしまう。
今だってそうだろう、貨幣は、人の心をそういうところに運んでいってしまう。
そのようにして中世は、上から下まで略奪や搾取が横行する世の中になっていった。それはたぶん、貨幣経済が定着するまでの試行錯誤の現象だったのだ。
そうして、安土桃山時代になって貨幣経済が定着して貨幣による社会秩序が整備されてくると、人々の心に、何か自由が奪われたような妙な閉塞感が覆いはじめた。
すべてのものが貨幣価値に換算されてしまう、という理不尽さと閉塞感。
われわれ現代人はそんなことは当たり前だと割り切っているが、はじめてそれを体験する人々にとっては、何か腑に落ちないようないたたまれないような、妙な居心地の悪さを覚えたに違いない。
とくに安土桃山時代の、戦国の乱世を生きた武将たちにとってそうした貨幣経済の秩序に支配されて生きることは、なおさら耐え難いもものがあったに違いない。
だから、「へうけ」の精神が一世を風靡していった。
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社会が安定してくると、「へうけ=ひょうけ」の精神が起こってくる。
現在の「かわいい」ということばの流行もコギャルの「なんちゃって」ファッションも同じであろう。
テレビでは、お笑い芸人がもてはやされている。
秩序から逸脱してゆくカタルシスがなければ秩序は保てない。
人間は、人間の「にせもの」になろうとする。
現代の若者たちは、大人たちの教養主義や偏差値尊重を「くだらな」と幻滅し、「俺たちバカだから」といいながら生きようとしている。
彼らは、みずから「にせもの」の人間になり、「にせもの」に「かわいい」とときめいてゆく。
それはもうしょうがない。「にせもの」になることがこの国の伝統なのだから。
秩序をつくるために伝統があるのではない。秩序から逸脱するカタルシスが伝統になってゆくのだ。
秩序(=平和)から逸脱してゆくカタルシスがなければ、秩序(=平和)は保てない。
なぜなら秩序(=平和)は、人々に「けがれ」を自覚させるからだ。
余談だが、僕が内田樹先生に悪態をつく態度を「けがれている」と非難をしてきた人がいるが、そうじゃない、善人ぶって尊敬の態度を示すことこそ「けがれ」なのだ。善人になって自己満足してしまったら、心は動かない。その心が動かない状態を「けがれ」というのであり、そうやって秩序(=平和)と同化してゆくことを「けがれ」というのだ。
われわれは秩序に同化しなければ生きてゆけないし、秩序に同化してしまっては生きてゆけない。
そういう同化した立場から逸脱して「自分はここにいてはいけないのではないか」と問う存在になることによって、はじめて心が動き出す。そういう存在になる手続きとして、伝統がつくられてゆくのだ。そういう存在になる手続きを共有してゆくことを伝統というのだ。
悪態をつくのもひとつの「へうけ」の精神(あまり高級ではないが)であり、「へうけ」の精神がなければ秩序(平和)は生きられない。
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海に囲まれた日本列島では、長い長い秩序(=平和)の歴史を歩んできた。日本列島の住民は、秩序(=平和)の中に置かれることの「けがれ」の自覚が骨身にしみこんでいる。しかしだからこそ、秩序(=平和)から逸脱して生きるための手続きも洗練されている。
正義ぶって秩序(=平和)に居座ったら、秩序(=平和)は生きられないのだ。
アメリカは、戦争をしながらみずからの秩序(=平和)を維持してゆく。
だから彼らは、僕が内田先生に悪態をつくことを懲らしめてみずからの秩序(=アイデンティティ)を守ろうとしてくる。
アメリカも彼らも、サディズムを培養しながらみずからの秩序を守っている。
江戸時代に心中が流行ったのは、儒教道徳という秩序に居座る装置がサディズムとして機能していたからである。現在のこの国で自殺率が高いのも、秩序(=平和)に居座ろうとする社会のスローガンがサディズムとしてはたらき、弱いものや貧しいものを追いつめているからだ。
人格者ぶったやつなんか、みんなどうしようもないサディストなのだ。僕はこれまでの人生の中でそういうサディストと何度も何度も出会ってきたし、今どきの若者だって、大人たちのそういうサディズムを感じて追いつめられているのだ。。
日本列島の歴史の水脈において「秩序」は、「すでにあるもの」であって、「守るべきもの」ではない。
われわれは、秩序から逸脱する。逸脱しなければ秩序の中にいられない。
それは、秩序の外に出ることではなく、秩序の裂け目に気づき、そこに向かって「消えてゆく」ことだ。
「へう=ひょう」ということばには、「消えてゆく」というニュアンスの語感がある。「へうけ=ひょうけ」とは、秩序から逸脱して消えてゆく身振りのことをいう。身をかがめて茶室に入ってゆくことも、ひとつの「へうけ=ひょうけ」の身振りである。そしてその逸脱して消えてゆく身振りの伝統は、縄文人が土偶の一部をわざと壊して土に埋めたことからはじまっている。
そういう歴史の水脈が、今どきのギャルの「かわいい」とときめく身振りとしてよみがえっている。
「へうけ=ひょうけ」の精神を持たなければ、秩序(=平和)は生きられない。