鬱の時代27・やまとことばの語源・「ふける」「たび」

むかし、村田秀雄という歌手が歌って大ヒットした「王将」という歌の出だしの文句はこうだった。
「吹けば飛ぶような将棋の駒に……」
「吹けば」というのはようするに「風が吹けば」というような意味なのだろうが、この「ふけば」の「ふけ」という音韻にはそれだけですまない、日本列島の住民の無常観に訴えてくるとくべつなニュアンスをはらんでいるように思える。
「ふけば飛ぶような」はひとつの慣用句で、「ふけば飛ぶよな人生」とか「ふけば飛ぶよな男」とか「ふけば飛ぶよな会社」などいうふうによく使われる。このとき日本列島の住民は「ふけば」という言葉を、ただ「風が吹けば」という意味だけで使っているのではない。「ふけ」という音韻がはらむ無常観のニュアンスがあって、そういう感慨というか思い込みがはたらいている。
「王将」という歌の、「ふ〜け〜ば……」と歌いだすその調子に、日本人の無常観が反応して大ヒットになったのだ。まあ、ためしに聞いてみればいい。
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「ふく」と「ふけ」では、やまとことばにおいては音声のニュアンスが違ってくる。
「く」と「け」の違いは、たしかにある。
「く」は「組む」の「く」。「錯綜」「混乱」の語義。
困り果てたときに「く、く、く、く……」とうめく。「く」という音声は、そういう感慨とともに口からこぼれ出る。
一方「け」は、「けっ」と、ふてくされたときに発する音声。「蹴る」「消す」「もののけ」の「け」、「変化」「分裂」の語義。「蹴る」ことは、「分裂」するように勢いよく二つのものが離れること。「消す」ことは、「ある」から「ない」に「変化・分裂」すること。「もののけ」も、この世とあの世の「変化・分裂」の上に現れている。
つまり、「く」は、ややこしく組み合わさっている状態をあらわすのに対して、「け」は、きっぱりと離ればなれになっている。だったら、まるで逆のニュアンスをあらわしている音韻ということになる。
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「ふける(=いなくなる)」「耽る」「更ける」「老ける」「(芋が)ふける」、これらはすべて「消えてゆく」ことをあらわしている。「耽る」は、何かに熱中して自分が消えている状態。秋が「更ける」といえば、秋がしだいにに遠ざかって、もうすぐ冬がやってきそうな気配が現われてくる頃のこと。「老ける」は、若さが消えてゆくこと。芋が「ふける」とは、芋の生の状態が消えてゆくこと。語源においてはどれも、ひらがなの「ふける=消えてゆく」ということばなのだ。
「ふけ(る)」の「ふ」は、「震える」「伏す」「拭く」「踏む」「降る」の「ふ」。「ふ」は、もともとはっきりした音になりにくい「は行」の中でも、口をほとんど閉じて発声するため、ことにたよりない音になってしまう。「ふ」は「消す」「消える」というニュアンスをあらわす音韻。「震える」も「伏す」も、「消えてゆく」かたちである。「拭く」「踏む」「降る」は、「消す」行為あるいは現象である。雨が降れば、水浸しになって、地面を消してしまう。
そして「ふける」の「け」は、「変化・分裂」の語義で、「消す」の「け」。
「ふける」とは、「消えてゆく」ことに対する感慨が深く込められていることばなのだ。「ふ」と「け」で、二重にその感慨を込めている。
「ふっと消える」というから、「ふ」はまあ「消える」というようなニュアンスで、「消えてゆく」の「ゆく」のニュアンスは、「け」という音韻が担っている。
「ふけ」と発声するときの、その音韻ならではのニュアンスがある。
日本列島の住民は、「消えてゆく」ことに対するとくべつな深い思い入れを抱いている。そうして「ふけ(る)」ということばが生まれてきたのだが、その底には、この島国ならではの無常観が横たわっている。
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やまとことばには、「消えてゆく」というニュアンスのことばがたくさんある。
日本列島の住民にとっての生きてあることのカタルシスは、「消えてゆく」ことにある。そういう体験から「ふける」という言葉が生まれてきた。
そしてわれわれは、今なお「ふけ(る)」ということばに深い思い入れを持っている民族であり、だから「吹けば飛ぶような将棋の駒に……」という歌がヒットした。
「ふけゆく秋」といえば、秋がしだいに遠ざかってゆくこと。それが、日本列島の「季節のうつろい」である。
しだいに消えてゆくことのカタルシス
日本列島の住民は、おぼろにかすんでいる景色が好きだ。
世阿弥は、「萎れたる姿こそ花なり」といった。これも、しだいに消えてゆくことのカタルシス止揚する美意識であろう。
年をとって、身体と歩調を合わせるように意識がしだいにぼんやりしてゆくのならいいが、そうはいかない。心は、死ぬ直前まで活発にはたらいている。記憶力があいまいになっているボケ老人だって、心は活発に動いている。
年をとったら、なお死ぬことが怖くなってくるのだ。
ことに現在は、達成感ばかり止揚して、消えてゆくことのカタルシスを汲み上げることができなくなっている社会だ。そうやってボケ老人を大量生産し、鬱の人をなお追いつめている。
しかし、「ふける」というやまとことばの語源について考えてみれば、この国の古代人や原始人においては、身体に寄り添うように消えてゆくことのカタルシスが汲み上げられていたことがわかるし、われわれは今なおそういう文化風土の上に暮らしている。それは、しだいに老いてゆくという命の流れに沿う世界観であった。彼らは「消えてゆく」ということに、命やこの世界の原理を見ていた。
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日本人は、旅が好きだ。旅は、故郷からしだいに遠ざかって消えてゆく行為である。日本列島の旅は、そういうコンセプトの上に成り立っている。
「たび=たひ」、やまとことばは、対象の「意味」を論理的に説明し伝達する機能として成り立っているのではない、対象に対する「感慨」の表出として生まれ育ってきた。このことを問わなければ、語源にはたどり着かない。
現在の学者世界の語源論なんか、いたずらに「意味」をまさぐっているばかりじゃないか。おそらく、西洋の「言語論=意味論」の受け売りでやまとことばの起源を考えているからだ。そんなんじゃだめだ。
「たび=たひ」の語源は、古代人や原始人の旅に対する「感慨」に推参しなければ明らかになってこない。それは、「感慨」を表出することばだったのだ。
「た」は、「足る」「立つ」の「た」、「充足」「完結」を表す音韻。つまり、カタルシスを得ること。
「ひ」は「秘める」「ひっそり」の「ひ」、「孤独」「秘匿」の語義。
「旅」とは、ふるさとを離れてゆくことのさびしさや孤独をしみじみと噛みしめ、そこからカタルシスを汲み上げてゆく行為……ということになる。これが、語源だ。古代人は、このような感慨から「旅(たび)」ということばを生み出していった。
べつに「意味」を伝達しようとして「たび」ということばを生み出していったのではない。
他者と旅についての感慨を共有してゆく機能として、ただなんとなくその場でそういう音声がこぼれ出て、共感されていったのだ。
みんながその音声に共感してゆくことによって、その音声が「ことば」になったのだ。
ことばは、意味を伝えようとする「個人」によって生み出されたものではない。それは、ある感慨とともにただなんとなく口の端からこぼれ出ていった音声だったのであり、みんなのあいだでその音声に対する共感が生まれたとき、「ことば」になったのだ。
ことばを生み出そうとする「知能」がことばを生み出したのではない。ある「感慨」とともになんとなくこぼれ出ていった音声が「ことば」になったのだ。
それは「知能」の問題ではない。人が生きてあることの「感慨」の問題なのだ。人間は、そういうさまざまなニュアンスの音声がこぼれ出るような「感慨」を抱いてしまう生きものなのだ。
人が人として生きてあることのいたたまれなさ、というのはあるのだろう。死という概念を持ってしまった存在としてのいたたまれなさというのはあるだろう。そういう「いたたまれなさ」から、人間的なさまざまなニュアンスの音声がこぼれ出てきて、それが「ことば」になっていった。
人間は生きてあることの「いたたまれなさ」を抱えて存在している。そして、限度を超えて密集した群れを形成していることの「うっとうしさ」を抱えて存在している。この二つが契機となり、そこからカタルシスを汲み上げてゆく機能として「ことば」が生まれてきた。
ことばは、「知能」が「伝達」のために生み出したのではない、人として生きてあることの「感慨」と「共感」からことばになっていったのだ。
「知能」とか「伝達」という概念でことばの起源を語ろうする、あなたたちのその薄っぺらな思考回路はなんなのだ。そんな思考は、ぜんぶアウトだ。ただの思考停止じゃないか。
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日本列島の住民の旅に対する感慨から「たび」ということばが生まれてきた。すなわち「たび」というやまとことばには、「それはふるさとから遠去かって消えてゆくことのさびしさからカタルシスを汲み上げてゆく行為である」という無意識的な認識(世界観・無常観)がこめられている、ということだ。
僕のかつての友人に、キャンピングカーの雑誌を編集している男がいた。数年前、彼は、こんなマイナーでただのアメリカのまねごとみたいなジャンルで仕事をしているのはむなしい、といっていた。
だから僕は、こういってやった。「そうだろうか。漂泊というのはこの国の伝統的な精神であり、キャンピングカーの空間は、そのまま畳二畳の茶室の空間ではないか。日本人ほど狭い空間で世界を完結させてしまうことの上手な民族もいない。キャンピングカーは、いずれ日本人にとって大切な文化の一つになってゆくのではないか」と。
僕は、彼へのメッセージとして、このブログで2ヶ月間「漂泊」というテーマで書き続けた。
その彼とも、このまえ喧嘩別れのようになってしまった。
僕が、学者先生をあほ呼ばわりするのが気に入らないんだってさ。
そんなことをいわれても、発言の場がこんなところにしかない弱い犬は、ひとまずキャンキャン吠えてみるしかないではないか。
やめろ、といわれても、そうかんたんにはうなずけない。
いやまあ、それはともかく。
日本列島の住民の旅の感慨は、故郷を去ってゆくことにある。「去る」のではなく「去ってゆく」のだ。「消える」のではなく「消えてゆく」のだ。その漂泊感に、カタルシスがある。
「消えてゆく」の「ゆ」は、「湯」の「ゆ」、冷たい水が温かくなって水蒸気として消えてゆくまでの過程の状態を「湯(ゆ)」という。「ゆ」は、「過程」の語義。
「消える」ことが死であるなら、「消えてゆく」ことは、生きてあることだ。そういう違いがある。オルガスムスの恍惚は、「消える」ことではなく、「消えてゆく」ことにある。
身体は、消えてゆくときにはじめて実感され、愛着される。
同様に、故郷は、遠ざかって消えてゆくときにはじめて実感され、愛着される。
なぜ人間は「消えてゆく」ことを「生」とするのかといえば、生きてあることが「いたたまれない」ものであるからだ。
同様に、日本列島の住民がなぜ漂泊の旅に出るのかといえば、故郷に定住していることが「いたたまれない」からだ。いや、生きてあること自体がすでに「いたたまれない」ことであるからだ。
人の心の奥底には、生きてあることの「いたたまれなさという緊張」がつねにはたらいている。とくに鬱状態になると、不断にそういう「緊張」に追いつめられている。人間の心の根源であるそういう「緊張」を自覚してしまうことを「鬱」という。ただぼんやりしてしまうというのではないのである。そしてそういう「緊張」からの解放として、人は旅に出る。
日本列島では、「旅に出る」のだ。西洋のように「旅に行く」のではない。
そもそも「出る」ことがコンセプトだから、目的地はさし当たって大きな問題ではない。
しかし西洋では、目的地に向こうことが旅だから、「行く(go)」という。
日本人が旅に出ることが好きな民族だということは、それほどに生きてあることや故郷に定住していることに「いたたまれなさ」を深く覚えている、ということを意味する。だから「出る」という。そして、こうした心の動きは、古代人だけのものではなく、今なおわれわれの中にも疼いている。
日本人の旅は、漂泊の旅である。目的地はさし当たってどうでもいい、故郷を「出る」ことが旅なのだ。古代人は、故郷から遠去かってゆく感慨を「たび」といった。
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「消えてゆく」という体験がカタルシスになって、人間を生かしている。
自分を知る、という体験の達成感が人間を生かしているのではない。「われあり」ということなんか証明したって無駄なことだ。他愛なく世界や他者にときめいて、「われあり」ということなんか忘れてゆく(消えてゆく)体験にこそ、生きてあることのカタルシスがあるのだ。それが「生きられる意識」だ。「われあり」の証明ではない。
やまとことばの「たび」や「ふける」は、そういう「消えてゆく」ことのカタルシスを表出したことばである。
日本人なら、というより、人間なら誰だって生きてあるのは「いたたまれない」ことなのだ。誰もがそういう「緊張=鬱」を抱えて生きてあるのだ。
おまえら、そういう「緊張=鬱」を自覚できないから、インポになっちまうのだ。そうやって生きたければ勝手にそうすればいいが、おまえらの生き方こそ人間の生きてあるまっとうなかたちであるというような制度的正義を振りかざしてわれわれに押し付けてくることだけはやめてくれ。
そういう制度的正義をむやみに振りかざす世の中だから、貧しく弱い人たちや鬱の人がなお追いつめられねばならないのだ。
鬱の人は、「トラウマ」によって鬱になったのではない。「トラウマ」なんて、ほとんどが捏造されたものだ。そういうことではなく、「いたたまれなさ」という人間の真実に敏感過ぎたからだ。敏感になってしまう「環境」はあったかもしれないが、捏造された「トラウマ」なんかあれこれ詮索しても無駄なことだ。
「消えてゆく」ことのカタルシスを、あの連中に奪われてはならない。奪われたカタルシスを、取り戻さねばならない。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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