鬱の時代28・旅の感慨としての「道(みち)」

奈良時代以前には、行き倒れになった旅人の死体を地元の村人が始末してやると、旅人の家族や連れから、その始末料や死体に触れた「けがれ」の慰謝料のようなものを請求できたらしい。
その時代の旅は、行き倒れが日常茶飯事であるくらい困難なものだった、ということだ。つまり、目的地が必ずしも最重要ではなく、旅に出ることそれ自体に深い感慨があったから、それほどに困難でも旅に出たのだ。
また、古代の道はほとんどが山道だったから、いったんはぐれたら、永久に目的地にたどり着けなくなってしまうことも多い。それでも彼らは、旅に出た。
万葉学の権威である中西進氏は、古代人にとってそれほどに旅は忌むべきもので故郷の家が大切なものだった、といっておられるが、そうじゃない。だったら、誰も旅なんかしようとしない。それでも、多くの人が旅に出たのだ。定住することや生きてあることのいたたまれなさ(けがれ)から逃れようとするかのように。
防人として東国から九州に派遣されることだって、旅がいやな民族だったら、あそこまで素直に従いはしないし、多くの者が途中でいなくなったり逃げ帰ったりしたことだろう。
故郷は恋しいけど、帰りはしない。故郷は恋しい、というその感慨に生きてあることのカタルシスがあるからだ。故郷に帰ってしまったら、故郷は恋しい、というこの感慨はもう味わえない。日本列島の住民は、「今ここ」でこの人生に決着を付けてしまおうとする。故郷は恋しい、というその思いが、この人生の決着になる。
古代の旅は、漂泊の旅だった。
そういう伝統から、江戸時代には東海道五十三次の旅が流行したわけで、それは、目的地もさることながら、宿場宿場に逗留する漂泊の味わいも大切にされた旅だった。
昨今の「道の駅」のブームも、お手軽ではあるが、まあそんな漂泊の旅の伝統なのだろう。「パーキングエリア」という外来語をやめて、「みちのえき」というやまとことばになったのも、そのような歴史の水脈であったからにちがいない。
バブルの喧騒が終わり、はた迷惑な団塊世代が退却をはじめて、歴史の水脈がよみがえってきている時代なのだ。
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日本列島の住民の旅は、漂泊の感慨と共に「道(みち)」ということばを大切にする。
「みち」の「み」は、「見る」「実」「水」の「み」、やわらかいもの、あるいはやわらかくなってゆくものをあらわす。
「み」と発声するとき、体の中の空気というか体の筋肉というか、そんなものがやわらかくほぐれてゆくような心地がする。
「見る」とは、気持ちがやわらかくほぐれる体験である。その行為を論理的に説明しているのではない。たとえば好きな人や美しい景色を眺めたりするときの、その感慨をあらわしていることばなのだ。
「実」は、熟してやわらかくなってゆくもの。
「水(みづ)」は、もっとやわらかくて地面やコップにくっついているもの、だから、「つく」の「つ=づ」がつく。
「み」という音韻は、やわらかさのニュアンスをあらわしている。
そして「ち」は「血」の「ち」、体からほとばしり出るもの。「ちぇっ」といって不満を吐き出す。
「小(ちい)さい」ものは、現れ出るものである。だから「ち」がつく。
「ち」という音韻は、ほとばしり出たり現われ出るニュアンスをあらわしている。
すなわち「道(みち)」とは、「集落(故郷)からほとばしり出て気持ちをほぐしてくれるもの」、まあそういうニュアンスがこめられていることばなのだろう。
「道(みち)」ということばには、日本列島の住民の旅情を誘うニュアンスがそなわっている。
まあ、昔の道はほとんどが山道だったから、やわらく曲がりくねっている、というニュアンスもあるのだろう。
また、曲がりくねっている道だから、道の向こうに目的地が見えているということもない。すぐ近くにたどり着いて、はじめて目的地が現れる。そういうことからも「目的地を目指す」というメンタリティが育ちにくかったのかもしれない。
日本列島においては、目的地すらも、目指す対象ではなく、「今ここ」に現われ出るものにほかならなかった。
「みち」とは、途上の感慨のこと。だから、「芸の道」とか「剣の道」などという。「芸の道」や「剣の道」に達成感などない、途上の感慨があるだけだ。
日本列島のもともとの生命観に、天国や極楽浄土といった「目的地」はなかった。古代以前の人々は、死んだら何もない「黄泉の国」に行くだけだ、と思っていた。
漂泊することが、日本列島の旅の感慨であり、生きてあることの感慨だった。
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人は、いろんなかたちで気持ちがやわらかくほぐされる体験をする。
近ごろでは「癒し」などという。
そういう体験をするということは、その契機として、いたたまれなさという緊張を抱えて生きている、ということだ。そしてそれはもう、現代社会がそうだからという以前に、人間が生きてあるということそれ自体がいたたまれなさという緊張の上に成り立っている、ということだ。
「み」という音韻だって、人間が生きてあることのそういう根源のかたちから、ひとつの「癒し」の体験として生まれてきた。
生きものとして不自然な二本の足で立つという姿勢をとっている人間は、他の動物以上に生きてあることのいたたまれなさを抱えて存在している。
鳥や恐竜が二本の足で立っているのとはわけが違うのである。ほんらいなら四本足の姿勢が自然であるはずの猿が、二本の足で立っているのだ。われわれは、そういういたたまれなさを根源的に抱えて存在している。
人類7百万年の歴史といっても、生きものの進化の歴史においては、ほんの一瞬のことだ。われわれは、昨日はじめて立つことを覚えたようなものだ。
いたたまれなさを抱えて存在しているのが、人間であることのかたちなのだ。だから、いろんなニュアンスの感慨が生まれ、それとともにいろんなニュアンスの音声が思わず口をついて出るようになってきた。これが、ことばの起源である。何かを伝えるためとか、そういうことじゃない。思わず口をついて出た音声をみんなして共有していったことによって「ことば」になったのだ。
感慨さえあれば、音声としてのことばは、考えるよりも早く、イメージするよりも早く口をついて出る。
イメージ豊かでよく考える人ほどおしゃべりかといえば、そんなことはないだろう。何も考えないでイメージ貧困なやつほどおしゃべりだ、とさえいわれている。言葉とは、ほんらいそういうものなのだ。伝えるべき考えやイメージなどなくても、「感慨」さえあれば口をついて出てくる。
ことばが生まれてきた契機は、人間として生きてあることの「いたたまれなさ」にある。そのいたたまれなさから、さまざまなニュアンスの音声が口からこぼれ出てきた。
その音声は、いたたまれなさをやわらかくほぐす機能を持っている。
生きてあることのいたたまれなさからの解放としてことばが生まれ、育ってきたのだ。
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いたたまれなさからの解放というテーマは、人間なら誰だって抱えている。鬱の人だけのものではない。いいかえれば、人間なら誰だって鬱を生きているのだ。
二本の足で立って歩く存在であるわれわれは、「自分はここにいてはいけないのではないか」といういたたまれなさを抱えて生きている。
だから、旅に出る。人間ほど「歩く」という行為が好きな生きものもいない。ほおっておけば、どこまでも歩いてゆく。それは、歩くことが上手だからでも疲れないからでもない。もともと4本足の猿が2本の足で立って歩くのだから、下手くそだし、疲れるに決まっている。それでも、歩くことが好きなのだ。
まわりの景色に感動したり心が和んだりして歩いていれば、歩いている身体(足)のことなど忘れてしまう。二本の足で立って歩くという行為は、体の軸を少し前に倒すだけで、足が勝手に前に出てゆく。そのようにして直立二足歩行は、体のことを忘れて歩いてゆける姿勢である。だから、下手くそでも疲れても歩いていられる。
人間にとって二本の足で立って歩くことは、身体の消失感覚の上に成り立っている。それは、いたたまれなさからの解放であるはずだ。
道を歩けば、いたたまれなさから解放されるやわらかい気持ちがわいてくる。そのような道を歩く感慨から、「みち」といったのかもしれない。
この「消失感覚」こそ、原初の人類の直立二足歩行の感慨であり、日本列島の文化の基層のかたちにほかならない。歩くことは、「今ここ」から消えてゆくこと。そういう消えてゆくカタルシスが湧いてくることを「道(みち)」という。
旅は、故郷という「今ここ」から消えてゆく行為である。
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人間は、生きてあることの「いたたまれなさ」を抱えている存在だから、消失感覚というカタルシスを汲み上げることができる。汲み上げなければ生きてゆけない。だから歩くのだし、旅にも出る。
楽しいばかりで幸せいっぱいなら、消えてゆきたくないだろう。
消えてゆきたくなくて「生きようとする本能」ばかりで生きているのなら、消えてゆくというカタルシスなんか生まれてこない。
「生きようとする本能」などといっても、誰だって消失感覚で生きているじゃないか。
生きものの体が動いて移動してゆくことは、「今ここ」から消えてゆく行為である。
人間以外のどれほどの生きものが「目的地」という「未来」を意識しているというのか。
根源的には、生きものに「未来」という時間意識などないのだ。したがって、「生きようとする本能」という概念も論理的に成り立たない。
ただもう「今ここ」から消えようとしているだけだ。
抱きしめあうことは、抱きしめた相手の身体ばかりを感じて、自分の身体に対する意識が消えてゆく体験である。ペニスを迎え入れた膣は、ペニスばかりを感じながら、やがて体ごと消えてゆくようなオルガスムスに堕ちてゆく。
生きものは、消えてゆくカタルシスとともに生きてある。
物が動くのは、「応力」がはたらくからだ。生きものの体だって、「いたたまれなさ=苦痛」という応力がはたらいて動いてゆく。アメーバだってきっと、「今ここ」にはいられない事情を抱えているのだ。「目的地」はさし当たってどうでもいい。「今ここ」から消えてゆくことにカタルシスがある。
われわれは、息苦しいとか空腹とか痛いとか熱い寒いとか、そういう「今ここ」の「いたたまれなさ=苦痛」に追いつめられて生きてある。
不治の病に冒された人が自殺してしまうのも、「今ここ」から消えようとする衝動によるのだろう。その苦痛やいたたまれなさはもう、死ぬことによってしか消えない。そしたらもう、死ぬしかないではないか。
人間に消えてゆこうとする衝動がはたらいていなければ、誰も自殺したりはしない。それは、けっして不自然なことではない。
この生に、「目的地」などない。最後は消えてゆくだけだ。そして、消えてゆくことが生きてあることなのだ。
うまい結論が浮かんでこないのだけれど、とにかく「消えてゆくタッチ」が日本列島の旅の感慨であり、「道の駅」ということばとともに、そういう歴史の水脈がこの騒々しい「鬱の時代」によみがえりつつあるのかもしれない、と思ったりもするわけです。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
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