鬱の時代27・「そま道」というやまとことば

「生きられる意識」とは何か?。
これは、「鬱の時代」を生きるわれわれの大きなテーマです。
やつらは、こういう。「生きることには意義があり、人間は生きようとする衝動(本能)を持っているからだ」と。
そうだろうか。そのことが信じられなくなっているから、「鬱の時代」なのだ。われわれみじめな人生を生きている者たちは、そんな安直な結論ですむような立場には置かれていない。
僕にとって、生きることに意義なんかないし、人間だろうとただの生きものだろうと根源的にはそんな衝動(本能)など存在しない、と思っている。
ただ、われわれは、生きようとするまでもなく「すでに生きてしまっている」存在だから、とりあえずその「結果」と和解するしかない。和解する意識として「生きられる意識」を問うているだけのこと。
息苦しければ息をしてしまう。それは、われわれの本能によるのではなく、身体がすでにしてしまっていることだ。そんなことは、植物状態の病人でもしている。それは、衝動=本能でしていることではなく、身体のシステムがすでにそうなっている、というだけのこと。それは、物理学の問題なのだ。物理学者がその解答を差し出す責務を負っている問題なのだ。
われわれは、「すでに生きてしまっている」。だから、生きてあることや生まれてきてしまったことと和解しなければならない。
そういう根源の問題にふたをして、生きることに意義があって生きものは生きようとする衝動(本能)を持っている、と規定してしまうのは、ただの思考停止であり、この社会でのうのうとのさばって生きている者たちの傲慢なエゴイズムなのだ。
彼らはそれですむかもしれないが、われわれのみじめな人生はそれだけではすまない。われわれが抱えている「鬱」の問題は、それだけでは解決しない。われわれは、彼らよりさらに深く遠くまで問うてゆかねばならない。
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内田樹先生の「生きられる意識」は、たとえばこんなふうらしい。
1・私は生きなければならない、という自覚。
2・他者から、「あなたなしでは生きられない」というメッセージ(懇請)を受けることによってもたらされる自尊感情。そういう自尊感情が人間を生かしている。
3・したがって、人と人の関係の根源は、そういうメッセージ(懇請)を交し合うことにある。
おおよそ、このようなことなのだそうです。
まったく、何いってるんだか。
僕は、自分が「生きなければならない」存在だと思ったことなんかない。生きていてもしょうがないだけのつまらない人間だと思っている。僕が生きなければならない理由なんかない。でも「すでに生きてしまっている」「すでに生まれてきてしまった」からには、そのことと和解しなければならない。そうでないと、うまく死んでゆくこともできない。
僕は、生きてあることのカタルシスをすでに体験してしまっており、すでに世界や他者にときめいてしまっている。すでに生きてしまっている。
「あなたなしでは生きられない」なんて、よくそんなくそあつかましいことがいえるものだ。他人なんて、自分が生きるための道具なのか。そうやって他人を自分のもとに縛り付けておこうとする、その意地汚いエゴイズムは、なんなのだ。人は、そうやって他者を監視し、他者を支配する。それは、あなたの支配欲なのだぞ。
この世の中は、今ここで死んでいっている人がいくらでもいる。生まれてすぐに死んでゆく赤ん坊もいれば、僕よりももっと惨めな人生のまま死んでゆく人もいる。そういう人たちを差し置いて僕が生きていなければならない理由なんか何もないし、あなたが僕が生きるために僕のそばにいなければならない理由も何もない。僕が、そうやって死んでゆく人たちを生きさせる能力があるわけではない。僕はただ、「見送る」ことができるだけだ。僕が生きていなければならない理由なんかないのだから、僕が生きるためにあなたが僕のそばで生きていなければならない理由も何もない。
僕は、「あなたなしでは生きられない」というような懇請はしない。だからあなたにも、そんな懇請をしてくれとも願わない。
そんな懇請をし合っても、人は必ず死んでゆくのだし、必ず別れなければならない。
別れなければならないし、別れることと和解することが、僕の「生きらる意識」だ。
人は、「一緒に暮らそうとする」存在であるのではなく、「すでに一緒に暮らしている」存在なのだ。そしてすでに定住して一緒に暮らしているということは、誰もが死んでゆく身だから、誰もが「別れる」ということと和解しなければならないという宿命を負っている、ということだ。人類が大きな群れをつくって定住しているということは、そういうことなんだぞ。内田先生、あなたのようなインポ野郎には、わからないらしいな。インポ野郎にかぎって、「あなたなしでは生きられない」などという暑苦しい懇請をしたがる。
すでに大きな群れをつくってすでに一緒に暮らして定住しているわれわれにとっての「生きられる意識は、いまさらのように「あなたなしでは生きられない」などという暑苦しい懇請をしあうことではなく、「別れることと和解してゆく意識」なのだ。
だから人は、旅に出る。それは、別れることと和解し、そこから<生きられる意識>としてのカタルシス(浄化作用)を汲み上げてゆく行為にほかならない。
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日本列島の住民の旅に対するもっとも深いところにある感慨は、目的地に向かうことよりも、故郷から遠ざかってゆくことにあった。だから、「旅に出る」という。
万葉集の旅の歌は、出立のときの感慨や故郷のことを思う歌がたくさんある。
それは、「自分が消えてゆく」という感慨である。そこに、日本列島の旅の醍醐味がある。だから、「旅の恥はかき捨て」という。旅とは、自分を消して透明人間になることだ。旅の醍醐味は、自分が「消えてゆく」カタルシスにある。少なくとも日本列島の住民の歴史的な旅の感慨は、そういうところにある。
西洋の旅は、目的地に向かうことにある。これは、地平線の向こうにもうひとつの世界がある、と知っている民族の感慨である。だから、目的地を明確の設定するメンタリティが育ってきた。
しかし日本列島のまわりは海ばかりで、原始人(縄文人)は、水平線の向こうをイメージすることはできなかった。縄文時代玄界灘を渡ってゆくことのできる船などなかった。
縄文人にとっての「沖合い」は、船が沈んでしまって帰れなくなるところだった。そういう事故はいくらでもあったのだろう。だから、海の底の「わたつみのいろこのみや」や「竜宮城」などの話がたくさん生まれてきた。
古代の庶民は、水平線の向こうなどイメージしていなかった。沖合いの海の底が行き止まりだったのだ。「海幸山幸」の話とか「浦島太郎」とか、それらは、沖合いの海難事故で帰れなくなった死者の魂を救済しようとする物語だったのだろう。
日本列島の旅の感慨は、ふるさとを離れて「消えてゆく」ことにある。古代人や縄文人は、水平線の向こうは「何もない」と思い定めて生きていた。日本列島1万3千の歴史のうちの1万年はそういう条件だったのであり、目的地を思い描くメンタリティが育つような風土ではなかった。
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船が岸壁を離れ、見送る人と別れてゆくときにこみあげてくるせつなさは、特別なものがある。このせつなさこそが演歌の正統であり、日本列島の歴史的な旅の感慨の根源的なかたちにほかならない。
また、山ばかりの国である。何しろそういう精神風土だから、山の向こうだって、ひとまず「何もない」と思ってしまう無意識がある。そして「何もない」と思ってしまうから、山を越えてふるさとを離れたとき、自分が「消えてゆく」というひとしおの感慨が湧いてくる。
山道のことを、古くは「そま道」といった。
「そま」とは、「すきま」というような意味だ。山の中の木と木のあいだがまばらになっているところにできた道のことをいう。
しかしこれが語源かといえば、そうとはいえないかもしれない。やまとことばは、もともと「感慨」をあらわすことばである。
「そま」と発声する感慨がある。
「そ」は「そっと」の「そ」、さびしくひっそりとした感慨からこぼれ出る音声。
「ま」は「まったり」の「ま」、「間(ま)」の「ま」、「関係=間(ま)」の中でゆったりと満ちてくる感慨の表出。
「そま」とは、せつなさが胸に満ちてくること。これが、語源のかたちだろうと思える。旅をする古代人や縄文人は、そういう感慨で山道を歩いたのだ。暗い山道を歩くことのせつなさやさびしさは、船の別れとはまた少し違うひとしおのものがある。心細さ、というのだろうか。海の別れが胸をきゅんとさせるものであるなら、山道では、胸の中がしいんとひんやりしてくる。まあ、そういう感慨とともに古代人は旅をしていたのだ。
万葉集はおおらかな自然賛歌である、などといわれたりするが、近代的自我とは無縁の人たちの透明な「嘆き」の歌でもあった。彼らは、自分が「消えてゆく」カタルシスを汲み上げながら旅をしていた。
そして、おそらくこれが、原初の人類の旅の感慨だったのだ。
彼らには、「目的地」はなかった。ふるさとを離れる感慨だけがあった。そのようにして人類は、地球の隅々まで拡散していった。
ユートピアを目指したのではない。
人間は、そして生きものは、根源において、生きてゆこうとする「目的(本能)」を持っているのではない。その達成感がわれわれを生かしているのではない。
生きものを生かしているのは、「今ここ」を離れる消失感覚なのだ。
消失感覚とは、「別れ」の感覚であり、そこから汲み上げられるカタルシスが「生きられる意識」になっている。そのようにして人は、旅に出る。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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