祝福論(やまとことばの語原)・「もの」と「こと」10

西洋人は、「説得する」ということに対するうしろめたさがない。美徳か何かのようなつもりでいる。それこそが彼らの制度性あるということに気づかずに。
そんな詐欺師根性のどこが美しいのか。
日本列島の古代人や原始人の美意識、すなわちやまとことばは、構造的に「説得する」ことに対する無関心の上に成り立っている。
やまとことばの「語(かた)らふ」に、「説得する」というニュアンスは含まれていない。「みんなで<ことば>を共有しながら心を震わせる」というニュアンスがあるだけだ。「かたらふ」という音韻は、直接的には「みんなで心を響き合わせるよろこび」という「感慨」を表出しているだけであって、「ことばを交わしあう」という「意味」は、二義的な機能としてことばの裏に隠されてある。
他人を「説得する」なんて、他人を安く見積もっている態度だ。
それは、他人よりも自分のほうが完全なかたちをしている、という信憑の上に成り立っている。神との一対一の関係に立つ自分が、神との関係が希薄な他人を説得しにかかる。
彼らのことばは、神との関係の上に成り立っている。だから、「はじめにことばありき」という。神を背負っていなければ、説得なんかできない。
神が説得する。だから「自分」はうしろめたくもなんともない。そうやって彼らは、他者と交渉し、十九世紀以来の植民地政策を繰り広げてきた。沖縄の普天間基地問題でも彼らが譲らないのは、そういうことだ。
「ことば」が説得する。神から与えられた「ことば」によって説得する。
「ことば」は、他者の異質性・差異性を超えて説得を果たす。これが、ウィトゲンシュタインをはじめとする現代の欧米人の論理だ。
ことばにはそういう魔力・霊力がある、と彼らは思っている。
この国のやまとことばの研究者がいうような意味での「言霊(ことだま)」を信じているのは、そういう現代人であって、この国の古代人ではない。
この国の古代人は、ことばを発することによってもたらされるカタルシスを「ことだま」といっていただけで、「ことばの霊力」を信じていたのではない。
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脱構築=デコンストラクシオン。
フランス人の「……シオン」という発音は、ひらがな感覚のわれわれが聞いても、美しいと思う。
英語の「……ション」よりずっと美しい。
彼らがなぜ「ション」と縮めてしまわないであえて「シオン」と一音一音ていねいに発声するかといえば、その音韻にこめられた感慨を大切にしているからだろう。意味の伝達のためだけなら、「ション」で間に合うし、そのほうが効率的にちがいない。
フランス人は、ゲルマン民族やその分派であるアングロ・サクソンとは、民族的に少しちがうらしい。どちらかというと、アングロ・サクソンからアイルランド島に追いやられたケルト民族に近い。
フランス人がどうしてあんなにも依怙地なのかというと、感性の違うゲルマン民族アングロ・サクソンに囲まれて生きてきたという歴史があるからだろうか。
彼らのことばは、「意味」よりも「感慨」を表出しようとするニュアンスが濃い。
フランス映画の会話のシーンを見ていると、彼らは、おたがい勝手なことをえんえんとしゃべりあって、相手を説得しようとする意欲が希薄のように見える。だから、ハリウッド映画に比べると、そのシーンが間延びしたように長くなってしまう。
彼らの依怙地さは、説得されるまいという態度になり、その結果、説得しようとする意欲も希薄になる。
彼らは、心理学が好きだ。それは、ことばの「意味」よりも、ことばにこめられた「感慨」に関心があるからだろう。
日本列島の住民には彼らのような依怙地さはないが、ことばのタッチは似ているところがないでもない。
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「シオン=しおん」。
「し」は、「しーん」の「し」、「孤独」「消失」の語義。
「おん」は、「御身(おんみ)」の「おん」。「親愛」「憧憬」の語義。最終的な感慨だから「ん」をつける。
すなわち「シオン」とは、自己が消失してゆくカタストロフィーのこと。最終的な感慨のこと。そういう体験のカタルシスからこぼれ出る音韻。
やまとことばの「潮(しお)」は、ただ海のことをいっているのではない。
潮の干満や海流のことを「しお」という。
だから「それを<しお>に引き上げる」などという。
「しおどき」とは潮が引いているとき、引退するとき。「萎(しお)れる」ともいうように、基本的には、消えてゆくことのカタルシスから生まれてきたことばである。
フランス語の「シオン」と同じなのだ。
「シオン」とは、最終的な感慨のこと。だから、名詞の語尾になっている。自分の中のいたたまれなさが消えてゆく感慨の表出。気持ちがすっきりして、もう迷わないという感慨。
とすれば、英語の「ション」が、いかに意味表出にかたよったことばであるかがわかる。感慨などどうでもよく、意味だけを伝えようとして「ション」という言い方になってしまったのだ。
そしてフランス人は、依怙地にその言い方を拒んでいる。
他者を説得しようとするものは「ション」といい、感慨を表出しようとするものは「シオン」という。
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フランス人は感慨を共有できない相手に囲まれているからあんなにも依怙地になるのだろうし、日本列島の住民は感慨を共有する相手とばかり暮らしてきたから、依怙地になって拒絶するということがうまくできない。
フランス人ならきっと、今ごろは沖縄からアメリカ軍を追い出していることだろう。
戦後の日本列島の住民は、諸手を上げてアメリカ人と感慨を共有しようとしていった。そういう前科があるから、いまさら沖縄から出ていってくれとは、何か裏切るようで強くはいえない。
だいいち、やまとことばそのものが他者を説得するための構造になっていないから、われわれはそういうことが上手な民族ではないのだ。
ことばには「意味の伝達」と「感慨の表出」の機能がある。
「他者」とは、意味を伝達する相手のことか。
人は、他者を説得しようとする存在であるのか、それとも、他者にときめく存在であるのか。べつにときめかなくてもいいが、とにかく原初、「他者と一緒にいる」という感慨からことばがこぼれ出てきたはずで、そのとき生まれたばかりのことばが、身振りや表情より有効な意味伝達の機能を持ちえたことなどあるはずがない。つまり、身振りや表情とは別の機能を持って生まれてきた、ということだ。
そのとき「私はうれしい(悲しい)」と伝えたのではない。そんなことは、身振りや表情のほうがずっと有効だった。ただ、その音声を発し、聞くことのときめきがあった。その音声によって、誰もが同じ感慨を共有していることに気づいた。
同じ感慨を共有していることのときめきがあった。それが、原初の言語体験だ。
「伝えた」のではない、「共有」したのだ。
伝えようとしたのではない、思わずことば=音声がこぼれ出た。その体験を「ことのは」という。
他者の「差異性」とか「異質性」というようなことはどうでもいい。他者もまた自分と同じようにいたたまれない思いをしたりときめいたりしながら生きているということに気づいてゆく機能としてことばが生まれてきた。
意識がことば=音声に憑依してゆく体験。他者とことば=音声を共有していることのときめき。他者と共有することによってはじめて自分を忘れることができる。ことばは、身体にまとわりついている意識が引きはがされる体験として生まれてきた。自分=身体のことを忘れて世界や他者に気づいていることのカタルシスをもたらす機能として、ことばが生まれてきた。
ことばは、他者を説得するための機能として生まれてきたのではない。
あなたは、他者と語り合いながら、他者を説得するためのことばをさがしているのか。それとも、他者と共有できることばを探しているのか。
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原初のことばは、意味を伝え他者を説得するための道具として生まれ育ってきたのか。
そんなはずがない。こういう言い方は、直立二足歩行をはじめた人類がいきなり陸上選手のように早く走れ、いきなり名剣士のように棒を振り回して敵と戦うことができたといっているのと同じくらい、愚劣で浅はかな論理だ。
原初の人類は、いきなりことばを操って会話をしていったのではない。
「象徴化の思考」とやらでことばをイメージし、生み出していったのでもない。
ことばは、「生まれてきた」のだ。
ことばのあけぼのの時代においては、ただ、みんなして「ことば=音声」を共有してゆく喜びがあっただけだろう。それが、ことばの根源的なかたちであり、ことばほんらいの機能なのだ。
ことばは、他者を説得するための道具として生まれてきたのではないし、そんな能力が人間の美徳であるのでもない。