祝福論(やまとことばの語原)・「もの」と「こと」11

「ことほどさように……」という。
意味の解釈に戸惑うことばだ。
「ことほど」とは、その事態の出現に驚いたりあきれたりしている感慨の表出で、「まったく」というようなニュアンスだろうか。「ことほどさように」とは「まったくそのように」といっているのだとすれば、このときの「こと」には、「事態の出現」という意味すらない。事態の出現に対する感慨のことを「こと」といっている。
文法的には、形容詞として扱われている。つまり、「驚く」とか「あきれる」というような形容詞として「こと」といっていることになるのだが、実際は、「ことほどさように」と並べてはじめてそうした感慨のニュアンスが浮かび上がってくる。ただ「ことほど」といっただけでは、その意味にはならない。
「ほど=ほと」とは、「おさまり」のこと。思い知ること。納得すること。
「ことほど」とは、「こと」を納得すること。
しかし「ことほどさように」というと、とたんに驚いたりあきれたりしている感慨が浮かび上がってくる。
そしてどこからそんな感慨が浮かび上がってくるのかといえば、やはり「こと」ということばが持つニュアンスの豊かさからだろう。
意味がシンプルだから、ニュアンスが豊かになる。「こと」とは出現すること、とりあえずそういっておくしかない。
ともあれ「こと」ということばに対する日本列島の集団の無意識があって、それが、この場合の「こと」に「驚く」とか「あきれる」というような感慨のニュアンスを与えている。
「こと」という音声がこぼれ出る感慨がある。われわれは、ことほどさようにことばを感覚的身体的に扱っている。それは、日本列島の住民の生きてあることに対する実存感覚に由来している。
われわれは、生きてあることのいたたまれなさにまとわりつかれて存在している(=もの)。そういう前提を持っているから、「出現する」ことに対するときめきとして「こと」ということばがこぼれ出てくる。
そしてこれほどあいまいなことばの使い方が可能になっているのは、意味の伝達にあまり重きを置いていない社会だからだ。
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日本列島の住民は、ことばによって生きてあることの感慨を共有してゆくだけで、意味の伝達という公共性にはあまり頓着しない歴史を歩んできた。
それを、日本語の限界、という人は多い。
しかしことばの意味作用によって他者を説得してゆくという行為がどれほど制度的で、この人間社会をゆがんだものにしているかということも、われわれはもう一度立ち止まって考えてみてもいいのではないだろうか。
明治の「脱亜入欧」じゃあるまいし、欧米人のようになることがわれわれが目指すべき人間ほんらいの姿だとはかぎらない。
日本語の限界があるのなら、英語の限界だってあるのだ。
つまり、日本語のアドバンテージだってある、ということ。
日本語の表現が、「もの」と「こと」ということばを挿入することによって何もかも意味をあいまいにしてしまっているのだとしたら、それ自体ひとつのアドバンテージでもある。われわれは、それによって、欧米人のような他者をたらしこんだり支配しようとしたりするえげつないスケベ根性から、幾分かでも免れることができている。
言い換えれば、そういうえげつないスケベ根性を学ぼうとして、仏教伝来から終戦後のアメリカ追随まで、われわれは、日本列島の外の大陸文化を受け入れてきた。。
「他者を説得する」というえげつない詐欺師根性を、あなたは美しいと思うのか。
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ことばは、人と人の一対一の関係から生まれてきたのではない。
意味を伝える機能として生まれてきたのではない。
ことばにこめられた感慨をみんなで共有してゆく機能として生まれてきた。
たとえばそれは、女どうしの井戸端会議から生まれてきた。
そのことば=音声にこめられている感慨を共有して座が盛り上がってゆく。
べつに知能が発達したからことばを生み出したのではない。
ことば=音声を発しないではいられないような生きてあることのいたたまれなさが募ってきたからであり、いたたまれなさが募れば世界や他者に対するときめきやかなしみも深く豊かになってきて、思わずことば=音声がこぼれ出るような体験をするようになってきたからだ。
そしてその発せられた「ことば=音声」にみんなして憑依してゆく。これが、ことばの発生の現場で起きたことだ。
だからことばは、集団ごとに違う。みんなしてことばを共有してゆく。どんな「ことば=音声」が発せられたかが問題なのではない。その音声をみんなして共有したとき、それが「ことば」になったのだ。
その「ことば=音声」を共有しているとき、意識は「身体=自分」から離れている、というカタルシスがあった。それほどにそのとき人類は、みずからの身体存在すなわち生きてあることそれ自体に対するいたたまれなさを覚えるようになっていた、ということだ。そういうところからことばが生まれてきたのであって、知能が発達して意味を伝えようとする衝動が芽生えてきたからではない。そんなスケベったらしい手続きは、ことばが流通するようになってから覚えていったこと。
ことばの根源的な快楽は、「身体=自分」を忘れて「自分=身体」の外のことばに憑依してゆくことにある。そしてそのとき「自分=身体」を忘れているのだから、とうぜん他者との一対一の関係を結んだところからことばが生まれてきたということもありえない。意味を伝えようとする自分など存在しないのが、「ことばの発生」という体験だったのだ。
ことばを発しようとする「自分」があったのではない。思わず「ことば=音声」がこぼれ出たのだ。そして発したものも聞いたものも、みんなしてその「ことば=音声」に反応していったのだ。
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「人間とは自己意識である」などとかんたんにいってもらっては困る。
自己意識を引きはがそうとする自己意識がある。そして、自己意識が消えてゆくところに、生きてあることのカタルシスがある。
われわれは、自分が起点になって世界や他者を認識するのではない。自分を忘れて世界や他者が起点になったところで世界や他者を認識している。そういう無意識で世界や他者と出会っているのだ。自己意識は、そのあとに起きてくる。だからわれわれは、いつもどこかしらで、「自分は世界に置き去りにされている」という心の動きを疼かせている。
つまり、「今ここ」は「自己」を持たない無意識とともにあって、「自己」はつねにそこから一瞬遅れて発生する。
われわれの「自己」は、「今ここ」の世界から置き去りにされてある。
われわれは、他者と一対一の関係を結ぶのではない。「他者が存在する」という「今ここ」の世界にまず気づく。その「今ここ」に「自己」は存在しない。置き去りにされてある。
そういう「今ここ」で「ことば=音声」が発生しているのだ。
われわれは、他者と「一対一の関係(いわゆる愛の関係)」を結ぶのではない。他者もことばも、自己に先立って存在している。自己が存在しないところに、他者もことばも現われている。
他者が存在することのときめき、ことば=音声が出現していることのときめき、そこにうっとうしい自己などというものが存在しないことのときめき。関係などというものが存在しないのが、他者との関係なのだ。ことばは、そのような体験として生まれてきた。
何はともあれ、知能が発達したからことばが生まれてきたのではない。生きてあることのいたたまれなさを深く体験する存在になったところからことばが生まれてきたのだ。
自己が起点になってことばが生まれてきたのではない。われわれの「自己」は、「関係」から置き去りにされてある。
二人で語り合うにせよみんなで語り合うにせよ、ときめきは、そこにおいて自己が置き去りにされてある体験として生まれてくる。自分なんか忘れてときめくのだ。それが「かたらふ」という体験である。
そして「もの」や「こと」ということばからさまざまなニュアンスが現われてくるのは、そこに「意味」を問う「自己」が存在しないからだ。自己を忘れてそのことばに憑依してゆくから、さまざまなニュアンスが現われてくる。
ウィトゲンシュタイン柄谷行人氏は、それを「教える=学ぶ」という関係の「パラドキシカル・ジャンプ」である、などと説いているが、そんな言い方は、「言霊(ことだま)」を「ことばの霊力」というのと同じくらい、ただの思考停止だ。
そんな「関係」などないのが、「かたらふ」という関係であり、ことばの根源的な姿なのだ。