祝福論(やまとことばの語原)・「もの」と「こと」7

原初、ことばは、一対一の会話から生まれてきたのではない。
一対一の関係においては、「意味」だろうと「感慨」だろうと、言葉などなくても表情や身振り手振りでなんとか伝わる。一対一の関係は、成熟すればするほど、ことばは必要なくなる。
したがって、一対一の関係からことばが生まれてきたということは、原理的にありえない。
ことばは、一対一の関係ではなく、みんなで語り合う機能として生まれてきたのだ。
みんなで語り合う場においては、「意味」が正確に共有されることはありえない。そのための機能として「文字」が生まれてきたのだが、ともあれみんなで語り合う場でそんなことにいちいちこだわっていたら盛り上がらない。「感慨」さえ共有できればよい。「感慨」が共有されていることに気づいたとき、はじめて盛り上がる。そういう体験がなされる機能として、ことばが生まれてきた。
ことばが発せられれば、みんなが「感慨」を共有していることに気づく。そうやって、「バンザーイ」とか「ブラボー」と叫びあう。もらい泣きをする。
ことばは、「感慨」を共有する機能として生まれ育ってきた。
ことばはまず、みんなで語り合う場から生まれてきた。
原初的身体的なことばであるやまとことばの語源を問うためには、まずこのことが念頭に置かれていなければならない。
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日本列島の住民が文字を持ち共同体をつくったあとに生まれてきたことばなら、「意味」だけで語原を語ることもできたりするだろうが、「もの」や「こと」などの基本的なことばの語原においては、それだけでは探索できない。
「もの」と「こと」は、「感慨のあや」を表出する機能として生まれてきたのであり、みんなで語り合う場の「感慨のあや」を共有する機能として定着してきたことばなのだ。
原初の日本列島の住民の群れには、生きてあることの穢れを自覚するかなしみやいたたまれなさが通奏低音として流れており、そこから「もの=まとわりつく」ということばが生まれてきた。
そして「こと=こぼれ出る(出現する)」は、そのようにして穢れを自覚しているものたちが、心が動きはじめる体験のときめきをみんなで共有してゆくところから生まれてきた。
すでに生きてあることのかなしみやいたたまれなさを抱いているものでなければ、「出現する」ものに対するときめきは体験できない。
「もの」と「こと」ということばは、原初の日本列島の住民の生きてあるかたちがそのようになっていたことを示している。
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ことばは、一対一の関係から生まれてきたのではないし、その関係を成立させることがことばの本質でもない。したがって、ウィトゲンシュタインの「ことばの本質は<教える=学ぶ>の関係を成立させることにある」という説も、なんだかあやしい。「教える=学ぶ」なんて、本質的には一対一の関係である。
「意味」を伝えることなんか、やまとことばにおいては二次的な機能であり、そんなところにことばの本質(根源的なかたち)があるのではない。
ことばの根源的なかたちは、感慨を共有することにあり、それは、「ことばを共有する」という行為である。
ことばを発することは、意味であろうと感慨であろうと、「ことばを伝える」ことではなく、どちらもその音声を聞くものとして「ことばを共有する」ことにある。そのとき、発するがわも「ことば=音声」から教えられている。本質的には、意味も感慨も、発せられたことばから気づかされるのだ。
人と人の関係の本質は、ウィトゲンシュタインのいうような「教える=学ぶ」の関係にあるのではない。彼の誤謬は、人と人の関係の基本を「一対一の関係」に置いたことにある。いかにもユダヤ人的な発想だ。彼らは、一対一の関係の勝負に勝つことによって、この二千年をディアスポラ(離散者)として生き延びてきた。彼らが、この世界の人と人の関係を一対一のものにしてしまった。彼らは、ユダヤ教徒として、つねに世界中の人々に対して「異質な他者」として振舞ってきた。それはつまり、つねに「一対一の関係」として振舞ってきた、ということである。自分もキリスト教徒としてキリスト教徒の感慨を共有してゆこうとすることなど、ただの一度もしてこなかった。
しかし日本列島の住民は、そんな「自我」など持っていないから、自分を捨ててつねに「みんなと一緒の感慨」を共有していったし、もともとことばはそういう体験から生まれてきたのだ。
人と人の関係の基本は、「みんなと一緒にいる」ことにある。そこからしかことばは生まれてきようがないのだ。
ヨーロッパ人のいう「異質な他者」という概念など、ちゃんちゃらおかしいのだ。そんなものは、人と人の関係の根源でもなんでもない。
人間なんて、一皮むけば、たいして違いはないさ。「異質な他者」などいるものか。
しかし、たいして違いはない部分はどこにあるかということを見つけるのは、いまやけっしてかんたんなことではない。そこが問題なのだ。
共同体の運営は、すべての他者を「異質な他者」とする前提の上に、「文字」をつくり「意味の伝達」をことばの第一義としている。
それに対して、仲間どうしが盛り上がる場では、「異質な他者」など存在しない。「意味」の解釈なんかそれぞれ違っても、同じ「感慨」が共有されている。「意味」なんか問うていないのだから、そこには「教える=学ぶ」という関係など存在しない。
共同体の運営は、一対一の「教える=学ぶ」の関係の上に成り立っている。
それに対して仲間どうしのチームワークは、そういう関係が成立しない「感慨の共有」が基礎になっている。
人間が共同体をつくりたがることと仲間どうし群れたがることとは、根源的に別の事柄なのである。そしてことばは、仲間どうし群れているところから生まれてきた。ことばの本質=根源は、そこにある。「教える=学ぶ」の関係なんかどうでもいい。ことばは、一対一の関係から生まれてきたのではない。
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ことばは、口からこぼれ出て空間に出現するものである。
その音声を聞くことができるものでなければ、しゃべることはできない。われわれは、しゃべりながら、その音声を聞く人になっている。
そのとき、しゃべるものも聞くものも、ともに「聞く人」になっている。そうやってことばを共有している。ともにことばとの関係を共有している。
われわれは、「ことばを伝える」のではなく、「ことばを共有する」のだ。
ゆえに、他者との関係の根源は、「教える=学ぶ」にあるのではない。
われわれが語り合う現場において、誰も「教える」という立場に立っていない。
人間存在の根源的なかたちは、他者との一対一の関係の中にあるのではなく、「限度を超えて密集した群れの中に置かれてある」ということにある。ことばはその状況から生まれてきたのだし、「他者性」の根源も、そのようにして問われなければならない。
いまどきは、西洋の哲学者の尻馬に乗って誰もが「他者の異質性」というパラダイムを伝家の宝刀のように振りかざすが、そんなことはどうでもいいのだ。
他者が異質かどうかなどわかりようがないではないか。「他者の異質性」といいながら、「自分は他人とは違う」というナルシズムをまさぐっているだけなのだ。「他者の異質性」なんて、ただの「独我論」にすぎない。
人間関係の根源において、「教える=学ぶ」という関係などない。
そして人と人が同質かということもわからない。
ただ「<ことば>という世界を共有する」という関係があるだけで、それを「共感」という。
共同体の制度性はことばを「伝達」し、仲間どうしはことばを「共有」する、そういう違いがある。
ことばは、「伝達」の道具として生まれてきたのではない、「共有」するものとして生まれてきた。
「意味」は伝達される。そして共有されるのは「感慨」である。
ことばは、感慨を共有する道具として生まれてきた。そこに、ことばの根源の姿がある。
原始人は、みんなで「ことば=感慨」を共有していった。それが、ことばの根源の姿である。
「こと」とは、いたたまれなさやうっとうしさが「まとわりつく心=もの」が「自分=身体」から引きはがされる体験である。そういう体験は、群れ集まっているところでもっともダイナミックに起きる。
人間は、限度を超えて密集した群れをつくる生きものである。そういう群れの中に置かれているという無意識の自覚(うっとうしさやいたたまれなさ=もの)が「自分=身体」から引き剥がされるというかたちで、ことばがこぼれ出る。
限度を超えて密集した群れの中に置かれているという無意識の自覚、これが、われわれの「他者性」の根源のかたちである。
「教える=学ぶ」などという一対一の関係ではない。そんなふうに規定したがるところに、ユダヤ人の限界がある。
少なくともやまとことばは、そんな関係から生まれてきたのではない。