閑話休題・演歌の「もののあはれ」

「港が見える丘」という歌謡曲がある。
オリジナルは、終戦直後に美声の平野愛子が歌ったものだが、これをハスキーな声のちあきなおみもカバーしている。
どちらが魅力的かは、おおいに意見が分かれるところらしい。
平野愛子の高く澄んだ声のほうが今やむしろ現代的である。しかし、根強いちあきなおみファンもたくさんいる。
謡曲においてどのような声が好まれるかは、普遍的なものではなく、ほとんどの部分は時代によって決定されているのだろう。
ちあきなおみの、あの心の底にしみてくるようなくぐもった声には、われわれの時代が失ったものが表出されている。その声は、日本列島の歴史的な心の動きの通奏低音(俗っぽくいえば、生きてあることの悲しみ、ということだろうか。つまり演歌の正統)に届いている。
そして終戦直後は男の歌手も女の歌手も高く澄んだ声が愛されたのは、人々がそうした歴史的な通奏低音をかなぐり捨てて生きてゆこうとしていた時代だったからだろうか。それとも、すでにもうじゅうぶん悲しかったから、寝た子を起こすような声は聞きたくなかったのだろうか。
そしてちあきなおみが活躍した高度成長期、人々は、歴史的な通奏低音を喪失したまま経済成長の繁栄を生きていた。演歌が悲しみを歌う歌だといっても、時代的には、悲しみを生きてなどいなかった。悲しみの喪失感を生きていただけなのだろう。
もしもちあきなおみに生きてあることの悲しみがあってそれを体現しているのだとしたら、彼女は時代の悲しみを体現したのではなく、悲しみを失った時代の、その免罪符としての「いけにえの羊」だったのかもしれない。
謡曲というよりも「演歌」が本格的にもてははやされるようになってきたのは、戦後が一段落した六十年代後半以降のことである。都はるみ八代亜紀五木ひろし細川たかし等々。
演歌は、その前後十数年のあだ花に過ぎなかった。ほかは、どちらかというと歌謡曲だ。
悲しみの喪失感とともに経済成長に邁進している時代だった。
悲しみを喪失しているという悲しみ。
そういう心の動きは、今の時代にはもうない。
「悲しみを喪失しているという悲しみ」すらも喪失している。
つまりそれは、まわりまわって、悲しみそのものを生きている、ということだろうか。
そうであるような気がしないでもない。
暗い演歌が流行った時代は、暗い時代でもなんでもなかった。誰もがいい気になって経済成長の繁栄に邁進している時代だった。
そういう時代だったからこそ、「悲しみを体現する演歌」が「免罪符」として必要だったのかもしれない。
美空ひばりの「みだれ髪」や石川さゆりの「天城越え」は、バブル真っ盛りのころにもてはやされた曲である。
はっきりいって僕は、そのときなんであんな歌が流行るのかよくわからなかった。
しかし、とにかく、熱くもてはやされたのだ。
そういう時代を懐かしみながら、そういう演歌を、おじさんおばさんたちがカラオケで歌っている。彼らは、悲しみの通奏低音を喪失している世代である。
もののあはれ」とか「はかなし」とか、日本列島の住民は、悲しみの通奏低音を持っていないと生きられない。
そして今、終戦後と同じように高く澄んだ歌声がもてはやされているのは、悲しみを失っているのではなく、すでに悲しみが通奏低音として流れている時代だということだろうか。
通奏低音は、リアルタイムでは意識されない。失って、初めて気づかされる。
流行歌手は、時代を体現しているのではない。彼らは、時代の鬼っ子であり、「いけにえ」である。彼らは、時代が失っているものを携えて登場してくる。
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柳田国男のよれば、かつて「いけにえ」のものたちは、片目をえぐられるとか、片手片足をもがれるとか、そのように人間から逸脱した存在として、神の前に捧げられたのだとか。そういうことが事実としてあったかどうかはわからないが、人はそういう話をつくりたがるという事実はある。
人間には、「いけにえ」が必要なのだ。
それは、自然の恵みを得るとか、そういうためではない。人間は根源的に穢れた存在だから、その「みそぎ」のために、「いけにえ」の「気高さ」を必要としているのだ。
僕は今、このことを「生きてあることの悲しみ」などという通俗的なことばで語らねばならないことを、恥ずかしいと思う。
いつか、もうちょっとましなことばが見つかるかもしれない。
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かつての日本列島は「這う=伏す」の文化だった、といっている人がいる。
悲しみとは、「這う=伏す」ことだ。
そして「這う=伏す」ことは、直立二足歩行の姿勢から逸脱してゆくことであり、すなわち「人間から逸脱してゆくこと」だ。そこに日本列島の住民のカタルシスのかたちがあり、それを表現することが「演歌」であるのなら、それも捨てたものではない。
「COUP DE GRACE」とは、「とどめを刺す」という意味であるのだとか。
「GRACE(=気品)」ということばには、「とどめ」という意味もあるらしい。
「とどめ」とは、人間である状態を消してしまうこと。人間から逸脱させること。
すなわちGRACEとは、人間離れしている気品とか気高さのこと。
まあ、この場合の「気品」とか「気高さ」ということばはどうでもいい。
大切なことは、「人間離れしている」ということだ。
そういえば、美空ひばりちあきなおみも、どこか人間離れしている。そしてその声は、這うように伏すように心にしみてくる。
「這う=伏す」とは、「GRACE」のこと。
能の舞は、「這う=伏す」ような動きであり、そういうニュアンスを「GRACE」という。それは、人間から逸脱してゆく動きであり、「幽玄」とは「GRACE」のこと。
能は、この世の「裂け目」を表現する。死者は、そこからよみがえる。
「GRACE=とどめ」とは、なるほどうまいことをいう。
西洋人は、神によって「人間であること」を強いられている。
だから、人間離れした「GRACE」な存在の気配を珍しがって「気品」などという。
しかしこの国では、、誰もが生きてあることの通奏低音として、人間離れした「GRACE」を持っている。
いや、かつて持っていた、というべきか。
少なくとも現在のこの国の大人たちには、そんなものはない。みんな、まるで俗っぽい「人間」そのものの顔をしている。
そういう、やまとことばの「GRACE」なタッチを喪失している。
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悲しみの通奏低音としての「GRACE」は、この国の「大人」が持っているのではなく、猫が持っている、「なんちゃってギャル」が持っている。僕は、そう思っている。
人間であることの証しは、大人たちの、自分は人間であるといううぬぼれにあるのではなく、「なんちゃってギャル」の、人間から逸脱してしまっていることの悲しみにある。
それは、人間から逸脱して人類の「いけにえ」になることであって、「ライ麦畑でつかまえて」などというおためごかしの「雪かき仕事(ボランティア精神)」にあるのではない。そんなものは「GRACE」でもなんでもない。
キリストは、誰も救済しなかった。ただ、人間という制度から逸脱して人類の「いけにえ」になっただけのこと。そして、「かわいい」とときめいている「なんちゃってギャル」も、ニートもフリーターも、人間という制度から逸脱した時代の「いけにえ」として存在しいる。そうして、美空ひばりも、ちあきなおみも。
さらにいえば、やまとことばは、人類の「いけにえ」として、この狭い辺境の島国で今なお機能している。
さらにさらに、人間がこの世に生まれてくることは、それ自体ひとつの「いけにえ(サクリファイス)」なのではないだろうか。日本列島の住民には、どこかしらにそういう意識があって、そこから「もののあはれ」ということばが生まれてきたのかもしれない。
もののあはれ」とは「GRACE」のことです、と西洋人にいったら、彼らはなんと反応するだろうか。