閑話休題・いらだち

ただの気まぐれの走り書きです。
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生きてあるのは、うっとうしくいたたまれないことだ。われわれは、しょうがなく生きているだけだ。そう思うからこそ、世界や他者に対するときめきも生まれてくるのであり、現代人はそういう思いを失っているからこそ、世界や他者に対するときめきを失い、あれこれの現代病が生まれてきている。
EDなど、まさにその典型的な例だろう。幸せな人ほど、そんなふうにして病んでゆく。
人間は、かんたんに死んでしまう存在である。いや、生きものなら、みんなそうだ。どんな生きものも、かんたんに死んでしまう命を生きている。生きてあることなんか、綱渡りのようなものだ。
道端の蟻を踏み潰したり蚊を叩いたりすることから肉親の死まで、われわれは無数の死と出会って生きてきた。それでもまだ、生きものはかんたんに死んでしまう存在だということに気づかないというのか。
命は大切なものだ、と思っている余裕なんか、われわれにはないのである。命が大切なものだと思うなら、蚊や蟻を殺すな。肉も食うな。野菜も食うな。木も切るな。
われわれは、命は大切なものだと思っている余裕のない存在だから、そういうことができるのだし、死んでゆくこともできるのだ。そしてそう思うから、生まれてすぐに死んでいった赤ん坊がいるという事実も受け入れることができる。
命がそんなに大切であるのなら、すべての死に対して発狂するまで悲しめ。発狂して死んでいけ。
おまえらみたいなみすぼらしい人間に生きてある資格があると思っているのか。おまえらよりずっと美しい人間が、毎日犬のようにあえなく死んでいっているのだぞ。
それはもう、絶対そうなのだ。
われわれは、生きていてもいい存在なんかではない。
誰もがしょうがなく生きているだけだから、生きていることが許されるのであり、死が肯定されるのだ。
生きているわれわれよりも、すべての死者はもっと美しい。
生きているキムタクやイチローより、死んでいった哀れなホームレスのほうがずっと美しい。それはもう、絶対そうだ思う。
われわれは、死者の美しさと生きている自分のみすぼらしさを思いながら生きてゆくしかない。
美しい存在になりたかったら、死者になるしかないのだ。それはもう、絶対そうなのだ。
それが、死者に対する礼節というものでもあるし。
誰もが、しょうもない命を背負って生きている。
死が不幸なことだと思うから、人を殺したくなる。命が大切なものだと思うから、人を殺したくなる。
生きるに値する生など存在しない。ゆえに、殺すに値する生も存在しない。
言い換えれば、人を殺せば、自分の命の大切さに気づくことができる。なぜならそれは、死ぬことの不幸を確認することだからだ。死ぬことが不幸でないのなら、殺す甲斐なんかない。
また、生きていることが価値であるかのようなその態度が、他者をいらだたせる。価値ある生は、殺すに値する。
生きてあることはしょうもないことだと思っている人間は、人殺しなんかしない。殺すに値する命なんかない、と思っている。
生きてあることなんかうんざりなのに、われわれは死にたくないと思ってしまう。われわれは、命の価値をあるともないとも決定することができない。
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どこかの仏教オタクが、「衆生を平安の境地に導くという誓願を立てる」とかなんとかほざいている。平安に生きようと苦しんで生きようと、どちらもただの人生じゃないか。平安に生きる人生が立派ですてきなのか。望むことがえられないのは、生きたことの証しにならないのか。
どんな人生も人生なのだ。人それぞれの人生の成りゆきがある、というだけのことさ。
愚かな人間が愚かであってはいけないという法律なんかない。
僕は、愚かな人間を賢くしてやろうとか救ってやろうという「誓願」など持っていない。
僕だって、愚かであるわけだし。
ただ、えらい学者だろうと、そのへんに掃いて捨てるほどいる頭を丸めた仏教オタクだろうと、彼らの人生をうらやましいともすばらしいとも、彼らをえらいとも思わない、というだけのことだ。
衆生を救う立場に立って優越感に浸りたいか。真理を説いて聞かせて尊敬されたいのか。それを、自分が生きた証しにしたいのか。それによって「平安の境地」とやらを確保したいのか。
「修行者」などといいながら、そんな俗物がうようよいる。
おまえらが僕よりも深く遠くまで考えているなんて、ぜんぜん思わない。
おまえらは、そのスケベ根性のぶんだけ、そこで思考がストップしてしまっている。
どいつもこいつも、知識をこねくっているだけじゃないか。知識をこねくっているだけのやつにかぎって、すぐ説得口調になる。すぐ人を見くびった言い方になる。
僕は、誰かを説得したくてこのページを書いているのではない。
誰かと「ことば」を共有したいだけだ。共有できる相手がどこかにいると信じたいし、こうやって「ことば」を差し出してその相手を探しているだけだ。
すべての他者は、自分よりも完全なかたちをしている……これが、僕の前提だ。
僕は、すぐくじけそうになって「平安の境地」とやらを願ってしまうが、他者は、苦しいまま生きられるのかもしれない。苦しいまま生きて死んでいった人は、苦しいまま生きることができた人だ。彼はそこで、何を見たのだろう。僕が見ることのできない何を見たのだろう。
彼は、この生に、この世界に正しく反応して生きた人だ。彼こそ、この生を味わいつくして死んでいったのだ。
ときに人間は、苦しいままでも生きることができるようにできている。それは、すばらしいことではないのか。
僕は、生きてあることの愚劣さを誰かと共有したいと願っている。共有したいと願って、とりあえず生きている。
みんな、しょうがなく生きているだけなんじゃないの?みんなが共有できるのは、じつはこのことだけなのではないだろうか。さとりも、しあわせな人生も、みんなで共有するというわけにはいかない。みんなと何かを共有したいと願うのなら、このことだけしかない。
苦しみから抜け出したいと願っている人がいる。苦しみから抜け出せないでいる人がいる。しかし僕は、その苦しみを共有することはできない。僕には、他人を監視する趣味も説得する趣味も見くびる趣味もない。ああいやなやつだなあ、と思うことはいくらでもあるが、見くびっているわけではない。
衆生を平安の境地に導く」なんて、他人を見くびっているのだ。そんな誓願の、どこがすばらしいのか。この俗物め。
俗物根性丸出しにして、誓願がどうのとほざいていやがる。
仏教界の退廃を見下して、自分だけは覚醒していると思っていやがる。
他人が退廃していようといまいと、そんなことはどうでもいいではないか。他人には他人の人生がある、というだけのことさ。他人の退廃を自分のうぬぼれの道具にするな。
教えてやる、なんて態度はとるな。私は間違っているだろうか、と問え。
答えは、自分の中にあるのではない。他者の中にある。死者の中にある。歴史の中にある。猫の中にある。風の中にある。
自分は悟っている、とぬかす俗物がいる。悟りなどというものは、他者の中にある。死者の中にある。歴史の中にある。猫の中にある。風の中にある。
そんな薄汚い自己愛なんかさっさと捨てて、この世のいちばん最後に悟る人になれ。
「修行とは、人間から逸脱して仏になることだ」という。
そうかい。しかしわれわれは、人間から逸脱して、猫になる。「なんちゃってギャル」になる。原始人になる。風になる。人間の「いけにえ」になって、この世のいちばん最後に悟る人になる。
世の中は、俗物ほど仏になりたがる。
仏になる誓願を立てて総理大臣になった人もいる。あの人がなかなかやめようとしないのは、仏になる誓願を立てているからだ。
仏になる誓願なんて、そのていどのものさ。それは、共同体の中の、たんなる制度的な心の動きであって、人間性の根源に推参することでもなんでもない。
「平安の境地」だなんて、どうしてそんな俗っぽいことをいうんだろう。
「世界の輝き」も「命の甘美さ」も、しょうもない生の中でいたたまれない思いをして生きている人が知っているのだ。
「平安の境地」を生きているあなたではない。
「平安の境地」を生きているとうぬぼれているあなたの存在が、いたたまれない思いをして生きている人を追いつめている。
このいたたまれなさは、いたまれなさを共有することによってしか癒されない。
いたたまれなさから逃れて生きることなんかわれわれにはできない。いたたまれなさこそ、われわれの生きてあるかたちだ。
われわれの心の中は、混沌としている。僕が、あなたに教えてやれるものなんか何もない。伝えるべきものなんか、何もない。
答えは、「あなた」の中にある。死者の中にある。歴史の中にある。猫の中にある……。