祝福論(やまとことばの語原)・ひとつの日本文化論

梅棹忠夫という人の次のような説に、内田樹先生が「日本辺境論」の中で賛意を表しておられる。
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「…日本人にも自尊心はあるけれど、その反面、ある種の文化的劣等感がつねにつきまとっている,それは、現に保有している文化水準の客観的な評価とは無関係に、なんとなく国民全体の心理を支配している、一種のかげのようなものだ。ほんとうの文化は、どこかほかのところでつくられるものであって、自分のところのは、なんとなくおとっているという意識である。おそらくこれは、はじめから自分自身を中心にしてひとつの文明を展開することのできた民族と、その一大文明の辺境諸民族のひとつとしてスタートした民族とのちがいであろうとおもう。」
 引用したのは、梅棹(うめさお)忠夫『文明の生態史観』からです。この文章が書かれたのはもう半世紀以上前ですけれど、ほとんど同じ命題を私がもっと拙劣(せつれつ)な筆を操ってこれから繰り返さないといけない。どうしてかというと、みんなこういう重要な知見を忘れてしまっているからです。どうして忘れたかというと、外来の新知識の輸入と消化吸収に忙しかったからです。どうして、そんなに夢中になって外来の新知識に飛びつくかというと、「ほんとうの文化は、どこかほかのところでつくられるものであって、自分のところのは、なんとなくおとっているという意識」に取り憑(つ)かれていたからです。半世紀経っても、梅棹の指摘した状態は少しも変わっていません。
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これは、僕が考えていることと、まったくちがう。
日本列島の歴史は、中国の「辺境」としてはじまったのではない。
氷河期が明けて大陸から切り離された島国に置かれた縄文人は、あの水平線の向こうには何もない、自分たちの世界はここだけしかない、ここが世界のすべてだ、と思うところから日本列島の歴史をスタートさせた。彼らは、中国大陸の「一大文明」なんか知らなかった。自分たちが「中心」だとも「辺境」だとも思わなかった。日本列島の住民はそういう意識でこの1万年の歴史のうちの8千年を暮らしてきたのであり、したがってそういう意識がわれわれの遺伝子として刷り込まれている。
梅棹氏や内田氏のいうような「辺境意識」はわれわれにはない。少なくとも、それがわれわれ庶民の歴史的な無意識ではない。
内田氏の言うように「外来の新知識の輸入と消化吸収に忙しかった」のなら、とうぜん自分たちが「ほんとうの文化はどこかほかのところでつくられるものであって、自分たちのところのはなんとなく劣っている」ということだって、いまさら梅棹氏や内田氏に指摘されなくても、とっくに誰もが自覚しているさ。そんな歴史など歩んでこなかったからこそ、そういわれると、「へえ、そうなのか」と思ってしまうだけのこと。
こんな的外れなことをいわれても、「へえ、自分は、そうなのか」と思ってしまうナイーブなところが、われわれ島国の住民にはある。自我意識が薄く、ほかと比較して自分を規定するということが上手くできない民族なのだ。そういう不安をいつも抱えているから、われわれは「日本人論」が好きなのだ。どんなしょうもない日本人論でも、つい「へえ、そうなのか」と思ってしまう。
こんなしょうもない日本人論がのさばっているのも、われわれがうまく自分を規定することができない民族だからだ。
「私はこういう人間だ」と宣言することがうまくできなくて、他人から「おまえはこういう人間だ」と批評されたがっている民族なのだ。
地平線の向こうの「異人」との交流を重ねてきた大陸の人々とちがって、われわれは、水平線の向こうは何もない、と思ってしまう歴史からスタートした。その心の痕跡を今でも引きずっているからわれわれは、失恋の痛手を癒すために海を見にくる。そのとき、水平線を眺めながら「断念する」心を引き寄せているのだ。
失恋の演歌なんか、いつも「海」が舞台じゃないか。
さーよなら、あなた、連絡線に乗るう〜……なあんて。
われわれは、「ほんとうの文化はどこかほかのところでつくられるものであって、自分たちのところのはなんとなく劣っている」などとは思っていない。なんとなく、ここが世界のすべてだ、ここの外には何もない、と思っている。だから、そういうことを言われると、不意を突かれて、つい「へえ、そうなのか」と思ってしまう。
たしかに、深くお辞儀をして挨拶しながら、「他者は自分よりも完全なかたちをしている」という前提を持ってもいる。しかしそれとこれとはまた別のことだ。そういう前提を持っているから、つい「へえ、そうか」と思ってしまうだけのこと。
他者を知らないから、他者と出会うと驚いてしまう。
他者と自分を比べているのではない。
他者を知らないから、自分も知らない。
無知であることの嘆き、それを共有してわれわれは歴史を歩んできた。
われわれにとって、正解はいつも「他者」のもとにある。しかしそれは、水平線の向こうにもうひとつの世界があるという意識をもてない民族だったからである。
われわれは、自分が逃げてゆくことも他者を追い払うこともできない島国に閉じ込められて、歴史をスタートさせた。たがいに深くお辞儀しあいながら、自分が「ここにいてはいけない」よそ者であるかのような気分を共有してきた。
われわれは、この生およびこの世界の「訪問者」であって、「主人」ではない……と思っている。
この問題は、ややこしい。梅棹氏や内田氏のいうような安直な論理では片付かない。
「ほかにほんとうの文化がある」と思っているのではない。ただ「自分はここにいてはいけないのではないか」という思いを共有してゆくことを生きることのよりどころとする歴史を歩んできた、というだけのこと。
「自分はここにいてはいけないのではないか」と思いつつ、しかも「どこにもいけない」という「嘆き」を共有して歴史を歩んできたのだ。
そりゃあいつだって、「外来の新知識の輸入と消化吸収に忙しい」人間たちによってまず外来の知識が輸入され吸収されることになる。しかし、庶民の中に下りてゆくと、いつだって変質してしまう。「M’cdnard」が「まくどなるど」という日本語に変わってしまうように。
「ほんとうの文化はどこかほかのところでつくられるものであって、自分たちのところのはなんとなく劣っている、という意識に取り憑かれている」のなら、こんな不器用でこんな失礼なことはしない。世界中の人々が原語通りに発音しているというのに、なぜかわれわれは、平気で「まくどなるど」という日本語にしてしまう。
それは「ここが世界のすべてだ」という意識がどこかにあるからだ。
われわれの「ここがすべてだ」という意識は、「もう、ここだけしかない」という「嘆き」であって、「ここが中心だ」という優越感でも「ここは辺境だ」という劣等感でもない。
知らないだけなのだ。
誰もが、そういう「無知の嘆き」に寄り添って、この島国の歴史がスタートした。そういう「嘆き」に寄り添いあったところから、「ことだまのさきはふくに」という感慨や「もののあはれ」という感慨が生まれてきた。
日本列島の住民が、中国人のようになりたいと思ったことが一度でもあるか?
われわれは「ほんとうの文化はどこかほかのところでつくられるものであって、自分たちのところのはなんとなく劣っている、という意識に取り憑かれて」歴史を歩んできたのではない。そんな意識に取り憑かれていたのは、終戦後の一時期だけのことさ。なるほどその一時期に自己形成をした団塊世代をはじめとする戦後世代は大いにそんな傾向を持っているが、それは日本列島の伝統でもなんでもない。
「ほかのところ」なんか知らない。
われわれは、「無知の嘆き」を共有している民族だから、他者と出会うとついときめいてしまう。
われわれは、大陸の文化が「ほんとうの文化」かどうかと吟味することなどしてこなかった。「無知の嘆き」を共有する民族として、ただもう、他者の存在そのものにときめいてしまうのだ。だから、あっさりと受け入れつつ、いざ本格的にそれを受け入れようとすると、どうしても自分たちに合わせて変質させてしまう。
そこのところ、わかりますか、内田先生。あなたの考えることは卑しい。他人を見下すことと自分を正当化することばかり考えている。
近ごろ、そういう大人が多いんだよね。
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われわれは、さげすむべき他国のイメージも、正当化するべき自国のイメージも持っていない。正当化するべき他者も、卑下するべき自己も持っていない。われわれは、他者も自己も知らない。その「無知の嘆き」を携えて、他者にときめいている。
他者は、「同質」でも「異質」でもない。何かを「共有」できる相手としてときめいているだけだ。
われわれが外来文化にすぐ飛びつくのは、それを相手と「共有」したいからであって、「自分たちのところのはなんとなく劣っている」と思うからではない。われわれは、そんなふうに思う「自分」など持ち合わせていない。
他者との関係は、他者を「理解」することではなく、他者と何かを「共有」することだと思っている。
だから、「理解」なんかしない。われわれは、中国の「漢字」や「仏教」を「理解」しているか。なあんもしていない。ただ、「漢字」や「仏教」を「共有」してきただけである。
日本列島の住民は、「理解」なんかしない。「劣っている」という意識があれば、もっと「理解」しようとするさ。
漢字をひらがなに変えてしまうような失礼なことはしないさ。
言い換えれば、「理解」なんかしていないから、換骨奪胎してひらがなに変えてしまうことができたのだ。
この問題の根源は、内田先生の安直な思考では届かない。