祝福論(やまとことばの語源)・「もの」と「こと」12言葉の力

内田先生が、「言葉の力」といっておられた。
先生の説く「言葉の力」とはどういうものかというと、
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「言葉の力」とは、私たちが現にそれを用いて自分の思考や感情を述べているときの言葉の不正確さ、不適切さを悲しむ能力のことを言うのである。言葉がつねに過剰であるか不足であるかして、どうしても「自分がいいたいこと」に届かないことに苦しむ能力を言うのである。
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まったく、この人の品性の下劣さには、あきれるばかりだ。
そして、こんな下劣な言いざまにあっさりとしてやられる善男善女が世の中にはたくさんいるということこそ「悲しむ」べきことにちがいない。
こんなもの、「言葉の力」を語っているのではなく、「言葉を扱う自分の能力」について吹聴しているだけである。
先生は、人と話したり文章を書いたりしながら、いつも「俺の考えていること感じていることはこんなものじゃないんだぜ」と「悲し」んだり「苦し」んだりしているんだってさ。
この人は、言葉の根源的な機能を、「伝達する」というレベルでしか考えることができないらしい。
イメージ貧困なのだ。思考が薄っぺらなのだ。人をたらしこもうとするスケベ根性だけで生きているから、このていどのことしかいえないのだ。スケベ根性丸出しの言い草ではないか。
言葉の機能は「伝達の機能」だけじゃないし、言葉の根源的な力はそんなところにあるのではない。
人は、言葉に憑依する。そして、その言葉を他者と共有してゆく。そこに、言葉の根源的な力がある。
自分が何を伝えたいかということなど、たいした問題ではない。われわれは、「言葉を共有する」ことを願って言葉を差し出すのであり、そのときたがいにその言葉に「憑依する」のだ。
人それぞれその言葉から受け止める実質的な意味や感慨は差異があるかもしれない。しかし、ひとまず同じ言葉にともに憑依しつつ、その体験を共有してゆくことによって、同じ意味同じ感慨を共有しているという信憑を持つことができる。それが「言葉の力」だ。そういう「言葉の力」を「ことだま」というのであり、そうやって共有してゆく体験を「ことだまのさきはふ」という。
われわれは、言葉を共有しようとしてその言葉を差し出すのであって、自分のいいたいことがあらかじめ決まっているのではない。
われわれのいちばん気になることは、自分は何がいいたいかということではなく、あなたとどんな言葉が共有できるか、ということだ。われわれ庶民は、おまえらみたいな下劣な人種とはわけが違う。
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まあいい、話を本題に戻そう。
日本列島の住民は、善人だろうと悪人だろうと金持ちだろうと貧乏人だろうと、誰もがわが身の「穢れ」を自覚している。極端にいえば、死んでしまってもいい穢れた身だと自覚している。その自覚を共有して結集してゆくから、だんじり祭りや諏訪御柱のような危ない祭りが生まれてくる。その自覚を共有しているから、太平洋戦争のような危なくダイナミックな結集も生まれてくる。
われわれはこの身の「穢れ」を共有しているのであって、天国とか極楽浄土というようなイメージを共有しているのではない。日本列島の歴史のはじめにおいては、少なくとも仏教伝来以前においては、天国も極楽浄土もイメージされていなかった。わけのわからない闇ばかりの「黄泉(よみ)の国」がイメージされていたのであり、それは、死んでもどこにも行かない、今ここで消えてゆくだけである、という逆説にほかならない。
この身の「穢れ」を消さなければならない。それは、死んで消えてゆくことにきわまる。
それは、身体が消えてゆく、という実存感覚である。生きてあることは、身体が消えてゆくというカタルシスを体験することにある、と彼らは思っていた。
何かに夢中になって自分を忘れてしまうこと、暑さ寒さも痛みも空腹も感じないで身体のことを忘れていられる状態にこそ生きた心地がある。
言い換えれば、身体が気になっている状態は「穢れ」であり、そこから身体を消して(忘れて)ゆくことこそ、普遍的な生きるいとなみにほかならない。
やまとことばでは、身体が気になっている状態を「穢れ=もの」といい、身体を忘れて(消して)外の世界に気づいてゆく状態を「みそぎ=こと」という。そういう日常感覚から、死んだら何もない「黄泉の国」に行く、という死生観が生まれてきた。
古代の人々は、「身体が消えてゆく」という射精感覚やオルガスムスを大切にしていた、ということだ。それこそが、穢れを負ったこの生の、究極のカタルシス(浄化作用)だと思っていた。
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「みそぎ」をしなければならない。だから、諏訪の御柱伊勢神宮もたえず新しくしてゆかなければならない。
われわれにとって生きることは「穢れ」が身にまとわりついてくるいとなみであり、死ぬことはその「みそぎ」でもある。
死と再生。縄文人は、家を建て替えるときは、必ず元の位置からすこしずれた新しい土の上に建て替えた。家も土も、古くなれば穢れてくる、と信じられていた。
三内丸山遺跡が、あたかもそこに何千人もの集落があったかのような様相を呈しているのは、彼らがつねに建物の位置や集落の場所をずらせていたからである。
伊勢神宮もまた、場所をずらせて新しい土の上に建て替えられる。これは、縄文時代以来の伝統であり、それが、一万年後の現代まで引き継がれている。
田や畑は、毎年同じ作物ばかり植えていると、土が穢れて育たなくなる。肥料の知識など乏しかった時代は、そこを放棄したり一定期間休耕したりしていた。つまり、ひとまず死ぬことが「みそぎ」になる。
弥生時代の祭りの道具であった銅鐸は、土の清浄を保つ祈りを込めて土に埋めて保管された。そして凶作になったり疫病が流行ったりすると、銅鐸を壊して埋めた。ひとまず死んで「みそぎ」をするためだ。
縄文時代土偶も、一部分を壊して土に埋められた。「みそぎ」とは「身をそぐ」ということであるなら、これこそまさに、もっともも原初的な「みそぎ」の行為である。柳田国男が収集したという、人身御供の人間は片目をくりぬいたり手足の一部をもいで神にささげたという伝説は、おそらくここから来ている。現代のやくざが小指を切断するのも、ひとつの「みそぎ」の行為だ。
日本列島においては、死は、「みそぎ」であった。それは、縄文時代以来この島国では、生きてあることは「穢れ」を負うことだという意識をみんなして共有している社会だったことを意味している。
「もの」と「こと」ということばは、そこから生まれてきた。すなわち、穢れにまとわりつかれている生の状態を「もの」とし、ひとまず死んで再生された新しい状態が出現してくることを「こと」といった。そういう死生観や日常感覚で古代人は暮らしていた。
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諏訪の御柱伊勢神宮の本殿も、それ自体が「神」であるのではない。それ自体はただの「自然」に過ぎない。しかし「みそぎ」をすれば、そこに神が宿ってくれる。
神ではないただの自然だから、古くなって穢れがたまれば、廃棄される。それ自体が神になってしまうのなら、廃棄などしないし、できない。
「やどりぎ」というやまとことば。この場合の「ぎ=き」は、「完結した世界」をあらわしている。諏訪の御柱は、神がやどることによって、はじめて完結した存在=世界になる。「やどる」とは、遠くの場所にたどり着くことをいう。「や」が「遠く」で「ど=と」が「たどり着く」。すなわち「神がやどる」とは、神がはるか遠いところから旅をしてきてそこにたどり着く、ということ。それほどに神は遠い存在であると同時に、すぐ目の前の存在でもある、ということだ。
神が木になる、ということはない。しかし神は、遠いところからやってきて木にやどる。ここのところを、あいまいにするべきではない。木が神になるとか、森羅万象はすべて神である、と言い方は正確ではない。森羅万象は神でもなんでもない、森羅万象に神がやどっている、のだ。
神は、絶対的に遠い存在であると同時に、目の前のいわしの頭にも宿っている存在でもある。
この身体もまた、「みそぎ」をすれば、神がやどる。死んで身体がなくなることは、究極の「みそぎ」である。だから「死んだら仏になる」というわけで、これは仏教の教えではなく、じつは、日本列島の原初的な死生観にほかならない。
神は、存在しない。この世界の森羅万象にやどっている。
神は、どこにも存在しないし、どこにでも宿っている。われわれだけが、「存在の穢れ」にまとわりつかれて生きている。
神と自然や人間との絶対的な非対称性、それが、多神教である日本列島の原始神道であり、そこにおいて「神はみずからの姿に似せて人をつくりたもうた」という西洋の一神教と決定的に分かたれている。
人間が神に似ているのなら、人間は穢れていないことになる。
「穢れている」という自覚から逃れる方法として、唯一神がイメージされていった。
原初、人類社会はどこも多神教であり、誰もが穢れを自覚して生きていた。
そのとき人類は、絶対的に非対称なものとして「神」を見出していった。彼らにとってこの生は「嘆き」の対象であったのであり、だからこそ、みずからの存在とは非対称のものが気になって仕方なかった。
「神」は、「もの」でもあった。気になって仕方ないものを、「もの」という。
原始人が、のんきに幼稚に自然と一体化して生きていた、というのは、現代人の浅薄な思考にすぎない。
みずからの生が肯定的なものであるのなら、みずからの生と似たようなものを見出してゆく。生きてあることがいたたまれなかったからこそ、絶対的にちがう対象としての「神」に気づいていったのだ。
「嘆き」を持っているものでなければ美しいものに気づくこともない。それと同じことだ。
人類の「嘆き」が、「神」を見出していった。
人類の歴史は、「嘆き」が深くなっていったところから知能や文明や文化を発達させてきたのだ。
5万年前の氷河期の北ヨーロッパに住み着いていたネアンデルタールに「嘆き」がなかったはずはないだろう。人類の「ことば」も「芸術」も「神」という概念も、そこから発達してきたのだ。
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古代人や原始人が使っていた「神」ということばを、われわれはどう解釈すればいいのか。
彼らはのんきに幼稚に自然と一体化して生きていた、などという思考の浅薄な学者連中が提出してくる解釈など、なんの参考にもならない
古代人であればあるほど、自然は手に負えない対象であったのであり、自然からの疎外感は深かったのだ。この世界からの疎外感、この生のいたたまれなさ、そういうところから「かみ」ということばが生まれてきたのだ。
嘆きを噛みしめることを「かみ」という。
「神」は「かむ」とも「かみ」とも読むから、「かむ」という動詞からきている、といわれている。
「か」は、「離(か)る=離れる」の「か」、「カーッとなる」の「か」、気持ちが日常から離れること、身体の外の世界に気づいてゆく感慨。
すなわち「かむ」の最も語源的なかたちは、「噛(か)む」ではなく「離(か)む」である。「離れる」という疎外感から「か」という音韻がこぼれ出たのだ。
「む」と発声するとき、胸の中がざわざわする。なやましさ、くるおしさの感慨からこぼれ出る音韻。
「み」は、「しみじみ」の「み」、気持ちがやわらかく和むところからこぼれ出る音韻。やわらかいものをあらわしている。納得の語義。
「かむ(み)」とは、ともあれ「非日常感覚」のカタルシスのことだ。
「身体という日常」「人間という日常」「自然という日常」ではないものを「かみ」という。
「か」という音韻が、その「絶対的な非対称性」をあらわしている。
「む」という「詠嘆」の感慨。「み」という「納得・決定」の感慨。その違いによって「かむ」と「かみ」の違いが使い分けられていたらしい。
「かむ」といったほうが、詠嘆は深い。
まあ「かみ」でもいいのだが、いずれにせよそれは、「絶対的な非対称性」に気づいてゆく感慨から生まれてきたことばだ。
「噛(か)む」とは、口の中で食物がほぐされること。
日常のいたたまれなさがほぐされ、心が日常から離脱してゆく感慨から「かむ(み)」という音声がこぼれ出る。
そして、そのような心の動きを人々が共有してゆくことによって、それがその社会の「ことば」になっていった。
またその体験は、鳥を見ても空を眺めても晴れていても雨が降っても、さまざまな場面で起きてきた。原初の社会は多神教であったとは、そういうことだろうと思う。