祝福論(やまとことばの語原)・「もの」と「こと」9

仏教の話のようで、仏教の話ではないのだが。
「契機」とは、「仏になる誓願を立てる」ことではない。
そんなことは、自意識過剰の俗物のすることだ。
シュバイツァーとかマザーテレサになりたいということだって、一種の「誓願」だろう。
人は「自分」というものを、そういう「神・仏=規範」との関係として意識する。「自分」を成り立たせる物差しが必要で、言い換えれば、「神・仏」との関係においてはじめて「自分」が成り立つ。
「神・仏」を、「善」とか「正義」とか「愛」ということばに置き換えてもいい。ようするに、そういう「価値意識=規範」によって「自分」という意識が成り立っている。
共同体の「制度性=規範」は、人に「自分」の価値を意識させ、「仏・神」を意識させる。
「仏を意識する」なんて、ただの制度性であり、ナルシズムという自意識なのだ。
価値意識によってしか「自分」は成り立たない。自分=価値であることによって、はじめて「自分」が成り立つ。
無価値な自分など、「自分」ではない。そういう自分は、消してしまいたいと思う。
つまり、「自分」とは消してしまうべき対象であると意識されるとき、「自分」と「神・仏」との関係も成り立たない。
もしも人間が、心の底に生きてあることのいたたまれなさを抱えている存在であるのなら、「人間とは神=仏を意識する存在である」という説の普遍性も成り立たない。
われわれは、「神・仏」を意識するようなご立派な「自分」など持っていない。
それは「自分」の価値に執着しているところで意識されているだけなのだ。
「自分」と「神・仏」との関係などというものはない。
われわれにとって「自分」など消してしまうべき対象であるし、「自分=身体」が消えてゆく体験こそ生きてあることのカタルシス(浄化作用)になる。
「神・仏」との関係にこだわっている人間には、そういうカタルシスの体験はない。
生きてあることのカタルシスを得る体験の「契機」とは、「生きてあることのいたたまれなさ」である。
「神・仏」との関係を結ぶことではない。そういうところで何やらしゃらくさい理屈をこねくっても、ようするに「自分」の価値=存在証明を確認したいだけなのだ。
「神・仏」と人間との関係とか、そんなしゃらくさいレトリックを弄する前に、あなたは他人を説得しようとするスケベ根性がひといちばい旺盛なのであり、問題はそこにある。
そうやって「自分」を確認したいのなら、「神=仏」との関係を結べばよい。
しかし、それによって生きてあることのカタルシスが体験できるわけでもないし、それが人間性の根源のかたちでもない。
人間は、「神・仏」を思う存在であるのではない。共同体の制度性が、そう思わせるだけのこと。
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聖書では「神はみずからの姿に似せて人間をつくりたもうた」といっている。
「だから神との関係を結び、神になろうと努力せよ」、と脅迫しているのだ。
西洋人の心の根底には、神との一対一の関係がある。彼らはそのようにして自己を確立し、他者とのあいだでも一対一の関係を結んでゆく。
ことばも、そのような構造になっている。
一対一の関係において、ことばは「意味の伝達」と機能している。感慨を共有することは、ボディランゲージですむし、そちらのほうがよりたしかだ。
ことばが一対一の関係の意味の伝達の機能になっているから、欧米ではディベートが発達しているのだろう。演説の場合も、本質的には個人と聴衆という一対一の関係だから、彼らはそれがうまいのだし、うまくできるようなことばの構造になっている。
外交交渉とか商取引とか、さらには植民地政策だって、基本的には一対一の駆け引きの世界だ。そういうことが、中国人も欧米人も、ほんとにうまい。
日本人だろうと西洋人だろうと、「神・仏」との一対一の関係を持っているものは、人との関係においてもしたたかだ。彼らは、他者との「教える=学ぶ」の関係を持っている。彼らは、他者を説得する能力と意欲にあふれている。
神との一対一の関係に立つ彼らは、つねにたしかな自分を持ち、世界や他者に対してもすべて一対一の関係として向き合っている。
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「他者の差異性」とか「異質な他者」とか、西洋では、「他者性」の根源をそんなパラダイムで語っている。そしてこの国の知識人も、みんなそれを疑うことなく、その尻馬に乗って、それを伝家の宝刀のごとく振りかざす。
「他者」は、ほんとに「差異性」を持った「異質」な存在なのか。
他者は他者だもの、そんなことわからないではないか。僕はバカだから、他者の「差異性」とか「異質性」などということはよくわからない。「同質」であることも「異質」であることも、よくわからない。だいたい、そんなことをはかる基準となる「自分」のことをよく把握していないのだから、わかりようがない。
レヴィナス先生などは「他者は神として私の前に立ち現われる」とかなんとかおっしゃっておられる。そうやって彼らは、何でもかんでも「神」と「私」との一対一の関係にしてしまう。そうしてそんな言い草を、レヴィナス先生の崇高な精神の表れであるかのように言い立てるこの国の知識人もいる。
僕は、そんなもの「崇高な精神」だともなんとも思わない。ただのえげつないユダヤ根性だと思う。
僕は、神との一対一の関係なんか持っていない。「他者性」も「自分」の何たるかも、まるでわからない。
彼らは、人間の精神は「仏・神」を思うようにできている、などという。この世界もこの生も、「仏・神」との関係によって知らされる、という。そうやって、すべての関係を「一対一の関係」にしてしまう。そうやってつねに「自分」という基準でこの世界を計量する。
悪いけど僕は、そんな確かな「自分」など持っていない。「自分」なんかすぐ消えてゆき、わからなくなってしまう。
僕も、そうやって確かな自分を持ってすべてのものと向き合えたら、もうちょっとましな人間になれたことだろう。
社会的能力も、公共心も、確かな「自分」を持っていなければ育たない。「公共心」とは、すべての人間が「神・仏」との一対一の関係を結ぶことである。みんながそういう立場を持っていなければ公共心など成り立たない。しかし言い換えれば、「神・仏」との一対一の関係なんて、たんなる共同体の制度性にほかならない、ということだ。人間性の根源でもなんでもない。
悪いけど僕には、社会的能力も公共心もない。あのえらそげな連中とちがって、他者を説得する語り口も稚拙だ。僕にとって他者との関係は、「自分」を確かめる体験ではなく、「自分」が消えてゆくカタルシスとして体験される。われを忘れてときめいたりうんざりしたりしている。
だから、他者の「差異性」も「異質性」もよくわからない。「自分が消えてゆく」のだから、わかりようがない。
しかし何が悲しくて、他者の差異性とか異質性というパラダイムにひれ伏さねばならないのか。そんなものは、ただの制度性であり、薄汚いナルシズムというスケベ根性に過ぎない。あの連中のいう「人は仏を思う」とか「人は神を思う存在である」なんて、ただの制度的な意識なのだ。人間性の根源でもなんでもない。そうやって「自分」に酔いしれているだけのことさ。何をかっこつけたことほざいていやがる。おまえら、自分に酔いしれて思わせぶりなレトリックをまさぐっているだけで、考えてなんかいないじゃないか。
自分が消えてゆくことのカタルシスは、やつらにはわからない。「仏を思う」とか「神を思う」とか、そうした「人間という制度」から逸脱してゆくところにカタルシスがあり人間性があるのだ。そしてそういうタッチは、僕は、なんちゃってギャルに聞く、猫に聞く、この世のいちばんさびしい人に聞く、いちばん苦しんでいる人に聞く。
おまえらの思わせぶりなレトリックなんぞ、屁みたいなものだし、臭くてうっとうしいばかりだ。
おまえらは、「人間」を語るふりをしつつ、「自分」のそのうっとうしい制度性やナルシズムを語っているだけのことさ。そんなものは、人間性の根源でもなんでもない。
真実が人を説得するのではない。気のきいたレトリックによって人は説得されるのだ。だから、詐欺師という立場が成り立つ。人を説得するのに真実などいらない、レトリックがあればいいだけのこと。おまえら、そうやってレトリックばかりまさぐっているひまがあったら、その、人を説得しよう(たらしこもう)とするスケベ根性を少しは恥ずかしいと思え。少しは、身もだえしろ。人間を探求するという思考は、そこからしかはじまらない。
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いずれにせよやまとことばの「身体性」という性格は、「意味の伝達」という公共性が希薄である。それは、そういう意味での「他者性」をもっていないということだ。他者の「差異性」とか「異質性」などという前提を持っていない。持っていないから、他者を説得しようとする意識も希薄である。
説得することを断念している。断念して、ことばを「共有」しようとしている。
「語(かた)らふ」とは、たがいの「自分」が消えて、たがいのあいだの空間に「ことば=音声」が浮かび上がる体験である。そこには、他者の「差異性」も「異質性」も存在しない。
他者と一緒にいて語り合うと、「自分が消えてゆく」というカタルシスを体験する。そういう体験としてやまとことばが生まれ育ってきたのであり、「かたらふ」の「かた」は、そういうカタルシスをあらわしている。
そして「かたらふ」の「らふ」は、「みんなと一緒にいて心がそぞろになる」という感慨の表出。
日本列島の他者との関係は、「一対一の関係」ではない、「一緒にいる」という関係である。「自分」という意識が希薄だから、「一対一の関係」にはならない。「二人という意識」になり「三人という意識」になり「五人という意識」になり「十人という意識」になり、そして「みんな」という意識になってゆくだけだ。それが、「かたらふ」の「ら=集合の語義」というタッチである。
「語りあう」の「りあ」が「ら」になったのではない。「かたらふ」の「ら」が、だんだん現代語の「りあ」になっていっただけのこと。そのへんのところを、見落とすべきではない。(つづく)