祝福論(やまとことばの語源)・「神話の起源(旅)」21

人はなぜ、旅に出るのか。
「自分」を発見するため……などという答えは、近代合理主義の思想にすぎないのであって、そんなものが旅の普遍的なコンセプトではない。
たしかに語源としての「たび」ということばは「隠されたものを発見する」という感慨から生まれてきたに違いないのだが、その隠されていたものは、「自分」ではなく、「自分の外」である。
旅に出て発見するものは、すでに遠ざかって今となっては外の世界になってしまった「ふるさと」であり、ふるさとにいるときは山の向こうに隠されてもうひとつの外の世界であった今ここの世界である。そういう「隠されているもの」を発見するのが、古代人の旅のコンセプトだった。
「みそぎの旅」という。それは、自分を発見することではなく、古い自分を捨てて新しい自分に生まれ変わる、ということである。そして、新しい自分は、どんな自分かわからない。そのわからなさ(混沌)が旅の醍醐味であり、そういうわからない自分にならなければ旅の困難には耐えられない。古代の旅は、現代人のパックツアーほど楽なものではなかった。
浮世のしがらみにまみれて暮らしていれば、自分に対するこだわりがどんどん強くなって、うっとうしくなってくる。そういう自分を脱ぎ捨てて旅に出る。
旅の景色や遠い故郷のことを想っていれば、自分のことなんか忘れている。そういう体験から、「たび」ということばが生まれてきた。
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旅が「混沌」に身を任せるものでなければ、おもしろくもなんともない。
旅は、自分を発見することではなく、いわば「鬼」になることだ。だから、どこか遠いところからやってくる秋田の「なまはげ」は鬼の格好をしている。
この「鬼」は、妖怪でも悪の権化でもない。「自分ではない自分」のことであり、旅のさなかにあるときだけの、一回きりの自分のことだ。そういう「混沌」としての自分のことだ。
旅に出て成長して大人になる、などという物語は、近代の制度的な思考にすぎない。
旅に出たからといって、大人になんかなれない。「鬼」になるだけだ。
大人になりたければ、がんばって浮世のしがらみにもまれ続けるしかない。
旅に出れば、日常の「自分」を脱ぎ捨てて、「鬼」の目でこの世界を見ることを体験する。
この世界の外の存在として、この世界を見る。
大人とは、この世界の内側の存在のことである。
旅に出ても、秩序正しい人格の大人になんかなれない。自分は、「混沌=鬼」になってゆくだけだ。そうならなければ古代の旅の困難は克服してゆけなかったし、そうなることが古代人にとっての旅の醍醐味だった。
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旅に出て、成長して大人になってゆく……などという予定調和的な物語は、現代の神話であって、起源としての神話のかたちではない。
少なくともそれは、日本列島の旅のかたちではない。
大陸には、この世界の「果て」がない。どこまで行っても、さらにその先の世界が広がっている。
しかし日本列島では、すぐに「果て」にたどり着いてしまう。
日本列島の旅は、この世界の「果て」にやってきた、という感慨をもたらす。
旅に出た日本列島の住民は、この世界の「果て」を見てしまう。この生の「終わり」を見てしまう。それは、成長して大人になってゆく体験ではなく、この世界やこの生の「果て」を見てしまう体験なのだ。
成長して大人になってゆく、などということは、どこまで行ってもその先に世界が広がっている国の話だ。
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日本列島における起源としての神話は、おそらく、旅に出て成長して大人になってゆく、という物語にはなっていなかった。
「果(は)て」の「は」、空間の語義。「何もない」、ということ。
「て」は、「照(て)る」の「て」。関係が明らかになること。太陽が地上を照らせば、太陽と地上の関係が明らかになる。「手(て)」は、外の世界と関係してゆく身体の器官のこと。手で触って、世界を確かめる。
「はて」とは、「空間=何もないこと」を知らされる場所のこと。
すなわち、日本列島における旅は、ひとつの「喪失体験」なのだ。それは、世界と出会う体験であると同時に、その先の世界を喪失する体験でもある。
貴種流離譚」という。これが、日本列島における英雄伝説(神話)の原型であるのだとか。
英雄は、漂泊の旅に出る。
そのもっとも鮮やかな典型が、「義経伝説」と「ヤマトタケルの神話」であろう。
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九州の熊襲征伐を果たして帰ってきたヤマトタケルは、父である天皇に、すぐさま東国の平定に向かうように命じられる。そこで彼は、父が自分を遠ざけようとしていることに気づく。今度の遠征は、熊襲征伐以上に困難で、もう、生きて帰ってこられる保証はなかった。
その旅は、父の愛の喪失としてはじまった。そして相模の海ではオトタチバナヒメという最愛の人を失い、そこから多くの危機を克服してひとまず使命を果たして帰る途中、尾張でミヤズヒメに迎えられてようやく安住の地にたどり着いたかのように思えたのもつかの間、最後の一仕事として伊吹山の神を征伐に行った際、油断をして逆に殺されてしまう。
その旅においてヤマトタケルは、行く先々で大切なものを失ってゆき、最後には自分の命までも失ってしまう。
ヤマトタケルは、ちっとも成長しない。最後まで凶暴でうかつな人格のまま滅びていった。
それはもう、ひたすら喪失の旅であった。
その象徴的なことばが、東国での戦に勝利して帰る峠での、「あづまはや」という宣言だった。
それは、勝利の雄たけびではない。「みたび嘆いたのち」にそう宣言したのだとか。
「あづまはや」とは、「わが妻はもういない」という意味と「ずいぶん遠いところまで来てしまった」という意味が掛けられている。「はや」は、「遠く離れる」という意味。「あづま」は、「わが妻」という意味と、「深く感慨(関係)する」という意味がある。
いずれにせよ、深い喪失感の詠嘆である。
また、最後に会った「ミヤズヒメ」ということばも意味深だ。
「みや」は、神社の「お宮」の「みや」で、「最終的な安息(の場所)」のこと。
「ず」は、「住(す)む」「澄(す)む」の「す」で、「たどり着く」というような意味だが、「見ず知らず」の「ず」でもあり、「否定」をあらわす語尾にも使われている。
「みやず」とは、ようするに「癒し」というようなニュアンスだろうか。
「ミヤズヒメ」ということばは、そういう表の意味の背後に、「最終的な安息にたどり着けない」という裏の意味が隠されており、この「貴種流離譚」のコンセプトを象徴したことばになっている。
漂泊の旅に出た英雄は、「自足」することを喪失している。その喪失感を英雄と共有してゆくことが、日本列島の「判官びいき」の原型であった。
起源としての神話は、自足できない「嘆き」を人々が共有してゆく装置として生まれてきた。
自足できない「混沌」と言い換えてもいい、それが古代人にとっての生きることの醍醐味だったのであり、そこから人々の連携が生まれてきた。
起源としての神話を生み出した奈良盆地の民衆は、自足してゆくことを願っていたのではないし、自足してあることを共有していたのでもない。
彼らは、ひたすら自足できない「嘆き=混沌」を共有していった。それが、ヤマトタケルの漂白の旅が語っているところである。
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フロイトの説をはじめとして、現代では「アイデンティティの獲得」こそ神話の普遍的なかたちであるかのようにいわれているが、おそらくそうではない、アイデンティティの喪失からカタルシスを汲み上げてゆくことこそ神話の本来の姿だったのだ。
スターウォーズ」も「ハリー・ポッター」も「もののけ姫」も「1Q84」も、けっきょくはアイデンティティの獲得を目指しているだけであり、それは、あくまで「近代の神話」にすぎない。
宮崎駿村上春樹も、けっきょくはそうやって現代人の自己撞着を助長したり、追いつめられている人をさらに孤独の淵に追い込んだりしているだけなのだ。彼らは、人と人の連携は「アイデンティティの獲得」から生まれてくると思っているらしいが、はたしてそうだろうか。
古代の奈良盆地の人々は、「アイデンティティの喪失」を共有してゆくことによって連携していった。
彼らには、美しい心とか正しい心というような基準はなかった。心は、「混沌」だった。だから、ヤマトタケルがどんな凶暴な人間でもかまわなかったし、オトタチバナヒメがみずからの命と引き換えにヤマトタケルの危機を救った話にしても、「自己犠牲」とか「献身」という文脈で説明がつく心の動きでもあるまい。心が「混沌」であったから、そういうことができたのだ。
彼らは、アイデンティティを獲得するために旅に出たのではない。「混沌」に身を任せるカタルシスが彼らの旅だったのであり、集落と集落のあいだの辻に立つ「市(いち)」も、そういう心の動きを体験する場として催されていった。
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共同体の規則(しがらみ)から逃れたいという願いは、誰の中にもあるに違いない。
秩序を持って自足した共同体の中に身を置けばこの生のすべてが解決されるかといえば、そうもいかない。
この生のカタルシスは、自足してゆくことによってもたらされるのではない。
自足できない「嘆き」から汲み上げられるのだ。
「嘆き」は、自足できない。他者と共有してゆくことによって、はじめてカタルシスになる。
旅に出ることは、共同体の規則や秩序の外に出ることであり、すなわちそれは、アイデンティティを喪失することである。われわれはそこで「自足=アイデンティティ」を得るのではない。自足できない「嘆き=混沌」がカタルシスになる体験をしてゆく。
そのような超越的な場として「市」が生まれ、そのような超越的な物語として「神話」が語り合われていった。
古代の旅は、アイデンティティを獲得するためのものではなかった。「混沌」というアイデンティティの喪失に身を任せる体験だった。神話が変質してしまったように、旅もまた、近代になってすっかり変質してしまった。
その契機として、おそらく「貨幣」の出現と定着が加担している。
しかし、起源としての神話や古代的な旅の醍醐味がわれわれの心の中から消えてしまったわけではない。
すっかり消えてしまえば楽なのだろうが、今なお残しているからいろいろやっかいな問題も起きてくる。
それは、「アイデンティティの獲得」などという薄っぺらな「物語」で解決される問題ではない。