祝福論(やまとことばの語源)・「神話の起源」22

奈良盆地の人々には、ここは旅路の果てとしての最終的な地である、という感慨があった。だから、神武天皇が九州から東征してきてうち建てた都だ、という神話をつくった。
「やまと」の「やま」は、「遠いところにたどり着く」という意味。「と」は、「とまる」の「と」。
山に囲まれているから「やまと」である、というだけでは、このことばの正確な語源にはならない。古代人は、ひとつのことばに、「意味」の表出と「感慨」の表出の二重のニュアンスを持たせていた。
「やまと」ということばは、ここでおしまい、この先はもう何もない、という喪失感の表出でもあった。
生きていることは、死に向かって歩いていっていることであり、われわれは一刻一刻この生を喪失していっている。貯金がどんどんなくなっていっているようなものだ。誰も喪失感なしに生きていることはできない。
だとすれば、貯金がまだ残っているということが救いになるのか、貯金のことなんか忘れてしまうことが救いになるのか。
まだ残っている、と思うことは、どんどん減っていっているという心配をたえずしている、ということでもある。
古代の奈良盆地の人々は、貯金のことなんか忘れて生きていた。忘れられることが、救いだった。
言い換えれば、喪失感それ自体が救いであり、カタルシスだった。
救いなんかない、ということが救いだった。
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奈良盆地の人々は、誰もがその地にたどり着いた旅人だった。そういう感慨から、神武東征の話が生まれてきたのであって、べつにそういう史実があったわけではないはずだ。
だから、その地を「まほろば」として愛着していったのであって、べつにことさら住みやすい土地だったからではない。べつに、うまいものがたくさん得られる土地であったのでも、たくさんの人々が一か所に集まって暮らせる場所であったのでもない。広い湿地帯のあちこちに点在する狭い浮島のようなところにそれぞれ小集落をつくって暮らしていただけだ。
ただ、その広い湿地帯は、まわりをたおやかな姿をした山なみに囲まれているという、唯一無二の絶好の景観を持っていた。その景観のありがたさをよりどころにして彼らは住み着いていった。食い物や住居に恵まれていたからではない。
まほろば」とは「見晴るかす土地」という意味であって、「豊かな土地」という意味ではない。
また、「豊葦原(とよあしはら)の大和の国」などといわれたりするが、それだって、そこがたくさんの葦が生える湿地帯だったことを物語っている。
彼らは、豊かな暮らしも、山に囲まれて別の世界を見ることも喪失していた。しかし、その喪失感がカタルシスに変る条件が整っていた。彼らは、その喪失感を共有しながら、人と出会うことのときめきを豊かに体験していった。
そのときめきこそが、そこが大和朝廷の地になるまで発展してゆく原動力になっていった。
大和朝廷は、その住みにくさをいとわずに奈良盆地に住み着いていった人々の連携がつくりあげたのであって、どこかの豪族がいきなりやってきてつくり上げたのではない。弥生時代に、そんなことのできる支配者など、日本列島のどこにもいなかった。
大和朝廷ができたから、支配者が生まれてきたのであって、あらかじめ支配者がいて大和朝廷をつくったのではない。
それは、「権力が支配する」などということをまだ知らなかった時代の話なのだ。
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奈良盆地にあるもっとも古い巨大前方後円墳である「箸墓」は、纏向遺跡の中にあって、今のところ三世紀中ごろの弥生時代後期のものだということが定説になりつつあるらしい。
卑弥呼のいた時代である。だから、卑弥呼の墓だ、という研究者もいる。
伝説では、三輪山の神と通じていた「モモソヒメ」の墓、ということになっている。
研究者は、巨大前方後円墳は巨大な権力が造ったと考えているから、この「モモソヒメ」も、当然皇室の姫君だったことにしている。
しかし、たんなる伝説中の架空の人物である可能性のほうが強い。
そのころ(弥生後期)、本当に「皇室」があったのか。
モモソヒメとは、三輪山に住むカリスマの巫女だったったのかもしれない。
氏素性なんかわからない。
たとえば、山に住む巫女が父親のわからない女の子を産み、その娘に霊能者としての英才教育を施し、やがて娘は成長してカリスマの巫女になっていった、というようなことがあったとする。
奈良盆地の人々は、その巫女を大いにうやまい、その巫女によって大きな結束が生まれて「箸墓」建造の事業に発展していった。だから、その巫女が死んだときは、「箸墓」に葬られた。
いや、「箸墓」に合わせて「モモソヒメ」という伝説(神話)をつくり上げていっただけかもしれない。
もしかしたら箸墓には、たくさんの巫女が葬られているのかもしれない。
つまり、皇室だから巨大前方後円墳に葬られたのではなく、そこに葬られている伝説中の人物はひとまず皇室の人間としてあとから系図をつくっていっただけではないのか。
奈良盆地の人々は、伝説中の人物は、みんな皇室ということにして話をまとめていった。
古事記に記されている初期の天皇は、世襲制ではなかった。美濃や丹波からやってきた天皇もいる。
とにかく奈良盆地に住み着いて伝説的なリーダーになっていった人は、みな「天皇=神」として話をつくり上げていった。
天皇世襲制になったというか、天皇家という一族が生まれてきたのは、弥生時代が終わってからのことに違いない。
「モモソヒメ」が皇族だった証拠など何もない。
弥生時代に皇族があったとも思えない。
古墳時代天皇だって、皇族だったかどうか、わかったものではない。その時代その時代に奈良盆地に君臨するカリスマ(強大な権力者という意味ではなく、人々に篤く敬われていた存在)がいたことはたしかだろうが、その人物たちがすべて皇族だったかどうかはわからない。あとから、それらのカリスマたちを全部皇族の系譜として記載していっただけかもしれない。
奈良盆地では時代ごとにいろんなカリスマが現れて、人々はそのカリスマについて語り合うことが好きだった。語り合うことによって連携していった。言い換えれば、カリスマを持たなければ連携してゆくことはできなかった。
奈良盆地の人々は、カリスマを崇拝するという傾向が、ほかのどの地域の人々よりも濃密だった。それは、彼らが迷信深かったからではなく、集落間の連携の上に成り立っている社会だったからだ。カリスマを仰ぐことが集落間の連携にもっとも効果的だったから、自然にそんな精神風土になっていったのだろう。
つまり彼らは、夢中になってカリスマについて語り合うくらい、自意識が希薄だった、ということだ。
俺が俺がの自意識が強ければ、連携なんかできない。そして、彼らの集落は、自意識が育つレベルの確かさや規模を持っていなかった。自意識は、自己と集団との関係を意識するところから育ってくる。
弥生時代から古墳時代にかけての奈良盆地天皇制が生まれてくるような精神風土になっていたが、天皇が存在したかどうかはわからない。
そのころの奈良盆地は、集落間の連携による自治が発達しており、その自治は、共通のカリスマを仰いでゆくことの上に成り立っていた。しかしそれが、天皇だったかどうかはわからない。
いずれにせよ、当時の奈良盆地の人々の連携してゆく自治能力も、カリスマを無条件に仰いでゆく率直さも、自意識の薄さの上に成り立っていた。
彼らは、人生の旅人として、この地に立ったらもういつ死んでもかまわないという最終的な感慨を共有していた。そういう思いで「大和は国のまほろば」といったのだ。
良くも悪くも、この国の歴史は、そうやってはじまったのだと思う。