祝福論(やまとことばの語源)・「神話の起源」23

大和朝廷は、遠い昔に九州から奈良盆地に東征してきた神武天皇がうちたてた……という古事記の話はあくまで伝説=神話であって、史実ではないはずです。
人々は、連携している各共同体の外の第三の地を意識していた。その第三の地を起源として共有してゆくことによって、さらに連携が深まっていった。
弥生時代奈良盆地をを中心とする畿内地方は、農業によって連携していった「銅鐸」文化圏であり、それに対して九州・出雲・吉備は「銅剣・銅鉾」の異文化圏の地域だった。その外部たる第三の地を起源とすれば、畿内(あるいは奈良盆地)のどの共同体も自分たちのところこそ本家だと主張する根拠を持たない。そうやって彼らは、連携していった。
人類の歴史における大きな共同体(国家)は、そのようにして「外部」を起源とする神話=伝説を共有しながら「連携」してゆくことによって生まれ育ってきた。
「外部」、あるいは「背後」。
生き物なら、誰だって見えない背後は不安である。ことに直立二足歩行する生きものである人間にとっての「背後」は、大きな不安がともなっている。その「背後」と和解してゆこうとするのは、人間的本能であるともいえる。
そういう「背後」を起源神話として共有してゆくことによって、さらに深い人と人の連携や共同体間の連携が生まれ、さらに大きな共同体(国家)になっていったのだ。
共同体と共同体のあいだの地域に「市(いち)」が生まれてきたのも、共同体をいとなむがゆえに、共同体内部だけでなく、「背後」に対する意識も強くなってきたからだろう。
それぞれの共同体は、その「背後」に対する不安を共有してゆくことによって連携し、逆に不安を打ち消そうとして対立抗争してゆく。
そこに大きな共同体(国家)が生まれてきたということは、周囲の共同体が連携していったということを意味する。その連携のための「神武東征」神話だったのだ。そういう神話を持っていた畿内地方に対して、「銅剣・銅鉾」の文化圏である吉備や出雲や九州は、「背後」に対する不安を打ち消そうとする対立抗争が起きやすい土地柄だった。それは、「大陸」との関係を持っていたからかもしれない。
「海」という背後に対する不安。
一方、たおやかな姿をした山なみに囲まれていた奈良盆地は、そうした実存的な不安が和らげられていた。つまり、「不安=嘆き」を打ち消そうとするよりも、「不安=嘆き」と和解してゆく心の動きが生まれやすい土地柄だった。
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古代ローマの起源神話=伝説は、共同体の外に捨てられた双子の王の子が狼に育てられ成長し建国していった、ということになっている。
狼、捨て子、貴種流離……これらは、共同体の「外部=背後」を象徴しており、そこを共有してゆくことによって、ローマもトリノフィレンツェナポリも、ひとつの「ローマ帝国」として連携していった。
歴史の起源において、大きな共同体(国家)は、「連携」によって生まれてきた。このことに例外はない。人間は、「連携」する生きものなのだ。
そして、「連携」に失敗して対立抗争を繰り返しながらついに大きな共同体をつくることができなかった例も、古代ギリシャをはじめとしてたくさんある。
人間は、「連携」する生きものであると同時に「対立」する生きものでもある。それは、「外部=背後」に「不安=嘆き」を抱えている存在だからだ。