祝福論(やまとことばの語源)・「神話の起源」24

人は「自分」を守ろうとする。
懸命に守ろうとする。
もしもその人があなたを責めるとすれば、その人はそうやって「自分」を守ろうとしているのだ。
自分を守ることが習い性になっている人は、すぐに人を責めたがる。そうやって、懸命に自分を守っている。
そのとき「自分(アイデンティティ)」の危機を感じるから、その原因であるあなたを責めてそれを回避しようとするのだ。
現代人なら、誰もが多かれ少なかれ「自分」を守って自己完結してゆこうとする衝動を抱えている。
それは、現代の病理だ。
私は人を責めない、と言ってもだめだ。もっと巧妙に「自分」を守っているだけのこと。
先験的に「自分」は守られてある、と自覚していれば、人を責める必要なんかない。
自分だけのバリアーをつくって人に入り込ませないようにすれば、自分は守られてある。人と仲良しの関係をつくって第三者に入り込ませないようにすれば、仲良しの関係をつくっている「自分」は守られてある。
自分を守るために、仲良しの関係をつくろうとする。
仲良しの関係をつくるのが上手なら、そりゃあ、人を責める必要もないだろう。しかしそれだって、懸命に「自分」を守ろうとしているだけのこと。「私は人を愛している」などといっても、人にときめいてなんかいない。そういう自分を愛しているだけのこと。
だから世間では、「自分を愛するように人を愛しなさい」などという。
自分を愛そうと、人を愛そうと、あなたは人にときめいてなんかいない。
その相手は、自分のことを虫けらのように軽蔑している、あるいは、鬼か蛇のように憎み忌み嫌っている。それでもあなたは、その人にときめいてゆくことができるか。
「私は人を愛している」といいたいのなら、そこまでできてからにしてくれ。
えらそうなことをいうなら、それからにしてくれ。
自分のことを虫けらのように軽蔑されてばかりして生きてきた人は、そうして鬼か蛇のように憎まれ忌み嫌われてばかりして生きてきた人は、どうしても人を責めようとする衝動が強くなっている。
自分を守ることに失敗して生きてきた人は、人を責めることばかりしたがる。人を責めることが異常に上手なのは、その人はそうしないと生きられなかったからだ。
そういう人が社会の表面に出て権力を握れば、どうなるか。そういう人が親になれば、子供はどうなるのか。そういう人と人生の途上で出会ってしまったら、われわれは、どう反応し、どう対処すればいいのか。
われわれだって、人間関係の危機に陥れば、ついそういう態度をとってしまう。なにがなんでも相手を安く見積もって「自分」を守ろうとするときは、誰にだってある。そうやって、相手を責め、陰口をたたき、告げ口をする。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「自分を愛するように人を愛しなさい」とかなんとかおちゃらけたことをいって、自分だけ無傷なような顔ををするな。
「人を愛する」とはどういうことか、ということは、この際どうでもいい。「私は人を愛している」という自覚を持ってしまうことが問題なのだ。
そのいやらしい「自覚」が、それ自体において人を責めているのだぞ。人を追いつめているのだぞ。
いやなやつやくだらないやつと出会えば、誰だってついそういう「自覚」に立って相手を軽蔑しようとするし、責めようともしてしまう。
そのとき、その事態を深く悲しみ嘆きなら、その人の存在そのものを祝福してゆくということを、あなたはできているか。この世の中には、そういうことができる人がどこかにいる。われわれは、せめてそのことに気づくべきだ。
「私は人を愛している」なんて、この世の中の人々のそういう下品で傲慢な「自覚」が、社会的幻想として機能しながら、自分を愛せないで苦しむ人々を追いつめている。
自分はむかし自分を愛せなくて他人も呪っていたが、今は自分を愛し人も愛せるようになった……というような自分探しの成功物語をとくとくと語りたがる俗物が、この世の中にはごまんといる。
何いってやがる。ただ、被害者の立場から加害者の立場に変っただけじゃないか。どうしてそのことに気づくことができないのか。頭悪すぎるよ。人間に対して鈍感になっただけじゃないか。そんなことが、人間として成長することか。それが成長だというのなら、成長することなんか、僕はごめんこうむる。
「自分」のことなんか、どうでもいいのさ。どうでもいいのにこだわってしまう不幸と愚かさをわれわれ人間は共有して生きている。
さて、そこからどうするか。
ほんとに「自分のことなんかどうでもいいのさ」と思っている人が、この世のどこかにいる。「私は人を愛している」といって「自分」に執着しきっているやつらが、そういう人よりも他者に深くときめいているとは、僕はぜんぜん思わない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
やまとことばの「自分」を意味する「吾=わ」とか「吾=あ」という言葉は、「空っぽ」という意味だ。自分が空っぽになる体験から、「わ・あ」という音声がこぼれ出てくる。
「あなた」に見とれていれば、「わたし」のことなんか忘れて「空っぽ」になっている。そういう体験から「吾=わ・あ」ということばが生まれてきた。
「わあ」と驚き、「あ」と何かに気づくとき、人は「自分」を忘れている。そういう「ときめき」の体験のことを、「わ・あ」という。
「わたし」は、他者やこの世界に対して「わ・あ=空っぽ」として存在している。すなわち、「わたし」が生起している状態ではなく、「わたし」が空っぽになる体験において「わたし」が存在している。存在=非存在。古代人は、「わたし=自分」という概念をそのように認識していた。「わたし=自分」はそのように「生成」している、と認識していた。
したがって、古代人には「私は人を愛している」という自覚はなかった。それは、言語矛盾だった。
古代人にとって、「自分」が「生起」することは、不幸な体験だった。「自分」が「消滅」することこそ「自分(アイデンティティ)」を確認する体験だった。なぜならそのときこそ、人はこの世界に深くときめいているからだ。
古代人は、「自分を愛する」というようなうっとうしい心の動きなど大切にしていなかった。
ただもう、「世界にときめく」という体験とともに生きていた。そういう体験で生きるなら、「自分」のことは「わ・あ」というしかなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
現代の神話が「自分」を愛している人たちが共有している物語であるとするなら、古代の神話の「超越性」は、「自分」を忘れてこの世界や他者にときめいてゆくことの表現だった。
人間がなぜ「神話」を必要とするのかといえば、この世界での生きにくさを克服して「自分」を支えたいからだ。現代人は、この世界の外の超越性との関係から「自分」を確認してゆく。それに対して古代人は、この世界の外の超越性に憑依してゆくことによって「自分」を忘れた。忘れることが、自分を支えることだった。「自分」と「超越性」との関係なんかなかった。関係ないことが「超越性」との関係だった。
古代人にとってこの世界の外の超越性は、自分との関係ではなく、超越性それ自体として存在していた。それは、この世界や他者もまた、自分との関係ではなくそれ自体として存在している、と認識してゆくことであり、自分との関係がないことがそれらとの「関係」だった。
すなわち、自分が「空っぽ」になってゆく体験をもたらす対象として、他者もこの世界も神の超越性も存在していた。自分が空っぽになってしまうことが、「自分を支える」ことだった。
古代人には、「私は人を愛している」という「自分のかたち」などなかった。「あなたが存在する」という事実があっただけであり、自分を忘れて、その事実、、すなわち「他者の絶対性」にときめいていった。
他者は、「わたし」に愛されることによってはじめて「他者」であることができるのか。古代人は、そんな恩着せがましいことなんか考えなかった。
他者は、「わたし」が消えているとき、その「わたしの不在」の上に現前する。そういう「愛することの不可能性」を心得ていた。
神話もまた「わたしの不在」の上に立った超越的な物語として語り合われた。
古事記は、この世界の起源の神から天皇という神までの系譜として語られている。民衆が語り伝えたのに、民衆という「わたし」は「不在」なのである。起源の神は、天皇という神の先祖であるが、民衆=人間の先祖ではない。人間の先祖として神を語っているのではない。彼らは、「天皇という神」の先祖のことしか語らなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「他者の存在の絶対性」に気づくものは、「自分を愛する」ことなんかできない。自分を愛することができなくて自傷行為に走ったり自殺してしまったりする若者は、そのとき「他者の絶対性」に気づいて追いつめられてしまっている。そのとき彼らが気づいている「他者」とは、「私は自分を愛している、そのようにして人は他者を愛するのだ」などと迫ってくる「この社会の幻想空間」であり、そうやって「自分を愛せ」と合唱して迫ってくるこの社会の俗物どもが、絶対的な「他者」になってしまって追いつめられているのだ。
彼らが「追いつめられている」ということは、彼らは「他者の絶対性」に気づいている、ということを意味する。
俗物どものそういう「自分さがし」の物語は、古代人が紡いでいたような、「自分」から解き放たれて他者にときめき他者と連携してゆく神話とは違う。
僕は、自分が古代人と同じ心の動きを持っているとなんか思っていませんよ。僕だって、あの俗物どもと同じ現代人だ。ただ、古代人という「他者」の心の動きに推参することならおまえらには負けない、といいたいだけです。