祝福論(やまとことば)の語源・「神話の起源」25

近ごろ、東京横浜間の湾岸に広がる京浜工業地帯を一種の観光スポットとして巡る小さなツアーが、都会の若者たちのあいだで静かなブームになっているらしい。
モノクロームのパイプや煙突などが無数にむき出しになって並ぶ工場の建物の景色に、彼らは「癒される」という。
現代のオフィス街のインテリジェントビルには、もうパイプも煙突もみな地下や壁の中に隠されてしまっている。そういうオフィス街の清潔で冷たいたたずまいに比べ、パイプや煙突がむき出しになって火や煙や蒸気を吐き出している工場の建造物には、生きものの生々しさを感じるのだとか。
ひと昔前の終戦直後のころに、坂口安吾も、よけいな装飾がない工場の建物は美しい、というようなことをいっていた。
だがそれは、現代の若者たちが感じていることと同じでありつつ、ちょっと違う部分もある。
坂口安吾の場合、その無機的な建物に、古い因習や伝統から解き放たれた明日の社会に対する希望のようなものが込められていた。だから彼は、「堕落論」で、法隆寺桂離宮も滅びてしまってもかまわない、といった。
それに対して現代の若者たちは、それが滅びつつあるものだからこその愛惜がある。
その、パイプや煙突がむき出しになっている景観に、ひとつの「野生」を見ている。
清潔なインテリジェントビルの中で終日パソコンと向き合って働くような日々を送っている彼らは、そういう「野生」が滅びつつ時代を生きている、という思いがある。
インテリジェントビルのオフィスは禁煙で、街路の電信柱も次第に撤去されつつある。近ごろはもう、そんな強迫神経症的なことばかりが正義になってきている。
それに比べたら、工場の建物群は、野放図で野生的だ。
そんな景色が一番美しく輝いて見えるスポットは、真夜中の対岸の埋立地なのだとか。
煙突から吐き出されている炎が夜空にくっきりと浮かび上がり、その下に、無数の直線的なシルエットと明かりが取り囲んでいる。それはなんだか、「風の谷のナウシカ」や「天空の城ラピュタ」を連想しないわけでもないのだが。
現代の若者たちは、滅びつつあるものへの愛惜を共有している。
彼らに「明日の希望」を説いたって無駄なのだ。白々しいだけだ。
それは、中世の世阿弥が「萎(しお)れたる姿こそ花なり」といったこととどこかでつながっている心の動きかもしれない。
そういう伝統の水脈がよみがえりつつあるのかもしれない。
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われわれは、なぜ「滅びつつあるもの」に心惹かれるのだろうか。
それは何も、日本列島の住民だけの心の動きではない。
パリのエッフェル塔は、できたころは「未来の希望」の象徴だった。だからこそ、「俗悪な建造物だ」とパリ市民から忌み嫌われた。
しかし百年経った今、人間の命の一サイクルを越えてしまった。そういうものに対してわれわれは、「滅びつつあるもの」を感じる。
自分は数十年しかこの世界にいることはできない……そういう嘆きや畏れは、誰の中にもある。そこから、この世界に対するそうした感慨が生まれてくる。
百年経てば、それはもう過去の建物であり、エッフェル塔は、「滅びつつあるもの」の気配を帯びはじめたころから、人々に愛されるようになってきた。
インテリジェントビルには「命」を感じない。工場の建物群にもエッフェル塔にも、人々は、滅びつつある「命」の気配を感じている。
生きものとして生まれてきたからには、われわれは、いずれどこかで、滅びてゆくことと和解しなければならない。
「未来への希望」は、死と和解していない。
インテリジェントビルも禁煙運動も、死と和解していない。それは、この生に閉じ込められてある、という閉塞感である。
現代の閉塞感とは、死と和解していない閉塞感である。未来がないことの閉塞感ではない。インテリジェントビルだの禁煙運動だのと、未来がないことと和解できない世界になってしまっているから、息苦しくなってくるのだ。
何の因果か、現代人は「未来への希望」を捨てられなくなってしまっている。それが、現代社会の閉塞感だ。
生きものである人間に未来などないのであり、その未来がないことと和解できないことが閉塞感になっている。
京浜工業地帯の景観に癒されている若者たちは、「未来への希望」にしがみついて生きている世の大人たちよりも、ずっと切実に滅びつつあるみずかららの命と和解しようとしている。
生きものであるわれわれは、未来を喪失して生まれてきたのだ。
したがって、生きものには、「未来に向かって生きてゆこうとする」というようなシステム(本能)などそなわっていない。そんなものは、この社会の制度性というただの共同幻想にすぎない。
本能というなら、未来がないこと(滅びてゆくこと)と和解しようとするシステム(衝動)がそなわっているだけだろう。
そうやって今夜も、若者たちの誰かが京浜工業地帯を眺めに行っている。