祝福論(やまとことばの語原)・「もの」と「こと」19

動物の中でも、正面から抱きあってセックスするのは人間くらいのものだろう。
人間のセックスは、正常位にはじまり、正常位に極まる。
人間が二本の足で立っている姿勢は、胸・腹・性器等の急所を外にさらしており、体の正面に居心地の悪さがたまっている。その「嘆き」を共有しなだめあってゆく行為として、正常位でセックスするということを覚えていった。
勃起したペニスは、とても危険な状態である。何か硬いものにぶつかったら、ぽきっと折れてしまう。そのペニスを柔らかいヴァギナで包んでもらう。
また、ヴァギナが赤くはれて濡れてきたら、痒くてうっとうしくていたたまれないだろう。それはきっと、人間の女でも猿のメスでも同じに違いない。その赤くはれたヴァギナをペニスでふさいでしまう。あるいはヴァギナどうしでふさぎあうということは、ときに猿でもやっている。
セックスとは、たがいの急所をふさぎあう行為であり、それは危機的な状態においてなされるものであるらしい。
すなわち人間は、つねに危機的な状態に置かれているから、年中セックスをするのだ。
急所をさらして二本の足で立っていることは、恒常的に危機的な状態に置かれている、ということだ。
危機的な状態に置かれていることの不安が、セックスに向かわせる。「発情する」とは、そういうことだ。べつに、種族維持の本能でもなんでもない。
川上宗薫という官能小説の作家は、死の前年に「夢精をした」といってよろこんでいた。それは、それほどに種族維持の本能が高まったからか。そうではないだろう。死の予感で不安が極まったからだろう。
生きものは、危機感が極まってセックスをする。種族維持の本能なんかじゃない。人間は恒常的に危機の不安を生きているから、年中発情している。言い換えれば、危機の不安を生きていないから、インポになってしまうのだ。
異性の裸を見たり、裸で抱きあったりして勃起(発情)するのは、みずからの身体が消えてしまう危機=不安にさらされるからだ。それはもう、死の恐怖だと言い換えてもよい。そういう情況で生きものは発情するのだ。
人間は、危機を回避しない。危機そのものを生きようとする。直立二足歩行は、危機を生きる姿勢なのだ。だから人間は、一年中発情している生きものになった。
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幸せが得られないものや幸せを侮蔑しているものは、年中発情している。それが人間であることのかたちである。
大人になってアイデンティティを確立してインポになることが、そんなにすばらしいことなのか。西洋人のちんちんがやわらかくてたえず「去勢(インポ)の不安」にさらされているのは、彼らがアイデンティティ(自我)を確立している人種だからだろう。その不安にせきたてられて西洋の夫婦は毎晩セックスしているんだってさ。その不安にせきたてられて、変態行為やレイプが起きてくる。サディズムとは、ひとつの「去勢(インポ)の不安」である。
人格者は、えらそうに他者を説得しようとする。それは、ひとつのサディズムであり、殺意である。教育とは、大人のサディズムであり、殺意である。やつらは、そういうサディズムや殺意を満たさなければ勃起できない人種なのだ。勃起できないから、サディズムや殺意が起きてくる。
人と人の関係の本質は、「教える=学ぶ」の関係なんだってさ。くだらない、そんなものは、サディズムや殺意が旺盛な連中の、インポの不安を抱え込んだ制度的な習性に過ぎない。
自慢したがったりえらそうな態度をとりたがるのも、サディズムであり、殺意である。
西洋人の他者を説得しようとする衝動は、「去勢の不安」に由来する。「生命の尊厳」だのなんだのと声高に叫んでいる連中が、レイプや人殺しばかりの社会をつくり、正義を振りかざしながら戦争に夢中になっている。それもこれも「去勢の不安」から逃れられないからだ。
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ユダヤ人は、レイプに対してわりと寛容な民族であるのだとか。それは、彼らが「受難」をアイデンティティとしているからだろう。「受難」をアイデンティティとするほどに、説得するというサディズムや殺意の旺盛な民族なのだ。
そして西洋人もまた、そういう民族が生み出した宗教を信奉している同じ穴のムジナである。西洋人のユダヤ人に対する殺意は、近親憎悪なのだ。日本列島の住民からすれば、そうとしか見えない。
彼らは、「けがれ」の意識を持っていない。だからアイデンティティを確立できるのであり、だからわれわれ日本列島の住民は、アイデンティティを確立できないで、彼らから「子供だ」とさげすまれなければならない。
われわれは「けがれ」の意識を抱えているから、彼らほどサディスティックにはなれない。サディスティックにならなければならないほどちんちんがやわらかい民族ではない。
われわれにとって他者は、ときめいてちんちんが硬くなる対象であって、レイプして説得するべき対象ではない。レイプしないとちんちんが硬くならないわけではない。
われわれは自我の希薄な「子供」だから、他愛なくときめきちんちんが硬くなってしまう。
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「けがれ」の意識を持たないで「生命の尊厳」などといっていると、人間はサディスティックになってしまう。
人間は、「生命の尊厳」を生きているのではない。「生命の危機(不安)」を生きているのだ。生きることは危機を回避することではない。危機に浸されることだ。「危機を回避することの危機」を生きている連中が、あせって毎晩ふにゃふにゃのちんちんでセックスしてやがる。
いいんだけどさ。そうしたければすればいいのだけれど、アイデンティティを確立した大人であることをえらそうに自慢するな。ふにゃふにゃのちんちんを抱えてあせっているだけのくせに。
そんなもの、えらいともなんとも思わない。サディストめ。
自我を確立することを断念してこの生の「けがれ」を自覚してゆく、それが、人間であることの根源のかたちであり、そういう根源のかたちを喪失しているからおまえらのちんちんはふにゃふにゃなのだ。
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「そんなもの」と「そんなこと」。この場合の「もの」と「こと」の違いはどこにあるかといえば、前者は、ふにゃふにゃのちんちんであることに「まとわりつかれている」状態をあらわし、後者は、そういう事態の「出現」をあらわしている。
ちんちんが硬くなることは、事態の出現である。それに対して、事態の出現に対するときめきを喪失して、自我が確立されているという「状態」に耽溺してゆくとき、ちんちんは思うように硬くなってくれない。
歳をとると勃起する力が弱くなる、とは一概にはいえない。人は、大人として共同体の制度に組み込まれ、自我が確立されている「状態=もの」に耽溺してゆくことによって、だんだん勃起する力が弱くなってゆく。
意識を自我が確立された「状態」として保つのか、それとも一瞬一瞬生起して消えてゆくゆらめきとして生きるか。「大人」と「子供」の違いは、そういうところにある。
古代の日本列島の住民は、みずからの身体にまとわりつく「けがれ」の自覚と、世界(他者)に対するる「ときめき」とのバイブレーション、すなわちこの生をひとつの「状態」として保つのではなく、一瞬一瞬生起して消えてゆくゆらめきとして生きていた。そういうところから、「もの」と「こと」ということばが生まれてきた。
だから、縄文時代の女はみな「やらせ女」だったし、男はどの女にも他愛なくときめいてちんちんが硬かった。彼らは、男と女が一緒に暮らしていなかった。つねに出会いと別れを繰り返していたから、ひとりのパートナーに耽溺するという「状態」=「家族」を持たなかった。すなわちこの生を、一瞬一瞬生起して消えてゆくゆらめきとして生きていた。
縄文時代に一夫一婦制の「家族」などなかったし、男に「父親」という自覚もなかった。子供はみんな、「ててなし子」だった。
彼らは、「家族」という「状態」を持たなかった。家族とはひとつの「状態」だから、「けがれ」がたまる空間になってしまう。つまり彼らは、「けがれ」の自覚が深かったから、家族を持つことができなかった。家族を持てば、さらに「けがれ」の自覚が深くなって逃れられなくなってしまう。
「けがれ」の自覚とともに生きていた彼らには、「みそぎ」の体験が必要だった。それが、別れであり、新しい出会いだった。土偶の一部を壊して土に埋めていたことも、家を建て替えるときには必ず位置をずらして新しい土の上に建てたのも、すべては「みそぎ」の行為だった。それほどに彼らは、「けがれ」の自覚が深かった。
彼らは、「けがれ」の自覚なしに生きることはできなかった。日本列島の歴史がそこからはじまっているとすれば、日本列島の文化とは、つまるところ「みそぎ」の作法にほかならない。
深く頭を下げてお辞儀をするのも、ひとつの「みそぎ」の行為である。
それに対して、現代人が、「生命の尊厳」といいつつ自我を確立してゆくことは、「けがれ」の自覚を捨ててそうした「尊厳」の「状態」に耽溺してゆくことにほかならない。そうやって女は男を家に縛り付け、男のちんちんはふにゃふにゃになってゆくのだ。
また、西洋人は、神との関係に縛り付けられ、そういう「状態」に耽溺している。
「生命の尊厳」を叫ぶものたちは、この生をひとつの「状態」として耽溺している。
しかし日本列島においては、生命は「けがれ」がたまってゆく「もの」だったのであり、そこから「みそぎ=こと」の文化が生まれてきた。
彼らにとってことばもまた、「けがれ」がそそがれる「みそぎ=こと」だった。
西洋人は、他者と出会って自分に気づき、自分を確立してゆく。しかしこの国の古代人は、自分を忘れて他愛なくときめいていった。これが「みそぎ」の文化であり、ちんちんが硬くなる文化なのだ。
古代人にとって他者は、自分に気づかせてくれる存在ではなく、「けがれ=もの」を負った自分を忘れさせてくれる存在だった。そういう体験から、「こと」ということばが生まれてきた。
人間性の基礎は、内田樹先生のいうように「危機を回避する」ことにあるのではない、「危機それ自体を生きる」ことにある。危機を回避して「危機それ自体を生きる」タッチを失った者のちんちんは、なかなか硬くならない。