女は、自分と何かを共有している気配として、男にセックスアピールを感じている。
男と女の関係だって、つまりは人と人の関係だ。
人と人の関係において、生きてあるのはしんどいことだ、という「嘆き」以上に共感し合える心の動きもない。人間存在の普遍的なかたちとして、われわれは「死を知ってしまった」という「嘆き」を共有している。
赤ん坊は、生まれ落ちた瞬間からしばらくの期間、いつも泣いている。それは、彼が無力であることの「嘆き」だ。お母さんに何かをしてくれと訴えているのではない。
生きてあることそれ自体がしんどいことだという思いは、おそらく誰の中にもある。どんなに人間賛歌や生命賛歌を繰り返しても、人間の世界からこの「嘆き」の通奏低音を消すことはできないし、この通奏低音こそ人間的な連携や快楽の源泉になっている。
しんどいと思うこと、すなわちこの生に対する「拒否反応」が、人間の心の動きや行動の契機になっている。
生命の仕組みがどうなっているかということなど僕には知りようもないが、人と人を根源においてつなげているのは、生命賛歌ではなく、生命に対する「嘆き=拒否反応」なのだ。
生き物は、動こうとして動くのではない、「拒否反応」があるから動いてしまうのだ。生き物の命の根源に、動こう=生きようとする欲望などはたらいていない。それでも生き物は動いてしまうし、生きてしまう。それは、命に対する「拒否反応」がはたらいているからだ。命に対する「拒否反応」がわれわれを生かしている。
どんな生き物のも、生きてあるのはしんどいことだという、命に対する「嘆き=拒否反応」を持っている。
生き物が生きてあることの基本としての「痛覚」とは、ひとつの「嘆き」である。
生きてあるよろこびは、しんどいことが癒され、しんどいことから解放される体験としてやってくる。
まず、「しんどい=嘆き」という体験がある。意識は、「この生の危機=苦痛=嘆き」として発生する。
われわれは、死ななければならないという宿命を負って生まれてくる。そういうことを意識したときから人類は、嘆きを深くしてゆき、深くしたから、そこからの解放としてのよろこびが豊かになっていった。人間が年中発情している生き物になったのも、まあそういうことだろう。
この生は、「嘆き」からはじまっている。われわれは、この生の危機に直面するというかたちで生まれてくる。そうして赤ん坊は、「おぎゃあ」と泣く。これが、意識の発生である。危機がないのなら、意識も存在する必要がない。生命の危機に対する嘆きこそ、意識の根源のかたちである。
言いかえれば、死が近くなると人は、嘆きを消去するようにして「ボケ老人」になってしまう。現代社会は嘆きを消去するというかたちで動いているから、年をとればとるほど嘆きに耐えられなくなってゆく。つまり、現代社会のむやみな人間賛歌や生命賛歌は、そういうところに人を追い詰めてゆく。
人間社会は昔からそうだったというわけではない。日本列島の古代や中世の農民は、「嘆き」を共有してゆくというかたちで村落共同体をいとなんでいた。それが、文明や貨幣経済の発達とともに、人間賛歌や生命賛歌を共有するかたちになってきた。
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貨幣経済というなら、農村など、戦後のつい最近までおおかた自給自足の暮らしだったともいえる。多くの農民は、そうむやみにお金を欲しがらなかったし、金がなくても生きてゆける社会だった。
しかし今や、日本列島の隅々まで貨幣経済が浸透している。そうして「嘆き」を共有してゆく関係の文化が衰退し、生命賛歌の世の中になっている。
貨幣経済とは生命賛歌であり、生命賛歌だから本質的ではないのだ。
どいつもこいつも、生命賛歌をすれば本質を語ることになると思っていやがる。
ともあれ、「嘆き」を共有してゆく男と女の関係、すなわち人は異性のどこにセックスアピールを感じるかという心の動きがそう変わるわけではない。男と女の関係なんて、根源においては、原始時代からそれほど変わっていないはずである。ようするに、生きてあることの「嘆き」を共有しながら抱きしめ合いセックスするのだ。
内田樹先生は、人と人の関係においてセックスのことはそれほど大切な問題ではない、という。人間賛歌・生命賛歌を共有してゆくことこそ人と人の関係の根源だ、と。
そうではない、そういう関係の思想など、貨幣経済とともに、つい最近起こってきた、たんなる制度的な観念にすぎない。
むかしの人は、世界中どこでも、人間賛歌や生命賛歌などしていなかった。ただもう生きてあることの「嘆き」を共有し合って歴史を歩んできたのだ。日本列島においては、生命賛歌など、戦後のつい最近の風潮にすぎない。
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たとえば、1000年前の「平家物語」のどこに人間賛歌や生命賛歌があるというのか。おごれるものは久しからず、盛者必衰のことわりをあらわす……あれは、次々に人が死んでゆく物語である。
平家の総大将平敦盛や17歳の若武者知盛の最期とか、建礼門院徳子と八歳の安徳天皇の母子による入水心中とか、人々はそういう悲劇的な物語に涙して日本中に広まっていったのだ。それは、血湧き肉躍る勝者の生命賛歌の物語だったのではない、ひたすら涙せずにいられない生命の滅びのエピソードの数々が琵琶法師の暗い調子の演奏とともに語り継がれ、日本中の農村に広まっていったのだ。
彼らは、寺の本堂のろうそくの明かりの下とかでその演奏を聴き、みんなして涙してゆくことによって、つらい現世の「けがれ」を癒し、結束していったのだ。
われわれは数億・数十億の精子の中のひとつとして生まれてきた。それは、われわれの「幸運」でははなく「悲劇=けがれ」なのだ。そして「悲劇=けがれ」として自覚しているものたちの方が、はるかに深く他者と連携し、この生を味わいつくすことができる。
生命賛歌をして人格者ぶっているおまえらだけがえらいんじゃない。
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日本列島の住民の「けがれ」の意識は、縄文時代からあった。
縄文人は、土のけがれをとても意識していた。だから、集落ごと移住するということも珍しくなかったし、家の位置を少しずらせて建て替えるということはしょっちゅうしていた。たとえば、子供が病気をして死ねば、土のけがれを意識しただろう。そういうことがあればすぐ家をべつのところに立て替えたりしていた。
だから、三内丸山遺跡は、なんだか大集落であったかのようになっているが、実際はそうでもなかった。まあ、普通の縄文集落が10戸から20戸程度だったという常識からすれば比較的大きくはあったのだろうが、それだって縄文中期には集落ごと放棄されてしまった。たぶん、土がけがれてしまった、と嘆いて。
縄文集落は女子供だけで運営され、男たちはその集落を訪ね歩きながら旅から旅の暮らしをしていた。だから農耕が本格化しなかったのだが、集落がかんたんに放棄されたこともあわせて、本格的な定住の時代への過渡期だったともいえる。
彼らは定住することの「けがれ」をちゃんと克服できなかったし、男たちはそこから逃げ出して旅ばかりしていた。
言いかえれば、日本列島の住民は、それほどに定住することの「けがれ」を深く意識する民族だった、ということかもしれない。
大陸では定住して農耕を本格化するということを六千年前からはじめていたが、日本列島は弥生時代以降の2千数百年の歴史しかない。
ネアンデルタールと同じように日本列島の縄文時代から古代までの庶民の心を支えていたのは、嘆くことであり恋心=セックスアピールの文化である。それが万葉集や平安朝の女流文学へと結実していった。いや、日本列島においては、現代の演歌にいたるまで、すべての歴史を通じて「嘆く」ことが人々の心の通奏低音になっているのかもしれない。
嘆くことが、定住することすなわち生きることそれ自体の「けがれ」を癒し、人と人の心を共鳴させる契機になっている。
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原初の人類は、密集しすぎた群れで体がぶつかりあっていることの鬱陶しさを共有しながら、二本の足で立ち上がっていった。そうして、二本の足で立っていることの居心地の悪さを共有しながら、その姿勢を常態化させていった。
人と人の関係は、嘆きを共有してゆく関係としてはじまった。それが直立二足歩行の起源であり、その関係が極まって一年中発情している存在になり、恋(セックスアピール)の文化が生まれ、その文化を基礎にして集団が大きくなっていったのだ。
人間性の基礎は、「嘆き」を共有してゆくことにあり、恋(セックスアピール)の文化は、今でもその基礎の上に成り立っている。人間賛歌や生命賛歌より、こちらの方がずっと根源的なのである。
言いかえれば、現代社会の病理は、そうした不自然で制度的な人間賛歌や生命賛歌によって引き起こされているのだ。
人間賛歌や生命賛歌を唱えれば、なんだか根源的に聞こえるのだが、そんなものじゃない。それこそが世の制度性に冒されて上っ滑りしたお調子者の思考にすぎない。
人類の伝統は、茂木健一郎氏の言うような「生命のふくよかさ」として引き継がれてきたのではない。
生命の「けがれ」に対する嘆きこそ、人類の伝統なのだ。
生きてゆくことは心にも身体にも「けがれ」がたまってゆくことだ。これが日本列島の住民の歴史的な生命感であり、世界中の人間の本心でもあるにちがいない。現代社会の制度性はそれを「ふくよかさ」などといってごまかし、「幸せ」とか「正義」といった概念を信仰している。
しかし恋心=セックスアピールの文化は、そうした人間賛歌や生命賛歌ではすまない。ここに、人間の本音がある。
身体の物性の鬱陶しさ、すなわちこの生の「けがれ」をどうそそいでゆくかという問題として恋心=セックスアピールの文化が生まれてきたのだ。
古代人にとって殺し合うことは、命をかけた娯楽だった。そこから、戦争が生まれてきた。氷河期が明け、環境の好転と文明の進化によって、人類は長生きするようになった。長生きするようになったそのぶんだけ、命の「けがれ」がたまり、それを持て余すようになっていった。そうして、戦争が生まれてきたのだ。
命が「ふくよか」なものであるなら、戦争も恋の文化も生まれてこない。
生きていれば、命はどんどんけがれてゆくのだ。その嘆きがあるから人は恋をする。
「生命のふくよかさ」を自覚しつつ自分にうっとりして生きてゆけ、てか?
そういう不潔ったらしいナルシズムをまさぐって生きてゆこうとすることこそ、現代というか、戦後の日本社会の構造的な病理なのだ。
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人が長生きすれば、「けがれ」がどんどんたまってゆく。
死ぬのが怖くなって人間賛歌や生命賛歌をしたくなるということ自体、「けがれ」なのだ。
歳をとればとるほど人間が意地汚くなり、生き延びようとするけがれた意識も強くなってくる。人生の達人ぶっちゃってさ、そのくせ腹の底では、安楽な暮らしをして生き延びようとするさもしさばかり膨らませている。
生き延びようとすることは「けがれ」なのだ。
なぜなら人間は根源において、「今ここ」でこの生を完結させようとする存在だからだ。
何はともあれそういう存在だから人類は「戦争」をはじめたのであり、人間の心の中には、そういう「鬼」が棲みついている。
鬼にならなければ、老後は生きられない。日々、運命の女神と命のやり取りをして生きてゆくのだ。少なくとも原始人はみなそうやって生きていた。それが、文明の発達とともに生き延びられる確率が高くなってきて、「それでいいのか」と心の中の鬼が暴れ出し、戦争がはじまった。
人間は、「今ここ」でこの生を完結するということをせずにいられない存在なのだ。それを忘れてこの生に居座っていると、「けがれ」がたまって鬼が暴れ出す。そうして男は戦争をはじめたし、女はヒステリーや物狂いが激しくなった。
現代人は、自分をごまかしてうまく生きてゆこうとすることばかりたくらんでいる。心なんか捨てて、できるだけ観念的な存在になろうとしている。心がときめくことよりも、自分は幸せだと思うことだけに執着して生きている。
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上野千鶴子氏の「おひとりさまの老後」に書いてあることなんか、自分は幸せだと思うためのノウハウだけで、この生にどう決着をつけるかということなど何も書いてない。何はともあれ老後とはそのことが問題なのであって、幸せになることではない。
正直に言おう、「おひとりさまの老後」なんて、生きてあることの「けがれ」に鈍感なブスのインテリの生き方が書いてあるだけで、ほんとうに生きるということを味わいつくしている人間なんかどこにもいない。そこにひとりの女が存在する、ということなど、何も感じない。
「けがれ」の自覚がなくて、何が女か、何が日本人か、何が人間か。
そんな薄っぺらな心しか持ち合わせていない人間が、頭だけで「自分は幸せだ」と思っているだけのこと。そんなふうに幸せごっこをして鬼が暴れ出さないような空々しい人間になることがそんなに素晴らしいのか。人間がそれだけですむと思うのか。そんなことをしてごまかしていても、いずれは自分の体が動かなくなったりして、決着をつけないといけなくなるときはきっと来る。
そうなって鬼が暴れ出したとき、さあどうする?
鬼にならないと、老後は生きられない。それは、「今ここ」でこの生を完結させる、ということだ。
達人ぶって今後の生き方をどうのこうのと計画していてもしょうがない。
歳をとったら、「どう生きるか」という問題などないのだ。どのようにして「今ここ」でこの生を完結させるか、という問題があるだけだ。
人間なんて、若かろうと歳をとっていようと、じつはそういう問題と向き合わされて生きている存在ではないだろうか。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
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