人と人はこの生に対する「嘆き」を共有して存在している。
人と人は、なぜ「嘆き」を共有したところで心や行為を共鳴し合うのだろうか。
体が動くのは、「ここにはいられない」という「嘆き」があるからだろう。心が動くのも、やはり、「今ここ」に対する「嘆き」が契機になっているのだろう。坂道に置かれた石ころが転がり落ちるのは、「今ここ」にとどまっていることの「嘆き」があったからだろう。生き物の体が動いたり心が動いたり、つまり「生きる」という現象が起きるのは、「今ここ」に対する「嘆き」として存在しているからだろう。そうでなければ「動く」という現象は起きない。
「生きる」とは「動く」ということであり、「今ここ」を「嘆く」ということだ。
われわれは、坂道に置かれた石ころのような存在なのだ。
人と人は、「嘆き」を共有してゆくようにできている。
「嘆き」を共有するときに、心と心、体と体が共鳴する。ともに動く、ということが起きる。
人間は、他の動物以上に「今ここ」に対する嘆きが深い。
嘆きを共有してゆくところでこそ人と人の豊かな関係が生まれる。そうやって人類は、住みにくいところ住みにくいところへと移住してゆき、ついには地球の隅々まで拡散していった。
そしてもっとも住みにくいところに住んでいたネアンデルタール人が、そのころ地球上でもっとも大きな集団を形成しており、そういう状況から恋心=セックスアピールの文化が生まれてきた。
住みにくいことに対する「拒否反応」が人を生かし、そこに住み着かせてゆく。
人間が生命賛歌ですむなら住みにくいところに住み着いたりはしないし、大きな集団も恋心=セックスアピールの文化も生まれてこない。
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人と人は、生命に対する「嘆き」を共有して存在している。これが、恋心=セックスアピールの文化の根源のかたちであり、このかたちは原始代も現代もそう変わりはないし、そういう変わらない基礎を今なお残していることこそわれわれの希望になるのではないだろうか。
どんなに時代が変わっても、恋心=セックスアピールの文化は滅びない。なぜならそれこそが人間存在の根源のかたちだからだ。
セックスアピールは、たんなる生命賛歌ではない。ただおっぱいが大きいとか男らしくてたくましいとか、そういうことにセックスアピールの本質があるのではない。人間は命に対する「嘆き」を共有している、というところからその文化が生まれてくる。
セックスアピールがないとは、人間としての魅力がないということだ。少なくともネアンデルタールの末裔である西洋人たちは、どこかかしらにそういう意識を持っているのではないだろうか。
そういうセックスアピールのない人間が、人格者を気取って「生命賛歌」という正義を振りかざす。言いかえれば、人格者を気取るということじたいが、セックスアピールの文化の渦中に置かれているということの証明である。それは、セックスアピールの代用品なのだ。だからそういう人格者が、いい歳をして女の間違いを起こしたりする。もてないくせにひといちばいもてたいという欲望が強くて、人格者というレッテルを身にまとおうとする。
もてるとかもてないということは生まれつきの問題もあるから、まあ分相応に受け入れておけばいいだけのことだが、受け入れられなくて分相応以上にもてようとしてよけいにもてなくなり、そのあげくに金儲けや人格者への路線で代用して突っ走る。そういう人間が人生の最後で女狂いをして正体をさらしてしまうこともある。
自己顕示欲だって、つまりはセックスアピールの文化なのだ。
その人が魅力的であるか否かは、魅力的であろうとする欲望によるのではない。その欲望を持ってしまった時点で、もう魅力的ではないのだ。魅力的ではないから、魅力的であろうとする。
魅力的であろうとしてはならない。すでに魅力的であらねばならない。われわれはもう、そういう生きてあることの結果を受け入れるほかない。この世に生まれてきてしまった、という結果を受け入れるほかない。そういう「結果」を受け入れている気配として、他者がセックスアピールを感じるのだ。
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たとえブ男でも、もてようとするスケベ根性なんか持たずにひたすら他者にときめいてゆく心を持っている人は魅力的である。世界や他者にときめいている人は魅力的である。人は、そういう態度を共有しようとする。
自分をまさぐってばかりいる態度を見せつけられるのは鬱陶しい。
「嘆き」を共有するとは、世界や他者に対するときめきを共有することだ。
どんなに幸せだろうと、強くたくましかろうと、生き物として命を持ってこの世に存在しているのはしんどいことだ。その「嘆き」を共有してゆくことのできる気配を、セックスアピールという。
この生に対する嘆きのない人間は、魅力的じゃない。
魅力的な人間になって幸せになろうとなんかしてはならない。
魅力的になろうとしない人間は、すでに魅力的である。
魅力的であろうとするぶんだけ、われわれは魅力的でないのだ。
それは、こちらが表現するものではない、相手が勝手に感じるのだ。
われわれにできることは、自分が魅力的になろうとするのではなく、他者の魅力をどれだけ深く感じることができるかということだけであり、これが普遍的なセックスアピールの文化なのだ。
原始人ならできる。しかしわれわれ現代人は、よけいな欲望を持たされてしまっている。そこが問題だ。その欲望に居直ってつまらない生命賛歌をしていても、その人のセックスアピールにはならない。この世の中の筋書きにしたがって仲良くし合っていても、ときめき合っているわけではない。
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たいして魅力的でもないブスが、仲良くすることは正義だというこの世の中の筋書きにしがみついて書いたのが、「おひとりさまの老後」という本だ。
たいして魅力的でもないブ男が、仲良くすることは正義だというこの世の中の筋書きにしがみついて書いているのが、内田樹先生の著作の数々だ。
人は、ときめき合うという体験を喪失していると、どうしても仲良くするという正義にしがみつきたくなる。仲良くしているという自己満足に居直って生きていこうとする。
戦争に負けて打ちひしがれていた戦後の日本は、戦争に対する反省として、仲良くするという制度性を止揚して歩んできた。そうしてそのあまり、「ときめき合う」というセックスアピールの関係を失っていった。その結果として、上野千鶴子内田樹東浩紀という知識人が生まれてきた。
人がセックスアピールを失っている社会。ホリエモンは、セックスアピールのなさを金で代替していった。内田先生や上野さんや東さんは、子分を集めること(=ネットワーク)でセックスアピールを代替している。
けっきょくセックスアピールのない人間ほどセックスアピールを持ちたがる。なぜなら、人はセックスアピールを感じる生き物だからだ。
人間社会であるかぎり、その集団性は、いつだって男と女の関係、すなわちセックスアピールの文化が基礎にある。
とはいえ、セックスアピールのない女が、セックスやりまくって「私はもてる」と自慢してもしょうがない。男は、おまえにセックスアピールなんかなくてもおまんこさえあればセックスできるんだよ。そして、ちんちんの立たない男に、仲良くすることしか能のない社会を組織されても困る。
世の中には、セックスをしないセックスアピールを持った女もいれば、セックスばかりしているセックスアピールのない女もいるし、さまざまだよね。
何はともあれ現代の日本社会は、いまだに戦争に負けたことのトラウマを引きずっているらしい。
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