祝福論(やまとことばの語源)・「やさし」

自分なんか生きていてもしょうがないんじゃないかとか、生きていてはいけないんじゃないかと思うことはないですか。
人から叱られたりののしられたりすると、そういう気持ちがいっそう増幅されてしまう。
そこで、そういうことに負けないように、生きることには価値があるんだとか、自分は生きるに値する人間だという思いをがんばって構築していけばその解決になるかといえば、たぶんそれでは根源的な解決にはならない。
そんなことを思っている人間は、人にときめかなくなってゆく。そうして自分の価値を確認するために、「あいつはろくでもない人間だ」という視線を絶えずはたらかせていなければならなくなる。そういう視線が、その人の生きるよりどころになってゆく。
それでいいのか。
社会の上層部に浮かび上がった人間は、それが通用する。そういう視線を持っていても、利害関係で人は寄ってくるから、そこで自分は人に好かれるとか人にときめいているという自覚を持つことができる。たとえそれが、たんなる勘違いでも。
しかし、浮かび上がれていないくせにそういう流儀で生きてゆこうとする人間は、だんだん人が寄ってこなくなる。そうして人恋しさが募って、自分から寄っていき、好かれてもらおうとしたり、攻撃して自分の正当性を確認しようとしたりしなければならなくなる。そんなことばかりしていたら、疲れるだろう。頭も変になるだろう。ストーカーやクレーマーにもなってしまうだろう。
社会の上層に浮かび上がれば、自分なんか生きていてもしょうがないとか、生きていてはいけないんじゃないかという不安から逃れられる。
だから、浮かび上がった人間は、生きることには価値があるとかなんとかそんなことばかりいってきて、浮かび上がれない人間も、自分の価値を懸命に確認しようとする。しかし浮かび上がれない人間は、誰もがどこかで、人に嫌われたり叱られたりしながら。「自分なんか生きていてもしょうがない。生きていてはいけないんじゃないか」と思わせられる体験をしてしまう。
人間がそう思うことは、不自然なことだろうか。
僕は、そう思わないで生きることや自分というものの価値にしがみつくことのほうが、よほど不自然で気味悪い心の動きだと思う。それは、人間精神の麻痺であり、病理だと思う。
生きてあることや自分というものの価値なんかに逸脱・飛躍していっても、最終的な解決にはならない。
その証拠に、浮かび上がっていようといまいと、彼らは、ちっとも魅力的ではないではないか。人にときめくということを失っているじゃないか。
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太宰治が、こんなことをいっている。
嵐で難破した船から投げ出された水夫が、やっとのことで岬の灯台にたどり着く。助けを求めようと、灯台の窓のふちに手をかけると、窓の中には、貧しい灯台守の一家団欒の景色があった。それを見た水夫は、ふと手の力が抜け、その瞬間、新しくやってきた大きな波にさらわれてしまった……人間の優しさとか気高さはこの水夫の中にある、と太宰はいう。
「生きていてもしょうがない、自分は生きていてはいけないのではないか」という「嘆き」をどこかに抱えている心は、そのときふと「自分の命はこの一家の団欒を奪うに値するだろうか」と思ってしまった。
僕なら恥も外聞もなく窓ガラスをたたいてしまうのだろうが、太宰治のいいたいことは、なんとなくわかるような気がする。
生きてあることのカタルシスは、そういう「嘆き」を否定して取り去ることではなく、「嘆き」それ自体を生きることにある。彼はそのとき、その一家団欒の景色にときめいてしまった。ときめくことがカタルシスだ。
そういう「カタルシス=ときめき」を、われわれは持っているだろうか。
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人に「執着する」ということと「ときめく」ことは違う。「ときめく」ことを失っているから「執着する」のだ。それを自分の「愛」だと思いたければ思えばいいが、それは、あなたが「ときめき」を失っていることの補償行為にすぎない。そうやってつじつまを合わせているだけのこと。
誰かが、優しくないことが優しいこと、非優即優、といっていたが、自分の優しさを確認することばかりに執着するあまり、だんだん他人に対して残酷に無感動になってゆく、というのはよくあることだ。
優しいことなんかくだらない、と思っている人がいちばん優しかったりして。
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あるブログで、「やさし」というやまとことばの考察がなされていた。
そこで、現在の万葉学者の中西進氏と竹内整一氏の意見が紹介されていたが、彼らは現代人としての自分の先入観から一歩も出ていない、まずそうした「分別」から離れてその先を考えてくれないと困る……というようなことを管理人氏はいっておられた。
その先があるのかどうかはよくわからないが、僕もまた、両氏は古代人の心の動きに推参できていないと思った。
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世の中を 憂(う)しとやさしと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば(万葉集山上憶良

(訳)世の中をうっとうしいともままならないとも思うのだけれど、飛び去ることはできない、鳥ではないので
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この有名な歌の「やさし」は、現代人がイメージしている意味とは少し違う。
中西氏は、それを「恥ずかしい」という意味だという。人や世の中に対して「恥ずかしい」という心の動きをもっているのが本当のやさしさだ、といいたいらしい。
いいんですけどね。だが、とりあえずここでは「本当のやさしさ」なんか関係ないじゃないですか。
古代人は、いわゆる「やさしい心」のことを「やさし」といったのではない。「ままならない」状況とか嘆きのことを「やさし」といったまでだ。少なくともこの歌の「やさし」は、そういう意味でしょう。
古代の「やさし」に、現代語の「やさしい」という意味なんかなかった。だから、古代の「やさし」で「本当のやさしさ」を語るなんてナンセンスなのだ。
「やさしい」という心の動きは、良くも悪くも現代社会の心の動きであって、古代人のものではない。だから、その意味が変質してしまっているのだ。
また竹内整一氏は、この「やさし」には「演技性」の心の動きが隠されている、という。つまり、たとえば、怒りたいときでもそれを我慢してやさしくしてあげるのが本当のやさしさであり、それが「やまとごころ」である、ということらしい。
まあそれでもいいのだけれど、「本当のやさしさ」なんかこのさいどうでもいいじゃないですか、この歌の「やさし」は、そういうことをあらわしているわけではないでしょう。
彼らは、社会的に浮かび上がった層の人間として、自分の「愛=やさしさ」を確認しようとしているだけだ。べつに間違ったことをいっているとも思わないが、そういう鼻持ちならない自意識がぷんぷん匂ってくる。
最初から古代人の心の動きに推参しようとする態度を放棄してしまっている。
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古代の「やさし」ということばは、すでに変質してしまっている。
その痕跡をあえてを捜すとすれば、「やさ男(おとこ)」とか「やさぐれる」ということばに残っているのかもしれない。
これらの「やさ」は、現代語の「やさしい」というニュアンスとは少し違う。
「やさ男」は、「やさしい男」のことではない。「弱々しい」とか「頼りない」とか、まあそんなようなニュアンスだろう。
やさぐれる」とは、「堕落する」とか「落ちぶれる」とか「みすぼらしくなる」とか、そんなようなこと。
「弱々しい」「頼りない」「落ちぶれる」「みすぼらしくなる」……古代の「やさし」と現代の「やさしい」のあいだに、そのような意味が架橋されている。
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「やさし」の「や」の語源は、「たどり着く」こと。「やっと……する」の「や」。そこから「……してしまう」というひとつのたどり着く感慨も「や」で表される。「かなしや」という詠嘆の「や」は、「かなしくなってしまう」ということであり、そこに気持ちがたどり着いてしまうことだ。
「さ」は、「裂ける」の「さ」。
心が裂けることは、心が開くことでもある。だから現代では、心を開いて寄り添ってゆく(=たどり着く)ことを「やさしい」という。
しかし、「世の中を憂しとやさしと思へども」というときの「やさし」の「さ」は、そういう意味ではないだろう。
そのとき、心がどのように裂けているのかといえば、「心が折れる」とか「砕ける」とか、まあそのようなかたちだろう。「や」は「……してしまう」の「や」、「さ」は「心が折れる」で、「心が折れてしまう」、つまり、「ままならないものだなあ」という感慨を表している。
世の中なんてうっとうしくてままならないものだ、という感慨。
「やさし」とは、心をしっかり保っていられなくなること。弱々しいこと、頼りないこと、これが、「やさし」の語源だろう。そこから繊細な心のことをあらわすことばになり、現在の「やさしい」になった。
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ただ僕は、山上憶良が、中西氏や竹内氏がいうほどやさしい人間だったかいうと、それほどだとは思わない。世の中をそうやって嘆くという時点で、すでに古代の民衆の心から逸脱してしまっている。それは、現代的な嘆きであり不満だ。
万葉集には名もない民衆の歌も数多く掲載されているが、山上憶良のように世の中や貧しさを嘆いたものは皆無であるといっていい。彼らは、人との別れや旅のつらさを嘆いても、貧しさなんか嘆かなかった。
貧しさを嘆いたりその不満を訴えたりする心が、そんなにやさしいのか。それは、灯台の窓を遠慮会釈なくたたいている態度だ。
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古代において、山上憶良のこの感慨は、民衆にはなかった。
民衆にとって「世の中=社会のシステム」は、まだまだ身近に感じられるものではなかった。大和朝廷の官吏であった山上憶良は知的労働で暮らしの糧を得ていたが、民衆は、みずからの生産活動で生きることをやりくりしていたから、社会のシステムの恩恵に浴することも当てにすることもなかった。
集落の大半の人間が貧乏であれば、貧乏であることもさほど気にならない。
しかし山上憶良は、そうはいかない。彼が属する権力社会では、貧富の差は歴然としていた。そして、有能な人間が必ず上に立てるとは限らない。たとえ無能でも、血筋や縁故だけでのうのうと高級官吏におさまっている人間はいくらでもいる。
山上憶良は大陸への留学経験もあり、知識と見識においては誰にも負けないという自負があった。それでも思うような出世はできず、妻子や年老いた両親に楽をさせてやることはできなかった。
彼は、帰化人の子だった。帰化人といえば聞こえはいいが、ようするに「難民」である。そういう身分のものが当時の権力社会でのし上がってゆくことは、けっしてかんたんではなかった。
彼は、貧しさを嘆いた。
しかしそうした嘆きは権力社会に身を置くものたちの嘆きであって、みずからの生産活動で食いつないでいた民衆は、貧しさはもう、しょうがないものとして受け入れていた。
日本列島の住民の「貧しさを嘆く」という心の動きは、貨幣経済が発達したもっとあとの時代になってから起きてきたことだった。
古代の民衆は、金などなくても生きていけた。したがって「貧しさ」という問題もなかった。
山上憶良の嘆きは、その当時の「官吏としての嘆き」であって、民衆と共有するものではなかった。
それがどんなに切ないものであろうと、貧しさに対する嘆きは、あくまで制度的な心の動きであって、人間としての根源から生まれてくるものではない。「腹が減った」という嘆きと、「貧しい」と思うことの嘆きは、同じではない。
人は、貧しくとも、何かしらのカタルシスをくみ上げてゆく。(つづく)