祝福論(やまとことばの語源)・「辻が花」17

人類がはじめて本格的に絵を描くということを覚えたのは、二万年前のアルタミラの洞窟壁画などの遺跡に見ることができるのかもしれない。それは、この世界の「物性」を解体して二次元の平面に置き換える視線を獲得した、ということだ。西洋人は、人類ではじめて、本格的な「物性の解体」を体験した人たちだった。
そうして日本画は、もっとあからさまに「物性」を解体して、この世界を「いろ」そのものとして見てしまう視線の上に成り立っている。むかしの日本人は、世界をそのように見てしまう心の動きを持っていた。
司馬遼太郎氏は、単純な埴輪の馬や人間のかたちしかつくれなかった古代の日本人はリアルな仏像彫刻を見て大いに驚いた、それが仏教伝来のもっとも大きな事件のひとつだった、というようなことを言っているが、そうじゃないと思う。そのころの日本人は、それくらいあからさまに「物性」を解体してしまう視線を持っていたのであり、埴輪の馬や人間だけではなく、縄文時代の「土偶」だって、それはそれで、大陸のリアルな仏像彫刻や兵馬俑などよりも、じつはもっと高度な「物性の解体」の視線がはたらいているのだと思える。
その証拠に、大陸のリアルな仏像彫刻が入ってきてから百年もしないうちにそれと同じレベルのリアルな仏像彫刻を自分たちの手でつくってしまった。
そんなものは、つくろうと思えば、いつでもつくることができた。百年かかったのは、鋳造などの技術的な問題があっただけのこと。彼らは、この世界の「物性の解体」ということをテーマにして生きていたから、つくろうとしなかっただけのことだ。
そうして二百年経った天平期には、大陸のものに負けないリアルさに加えて「内面」を表現するという、大陸にはなかった新しいテーマを追求していった。それが、興福寺の「阿修羅像」や東大寺法華堂の「月光菩薩」になった。
つまり、天平彫刻のテーマは、万葉集のテーマでもあった。
人間として、この世界に対する感慨を表現しようとする衝動が深まってきたこと、それが、この時代の精神であり、彼らにとって「身体」は、もはや「物体」ではなく、「内面」の輪郭であった。
そして「辻が花」という縫い締め絞りの染め技法も、そうした時代精神を反映して生まれてきたのだろう。その「空白の花」は、心の中でこの世界の「物性」が解体され「空間の生成」と出会うという体験の象徴であったに違いない。
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衣装に色彩を施すことは何か歴史的にモダンなことのように考えられがちだが、衣装の起源そのものがすでに身体に色彩を施すことだったのであり、現在でも、裸同然の暮らしをしている未開人は、好んで顔や体にペイントを施したりしている。
衣装の色彩は、原始的であればあるほど多様で複雑になっている。だから最新のモードにおいて、色彩を多様で複雑にしようとするときは、たいてい未開の地域のエスニックな民族衣装の色彩感覚を模倣するように表現されている。
たとえば、80年代のファッション界の寵児であった高田賢三三宅一生は、アフリカの民族衣装を模倣しアレンジした色彩を引っさげて登場してきた。そして現在のファッション界では、アンデスの民族衣装の色彩が模倣・アレンジされることが多いらしい。
80年代に発表された吉本隆明氏の「ファッション論」は、こういうことを、「流行の反復性」というパラダイムで、なんだか反復することが流行の目的であるかのように語っていたのだが、そうじゃないんだなあ。衣装は洗練されればされるほど色彩を失ってゆく、という衣装の歴史的な宿命をあらわしているのであり、それは、「反復」を目的としているのではなく、結果的にそうなってしまうというだけのことだ。
流行にとって「反復」することは、避けがたい「結果」であって、「目的」ではない。つねにそのつど、「これが世界のすべてだ」というかたちで盛り上がってゆくのだ。そして盛り上がったものは、必ず衰弱し、滅びてゆく。洗練することは、衰弱することだ。それだけのこと。「反復」することに何か意義があって、それを目指しているのではない。「これが世界のすべてだ」と思うから、盛り上がるのだ。
生きものは、孫子の代までこの生を反復してゆくため、という「目的」を持って生きているのではない。そんなものはたんなる社会の制度性であり、生きものとしての根源においては「今ここに生きてある」という感慨に浸されて生きているだけだ。だから、いっときの流行として大いに盛り上がるのだ。これがすべてだ、と思って盛り上がっているのだ。
つまり、「<反復>する目的で生きている」なんて、社会の制度性にどっぷりと浸され、意地汚くみずからの「死の恐怖」を正当化したい現代人が、ひとまずそういうことにしておきたいだけのことだろうと思えるのだが、吉本氏はそれを、命のいとなみの本質かなんぞのように語っている。
だが、われわれは、そうは思わない。命のはたらきに「目的」などというものはない。命のはたらきは、やがて衰弱し、しおれてゆく。それだけのことさ。
流行は、衰弱する運命にある。だから、新しい流行が生まれてくる。「反復」は「結果」であって、「目的」ではない。
「衰弱」こそが、命のはたらきの法則である。したがって、衣装の究極の姿は色彩を持たないことにあり、辻が花の「空白の花」というコンセプトこそ、まさしく衣装の究極を実現したかたちにほかならない。
おしゃれが洗練されてくれば、形も色もシンプルになってくる、そういうことを世阿弥は「しおれたる姿こそ花なり」といった。
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吉本氏によれば、「未開人および原始人の体にペイントする衣装は、自然を模倣している」のだとか。
これも、ちょっと違う。
自然の花や鳥の派手な色彩は、自然に対する「違和」として存在している。自然に同化するためではない。したがってそのとき未開人や原始人は、「自然に対する違和として存在すること」を模倣しているのだ。
そのとき彼らは、「自然に対する違和」になることによって、みずからの身体の「物性」を解体している。身体の「物性」は、ひとつの「自然」である。その「自然」を厭うて、「物体」ではなく、「色彩=いろ」になろうとしているのだ。
身体の「物性」を解体して、身体を「空間の輪郭」として扱ってゆくこと、これが直立二足歩行以来の人類が生きてゆく流儀だった。
そして衣装もまた、身体を「空間の輪郭」として扱ってゆく道具ととして生まれてきたのだ。
衣装に色彩を施すことが歴史的に何かモダンなことのように思われがちだが、衣装の起源そのものが色彩を施すことだった。未開人や原始人は、「色彩」を模倣しているのではなく、「色彩を施すこと」を模倣しているのだ。
彼らは、花や鳥や動物が、身体の表面に色彩や模様を持っているというそのことに憧れた。根源的に他者にまとわりつかれて存在している人間は、そのまとわりつかれているものを引きはがそうとする衝動を持っている。身体の表面に色彩や模様を持って「逸脱・突出」してゆけば、そのまとわりついているものを引きはがすことができる。
人間は、まとわりついてくる他者の「物性」をつねに引きはがしながら生きているから、疎外感や孤独も味わわねばならない。そういううっとうしさや不安をやりくりするために、身体の外にもうひとつの輪郭を必要とした。それが「衣装の起源」だ。
花や鳥や動物のよく目立つ色彩や模様は、身体を逸脱したもうひとつの身体の輪郭である。それがいきなり目に飛び込んでくるということは、身体を逸脱している、ということだ。
いきなり目に飛び込んでくることを、やまとことばでは「いろ」という。
人間は、「もうひとつの身体の輪郭」を持ちたかった。皮膚を彩色することは、「もうひとつの身体の輪郭」を仮構することである。衣装とは、仮構された「もうひとつの身体の輪郭」である。
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衣装の起源は、「色彩」というテーマをともなって発生した。とすれば、縄文人が、衣装を色彩で染めていなかったということは、考えられない。
人類の衣装は、最初から彩色されたものだったのかもしれない。人類はまず「いろ」をまとったのだ。
木の繊維で編んだ縄文人のプリミティブな衣装が、もし繊維そのままの肌とあまり変らない色であったなら、「もうひとつの身体の輪郭」という機能は心もとない。だから彼らは、積極的に「染める」という技法を工夫していったにちがいない。
歴史の本などで絵に描かれた縄文人の貫頭衣は、たいてい白で描かれている。しかしたぶん、最初は何色でもよかったのだろう。身体という自然に対する「違和」として、とにかく色をつけたかった。そしてそれが、最終的に「白」になっていったとすれば、そのようにして「洗練=衰弱」していった、ということだ。
つまり、その衣装の最初の機能は、みずからの身体からの逸脱としてあったが、それがなじんでそれ自体を身体の輪郭として感じてくれば、「見られている=まとわりつかれている」ことのうっとうしさを解体する機能が必要になってくる。
衣装が「もひとつの身体の輪郭」という機能をたしかに持てば持つほど、色の鮮やかさはしだいに抑制されてゆく。
縄文人の衣装がもしほんとうに「白」であったとすれば、これはすごいことだ。彼らはそれを、「彩色」するのでははなく「脱色」するというかたちで、「自然=身体」から逸脱していった。それは彼らの衣装感覚がそこまで洗練されていたということであり、それほどに「この世界の<物性>が解体されて<空間の生成>に気づいてゆく」という心の動きをたしかに持っていた、ということを意味する。
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「白」は、「空間の生成」をあらわす色だ。彼らにとって白い衣装を着ることは、「空間の生成」に気づいてゆく「内面(=心)」の表現でもあった。
その「空間の生成」に気づいてゆく体験を、彼らは「かみ」といった。
彼らは、すでに「内面(=心)の表現」というテーマを持っていた。
彼らがつくったあの素っ頓狂なかたちをした「土偶」は、まさに女の「内面=心」の表現であった。
われわれはそこに、女が生きてあることの悩ましさや狂おしさを見出すことができる。(縄文時代は女子供だけの集落だったから、女しか土器作りをしていなかった)。
身体の「物性」の表現ではない。縄文人古墳時代の埴輪作りの職人だって、「物性」をリアルに表現しようと思えばできたのだ。しかし彼らは、そのような表現には目もくれず、ひたすら「内面=心」の表現に熱中していった。
縄文時代のあの「火焔土器」の精巧な細工を見れば、身体のかたちをそっくりそのまま表現することなどわけないことだったはずだ。しかし彼らは、そんなことに興味はなかった。そんなことを表現しようという意欲がなかった。
彼らはあくまで「内面=心」が表現したかった。
すなわち、そういう伝統(歴史)のうえに万葉集や「辻が花」が生まれてきた、ということだ。
そのとき「辻が花」を生み出した職人たちは、どうしても衣装に白い部分を残しておきたかった。その「白」は、縄文時代以来引き継がれてき日本列島の住民の心のよりどころであった。
その「空白の花」は、彼らの「内面=心」の表現であり、「<かみ>という体験」の証しであった。