祝福論(やまとことばの語原)・「かわいい」56・表現の心

(承前)
人は、どうして苦しみに憑依してしまうのだろう。それが、人を生かしもするし、死を選択する契機にもなる。生きるということは、危ない綱渡りで、ギャンブルみたいなものだ……。
つまり、生きてあることの嘆きが、人を生かしもし、生きられなくもさせている、ということ。その「嘆き」から「生きられる意識」をくみ上げてゆくのが、「表現する」という行為なのではないだろうか。
吉本隆明氏は、「表現する」こと、すなわち芸術の「美」とは「自己表出」である、といっているのだが、そんなおちゃらけたことではないのだ。人間がするどんなささやかな表現行為であろうと、その心の奥底には、生きるか死ぬかのせっぱつまった状況が息づいている。
夏目漱石ドストエフスキーが小説を書くことだろうと、原始人がただことばを発することだろうとひとつの表現行為には違いないわけで、人間がそういう行為をしてしまうのは、誰もがどこかしらでそういうせっぱつまった状況を負って生きている、ということだ。
僕は、芸術とか文学のことはよくわからない。芸術や文学もコギャルのとぼけた「なんちゃって」ファッションも、同じ表現行為だと思っている。
しかし、だからこそ、芸術表現の根源が、「自己表出」などというちんけで薄汚いナルシズムの産物だとは思えないのだ。
人間の表現衝動は、そんなのんきでおちゃらけたものじゃない。
誰だってじつは生きるか死ぬかのせっぱつまった状況を生きているのであり、それは「私の危機」ではなく、「身体の危機」なのだ。
「身体の危機」を脱するためではなく、「身体の危機」を生きるために表現するのだ。
生きることは、苦しみに憑依してしまうことだ。
苦しみに憑依してしまっているから、表現するのだ。
苦しみに憑依してしまっている自分があるから、自分を忘れようとする。自分を忘れる(自分が消えてゆく)ことが快楽になる。
「身体の危機」を生きることは、身体を忘れることによってはじめて可能になる。
身体を「物性=存在」としてではなく、「空間=非存在」として感じることによって、はじめてこの生が可能になる。
身体の物性を消すこと、すなわち自分の存在を消すこと、それが「表現する」という行為になる。
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ことばを発すれば、その音声とともに、「身体=自分」に向かっていた意識が外にはがれてゆく。そして私は、自分が発したその音声を「聞く人」になる。これが、「ことば」という体験の根源のかたちである。
ことばの発生は、ことばを「発した」ことにあるのではない。ことばを「聞く」体験のカタルシスとして発生したのだ。ことばを発することのカタルシスとは、ことばを聞くことのカタルシスなのだ。
ことばは、意識を「身体=自分」から引きはがす装置である。
そのとき意識における身体は、「物性=存在」が消えて、「空間=非存在」のかたちになっている。
われわれは、身体が「空間=非存在」になることによって、はじめて「身体の危機」を生きることができる。
そして「苦しみ」に憑依しなければ、そういう「心の動き」は起きてこないのであり、そういうかたちでこの生が成り立っているのだ。
息をするという行為が起きてくるのは、息苦しさに憑依してしまう心の動きがあるからだ。息苦しさを感じない心なら、息をすることもしようとしない。
心は、苦しみに憑依してしまうから、「表現」という行為が起きてくる。
息をすることだって、表現行為なのだ。
芸術家ばかりが「表現」しているのではない。
そしてバカギャルの「なんちゃって」ファッションだって、その、人間から逸脱し社会的合意(=公共性)から逸脱してゆこうとするラディカリズムにおいて、それはそれで高度な芸術表現なのだ。
彼女らは、「自分」を表現などしていない。「かわいい」を表現している。「かわいい人」になろうとしているのではない、「かわいいに気づく人」になろうとしているだけのこと。
彼女らが無邪気に「安室奈美恵かわいいね」というとき、どうしてあんなにも対抗心もねたみもなしに無邪気にいってしまえるのか、僕はほんとに感心してしまう。
表現とは、自分を消してしまうことである。
人間は、自分を消してしまうほかない事情を抱えて生きているから、「表現」という行為をするのだ。
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僕は、吉本氏や内田先生よりも、どこかのバカギャルのほうが思想的にずっと尊敬できる。
彼女らは、観念だけがグロテスクに発達したあのお二人より、ずっと根源的にものを考えている。
彼女らは、体ごと世界を感じて生きている。そういう体ごとの感慨や思考こそが、僕の尊敬する対象だ。
なぜなら「意識」とは、身体を通じて発生するものだと思えるからだ。
発生した意識が身体に気づくのではない。身体の世界に対する反応として意識が発生するのだ。
たとえば、テーブルの上のコップが見えるというとき、最初はコップとの距離がわからなくて、それからだんだん身体を介して距離感がわかってくる、というわけではないだろう。それは、はじめから身体との関係として立ち現われる。
まあ、そういうこと。
その先験的に体得してしまっている距離感から、「自分」という意識が生まれてくる。
身体とコップのあいだには距離がある、と気づいて「自分」という意識が発生する。
つまり、「自分」がことばを発するのではなく、ことばによって「自分」が発生するのだ。
意識は「自分」ではない。意識は、身体と世界との関係である。コップとの距離は、身体との距離であって、「自分」との距離ではない。こんなこと、あたりまえだろう。このあたりまえのことを感じる能力が、「自分」にとらわれてしまっている吉本氏や内田先生にはない。
「自分」には「場」がない。したがって、「自分」とコップの距離を測ることは不可能である。
「自分」は、「存在」ではないし、「場」すらも持たない。
まあ、彼らの薄っぺらな脳みそで解決がつくほど、人間はかんたんな生きものではない。
「自己」という概念だけで解決がつくほど、意識の問題も表現の問題もかんたんじゃない。
「自己表出」なんて、自分に酔いしれてわかったようなことをいってるだけの思考さ。
「自己」という概念で思考停止してしまうところが「近代」の限界なのだ。
まったくやつらは、思考停止しているだけのくせに、「考え続けている」ようなポーズをとる曲芸だけはいっちょまえなんだから、いやになる。
内田さん、あなたはほんとうに、僕よりも考え続けていると、僕の前でいえる自信があるか。
悪いけど僕は、あなたほどには、思考停止して自分に酔いしれている時間は持っていない。
あなたがそうやって自分に酔いしれているあいだも、僕は考え続けている。
僕だけじゃない。自分に酔いしれることができなくて、心が揺れて震え続けているものたちは、あなたよりもずっと深く遠くまで考えている。
心が揺れて震え続けていることが、考え続けていることの証しだ。
この世に僕よりも深く遠くまで考えている人間はいくらでもいるが、自分に酔いしれてわかったようなことばかりいっている吉本さんや内田先生よりは、僕のほうがずっと深く遠くまで考えている。
大切なことは、「わかる」ということではない。「考える」ということであり「感じる」ということだ。
「心が動く」ということだ。「心が動く」とは、身体が世界に反応している、ということだ。だから、バカギャルは尊敬できる。身体が世界に反応することが、生きることだ。
自分に酔いしれることばかりにうつつを抜かしている大人なんかみすぼらしいだけだ、と若者たちは見ている。
バカギャルは、自分になんか酔いしれていない。「かわいい」に酔いしれているのだ。
そこのところの自分を消そうとするタッチは、あなたたちみたいに「自分」に執着しきった俗物には、永久にわからない。
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くだらない、なにが「自己表出」か。
吉本さん、あなたみたいに自分に酔いしれることばかりに勤勉なだけの薄っぺらな思考の知識人が大御所としてのさばっていることに、僕はうんざりしている。
あなたなんか、ちっとも「自分」からも「人間」からも「公共性」からも逸脱してゆくことができていないじゃないか。逸脱していないから、俗受けして大御所におさまっていられるだけのことさ。
あなたの思考は、ことばの根源にも美の根源にも届いていない。
何が悲しくてあなたていどの思想にわれわれがひれ伏さねばならないのか。
自分に酔いしれて生きていたいいじましいやつらばかりが、あなたにひれ伏しているだけのことさ。
われわれが連帯したいのは、そういうやつらでもあなたでもない。
この社会の病理やくだらなさに気づく契機としてなら、あなたの思想の存在意義も認めないわけではないが。
吉本さんであれ内田先生であれ、あなたたちにこの社会の病理をえぐり出す能力なんか何もないが、あなたたち自身が病理だ。