祝福論(やまとことばの語原)・「かわいい」57・劇画「青い花」

鎌倉の女子高の同性愛のお話。
作者は、志村貴子
青い花」だなんて、シンプルすぎてあまりインパクトのないタイトルだ。しかしそのことばにこめられた作者のこだわりにこそ、おそらく新しさと時代性がある。
女子高の同性愛など、取り立てて新しいモチーフでもない。
戦後、川端康成がこのモチーフの小説を少女雑誌に連載して一世を風靡したことがある。
その生態はもう、明治時代の女学校創設のころからずっと繰り返されてきたことだろう。
この劇画の舞台になっている女子高も、そんな古い伝統校である。
そしてここで描かれている同性愛の生態も、ほとんど古典的ともいえる奥ゆかしさで、生々しい性描写があるわけではない。
つまり、ちっとも個性的な表現ではないのだ。というか、個性なんか表現していない。
新しいメッセージも何もない。女どうしの揺れ動く心の交流のあやがきめ細かく描写されているだけである。
現在5巻まで発売されているが、主人公の二人は、まだキスさえしていない。
もしかしたら最後までしないのではないかとも思える。したい、と思っても。
そんなもどかしく古風なストーリーなのに、それでも近ごろの若者の一部から大いに支持されている。
で、既成の評論家は、どうしてだろう、と首をひねっているのだとか。彼らの仕事が、個性的な新しいメッセージを取り上げて評論することにあるのだとすれば、この作品は、およそ仕事にならない対象なのだ。
しかしもう、そんなものさしで評論すること自体が古いのかもしれない。
この劇画の真骨頂は、個性的でないことにある。
個性的でないことのおしゃれなタッチがある。
それが、現在の「かわいい」のかたちなのだ。
絵も、清潔でいやみがなく巧みではあるが、個性的ではない。
主人公の二人も、とくに個性的なキャラクターではない。
ただもう、思春期の少女の不安を描くことに徹している。
すべての登場人物がそういう傾向を抱えており、自分に酔いしれている人物は一人もいない。みなそれぞれがそれぞれの色合いで思春期の不安と向き合っている。
作者のそういう誠実できめ細かい視線が受けているのだろう。
とにかく、近ごろは、同性愛の劇画が少なくない。
それは、男と女の関係の人間くさい生々しさに耐えられない若者がたくさんいる、ということだろうか。
とくにこの作品は、個性とか人間くさい生々しさを極力排している。それぞれに性格は与えられているが、「個性」というレベルにまでジャンプしてしまうことを、作者は注意深く思いとどまっている。
つまり、「自我」の希薄な少女ばかりで物語が構成されている。
誰も、自分に酔いしれてなんかいない。それが、みそだ。それは、この作者の節度というよりも自然なセンスなのだろうし、それが現在の若者の気分でもある。
この作品には、「物語」の王道である「自我の確立」というテーマがない。
ハリウッド映画はまだまだそんな作品ばかりつくっているが、この国の若者たちは、すでにそのようなテーマを喪失している。捨てている、というべきだろうか。
そういうテーマで描いていないから、この作品が受けるのだろう。
川端康成のその同性愛の小説は、戦後の新しい時代を生きる女としての自我の確立を目指す物語として描かれていた。
しかしこの劇画の少女たちは、何も目指していない。新奇な「自我の確立」の意匠など描かれていない。自我を確立するよりも、不安に揺れている心のほうが素敵ではないか、というスタンスに作者は立っている。
17歳というこの時代のこの瞬間は、もう二度とやってこない。この時代のこの瞬間が美しいのなら、あとはもう滅びてゆくだけだ。
滅びてゆくことと和解しながらこの時代のこの瞬間を生きるしかない……そういうかなしみを、気負わず清潔におしゃれに描いている。
彼女たちは、「自我の確立」よりも、17歳という「今ここ」に溶けて生きようとしている。
彼女らが所有しているのは、「自分」ではなく、「17歳の命」なのだ。17歳の命のふるえ、ということだろうか。
彼女らのその美しい命は、やがて滅びてゆく。
生きることは、滅びてゆくことだ。滅びてゆくことを生きることだ。
「人間くささ」とか、「自我の確立」とか、現在のこの国の若者は、そういう意味空間には生きていない。
大人の醜さに気づいてしまった彼らには、もう、滅びてゆくことと和解することしか生きるすべは残されていない。
大人になることは、滅びてゆくことだ。
そりゃあまあ自我の強い大人たちがつくるこの現代社会に暮らしているのだから、映画館に行ってハリウッド的な「自我の確立」の物語にしてやれることはあるとしても、それもまた彼らのあこがれのひとつであるとしても、彼ら自身が現実に共有している生のかたちはもっとべつのところにある。
この作品は、「かわいい」とときめいてゆく若者のかなしみを、過剰にも暗くもならないタッチで、とても上手に表現している。
今どきの若者は、自我を確立する、などという物語は、すでに断念している。大人たちのそういう自分に酔いしれた態度の野暮ったさや顔つきのみすぼらしさに、うんざりしている。
「自我の確立」の物語からは、「かわいい」というときめきは生まれてこない。
そういう「物語」を喪失したところで、「かわいい」とときめいているのだ。
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「自我」という自分の命のかたちを確立するのではなく、それが滅びてゆくことを抱きすくめてしまう心の動きは、この国の歴史の水脈である。ジャパンクール……そういう西洋人にはない心の動きで「かわいい」とときめいてゆくタッチが、今、静かに世界中に広がりつつある。
しかし、現在のこの国の大人ほど無防備に「自我」に酔いしれている人種も世界にはいないのであり、若者とのあいだでそういう両極をつくっているところに、この国の特異性と若者の生きにくさがある。
明治の人々は個人がこの両極を生きていたが、現在はジェネレーションギャップとして分裂してしまっている。そしておそらくその分水嶺は、「アラフォー」の世代のところにある。
いまやみごとに真っ二つに、支配するがわとされるがわとして分かれれてしまっている。そこに、若者の生きにくさがある。こんな世の中だもの、ニートや引きこもりやリストカット統合失調症も、もうしょうがないのだ。
大人たちの自我意識が騒々しすぎる世の中なのだ。
だから、「ヨコハマ買い出し紀行」とか「青い花」というような劇画が生まれてくる。
しかし、そんな大人たちも年々年老いて退却してゆくし、そんな大人たちに共感する若者もいずれはいなくなるのだろう。それが、希望といえば希望であり、そんな時代の大人の騒々しい悪あがきとして、内田樹先生の言説がとりあえずのさばっている。