祝福論(やまとことばの語源)・「かわいい」22・くだらな

快楽とは、自己処罰のことだ。
人間が自己処罰しようとする生きものであるのは、意識の根源において「自分はここにいてはいけないのではないか」という思いが疼いているからだ。
これは、大問題だ。原初の人類は、「自分はここにいてはいけないのではないか」という思いにせかされて二本の足で立ち上がった。そうして、世界や他者にときめくという快楽を発見した。
原初の人類の直立二足歩行は、生き延びる能力を獲得する体験であったのではない。その不安定で危険極まりない姿勢になることは、生き延びる能力を喪失する体験だった。しかし、そうやって自己処罰することによって、世界や他者にときめくという快楽を発見していった。
快楽とは、ひとつのストレスである。
自己処罰してストレス=快楽の中に身を置くことによって人類は、知能を発達させてきた。
はじめに自己処罰するストレス=快楽があった。知能は、その結果にすぎない。
人間を生かしているのは、自己処罰するストレス=快楽である。
人間を生かしているのは、自分(自我=アイデンティティ)を守って生き延びてゆくための「知能」などではなく、自己処罰してここから消えてゆく「ストレス=快楽」なのだ。
自分を守って生き延びるための知能をよりどころにして生きている人間よりも、自己処罰してここから消えてゆく「ストレス=快楽」を知っている人間のほうが、人間としてずっと高度で根源的な生き方をしている。
世の大人たちや、知能の高さが自慢の人たちは、自分たちがなぜ、「俺たちバカだから」といっている若者たちに幻滅されねばならないのか、今一度立ち止まって考えてみたほうがいい。あなたたちより彼らのほうが、ずっと高度で根源的な何かに気づいているのである。
彼らのほうが、ずっと世界や他者のときめいている。
人間のすばらしさとか命の大切さをああだこうだと語る大人たちよりも、そんなまわりの大人たちを通して深く人間に幻滅している若者たちのほうが、ずっと人間の根源に届いている。
人間は、自己処罰せずにいられない生きものである。
人間は、「自分はここにいてはいけないのではないか」と問わずにいられない生きものである。
自己処罰して消えてゆくことは、快楽である。
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ある統合失調症の子供を持つ親が、こういっていた。
……統合失調症の子供を持つ親たちはみんな、自分たちがそうさせてしまったのではないかと苦しんでいる。だからその病気が「生まれつきの脳の欠陥による」という説は、自分たちの苦しみを和らげ救いになる……と。
で、僕は、こう返答した。
……もし脳に欠陥があるとすれば、それは「結果」であって「原因」ではない。彼は、正常な脳を持って生まれてきたのに、親や社会に追いつめられてそうなった。それはもう、たしかにそうなのであり、追いつめたあなたたちが救われなければならない理由などない。苦しいのなら、苦しめばいい。あなたたちは、どうして「こんなになってしまって」と嘆くのか。僕は、彼の「今ここ」をぜんぶ肯定する。あなたたちに同情なんかしない……と。
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そのとき僕は、この人はどうしてこんな虫のいいことを平気でいえるのだろうか、と思った。何がなんでも自分のアイデンティティを守ろうとしている。守れなくて苦しんでいる。
苦しむことが不幸なことだと思っている。
人間は、苦しんだらいけないのか。
苦しいのなら、死ぬほど苦しめばいい。
「こんなになってしまって」と思うから苦しいだけじゃないか。
そう思うのなら、たっぷり苦しめばいいさ。
人間なんか、みんな「こんなになってしまった」存在なのだ。
誰もが、イチローになれなくて、「こんなになってしまった」のだ。
イチローだって、アインシュタインになれなかったくせにえらそうなことをいうな、と思う。
アインシュタインだって、イチローになれなかったくせにえらそうなことをいうな、と思う。
誰もが、たった一つの「自分の人生」しか生きられない。人生なんて、ほかにいくらでもあるというのに。
そういう「喪失感」が、あなたたちにはないのか。
それが「ない」というのは、ごまかしているだけじゃないのか。そうやってごまかして生きていかなければならないのか。ごまかせないで「喪失感」を抱いてしまう愚かな人間は、人間のうちに入らないのか。
誰だって、「こんなになってしまった」存在なのだ。
誰だって、「こんなになってしまった」ことを受け入れなければ生きられない。
彼だけが、「こんなになってしまった」のではない。
彼は、あなたたちみたいなろくでもない親から生まれたことを受け入れようとしている。そんな親なんか赦(ゆる)さなくてもいいのに、赦そうとしている。
あなたたちが彼に赦されているのなら、あなたたちに「こんなになってしまって」と思う資格なんかない。いや、赦されなくても、そんな資格はない。
「こんなになってしまって」と思うことは、赦していない、ということだ。
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これは、現在の若者と大人たちの関係を象徴的にあらわしている事例だと思う。
正しい大人でいい親だから子供を追いつめていないとはかぎらない。
善人ぶった大人たちの存在そのものが、子供や若者たちを追いつめているのだ。
世にいう人格者なんて、たいていサディストなのだ。というか、いざとなると、たいていサディストになる。
いざアイデンティティの危機に陥ると、なりふりかまわずサディスティックな態度をとってくる。
統合失調症の子供を「生まれつきの脳の欠陥による」と決めつけて、自分の罪を逃れ、自分のアイデンティティを守ろうなんて、それは、とてもサディスティックな態度ではないのか。
そういうことにして安心しようなんて、よくそんなことができるものだ。
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内田樹先生は、「若いころはむやみに反省しないほうがいい。自己嫌悪の泥沼に落ち込むだけだ」といっておられた。
じゃあ、自己嫌悪の泥沼に落ち込む若者は、ろくでもない人間なのか。
自己嫌悪の泥沼に落ち込む生き方をしたっていいだろう。人それぞれだ。そういう自己処罰の態度の誠実さ率直さというのもあるだろう。
自己処罰を避けて生きてきたあなたみたいなくだらない大人になることが、そんなにすばらしいことか。
そういうことをいうやつが「統合失調症は生まれつきの脳の欠陥による」などといって落ち込むまいとしてくるのであり、その調子で「俺が女房に逃げられたのは女房に問題があったのであって、俺ほど家族の何たるかをわかっているものもいない」、などと平気で吹聴して、家族問題のオピニオンリーダーづらをしてくるのだ。
この人はたぶん、すごいサディストなんだろうと思う。サディストじゃなきゃ、そんなことはいえない。自分のアイデンティティを守るためなら、どんなに矛盾したことでも平気でいってくる。
若いころに地面に頭をこすりつけて自己嫌悪に陥る、というような経験をしたことのないやつは、大人になって、たいていサディストになる。そういう大人たちのその人格者ぶった態度こそが、若者を追いつめているのだ。
彼らが、ニートやフリーターの若者を否定するのは、そういう若者を前にすると、みずからのアイデンティティの危機を感じるからだ。そうして、持って生まれたそのサディズムを発揮して平気で彼らをさげすみ、自分を正当化してくる。
内田氏は、「世の中にはいろんな人がいてもいい、それが世の中というものだ」、というのだが、だったら、ニートやフリーターだっていてもいてもいいだろう。どうして人格者ぶって、彼らに対して「おまえたちが世の中をだめにしている、いいから黙って働け」、などということをいってくるのか。そういわないと、あなたのアイデンティティが危うくなるからだろう。この人のいうことは、口先だけなのだ。口先だけで人をたらしこもうとしてくる。
若いころにちゃんと自己嫌悪を経験してこなかったやつは、そうやって平気で二枚舌、三枚舌を使ってくる。つまり、内田氏が「世の中にはいろんな人がいてもいい、それが世の中というものだ」などといっても、板に付いていないのだ。本音のところでは、世の中の人間をぜんぶたらしこんで自分みたいな人間にしたがっている。
人格者ぶったやつにかぎって、何もかも自分の都合がいいようにいいように言いつくろってくる。
「自分はここにいてはいけないのではないか」と自己嫌悪の沼に沈んでいる統合失調症の若者や、ニートやフリーターの若者たちが、どうしておまえらに「こんなになってしまって」とさげすまれなければならないのか。
さぞかし彼らは生きにくいことだろう、というだけのことさ。僕は、内田氏のような人格者づらした連中こそ、徹底的にさげすんでやる。僕なんかにさげすまれても、痛くも痒くもないだろうが。
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ある西洋の哲学者が「生きられる意識」といっていた。
それを見つけ出すことこそ哲学の課題である、と。
彼らにとってそれはきっと「自我(アイデンティティ)の確立」ということなのだろうが、自我の希薄なわれわれ日本列島の住民は、そんなものをたよりにしては生きられないし、そんなスローガンが大手を振ってのさばっている社会ではうまく生きられない。
いまどきの若者が、仕事の目的は「自己実現」だというとき、何かいたましいものを感じさせる。「自我の確立」というスローガンを振りかざす大人たちがのさばっている社会だから、若者だって「自己実現」を目指すことを強いられてしまう。
しかしそんなことは、いざアイデンティティの危機に陥ったら二枚舌三枚舌を使ってなりふりかまわずサディスティックになれる人間でなければ達成できない。そういう壁にはね返されて彼らは、ニートやフリーターや派遣労働者になることを余儀なくされている。
その哲学者はようするに、デカルト以来の伝統である「自分が存在する」ということを確認できれば生きられる、といいたいらしいのだが、われわれ日本列島の住民は、「自分が消えてゆく」というタッチで歴史を歩んできた。
「自分はここにいてはいけないのではないか」という生きものとしての根源的な意識は、「消えてゆく」ことによってしか癒されない。
日本列島の住民は、「自我の確立」も「存在の確認」も願わない。
今ここで消えてゆくタッチが、われわれを生かしている。
近頃の若者が「俺たち頭わるいから」というのは、「自我の確立」も「存在の確認」も願わないで、今ここで消えてゆこうとしているタッチなのだ。
彼らは、この国の歴史の水脈に浸されている。そしてそういうタッチを持ってしまった彼らにとって現在は、どうやらとても生きにくい社会になっているらしい。
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「くだらない」ということばを、近ごろの若者は、「くだらな」と、「い」を省いていうらしい。
「くだらない」といえば、何か軽蔑している感じだが、「くだらな」と留めてしまうと、「やめてくれよ」と嘆いているというか、うんざりしているような雰囲気になる。
軽蔑というより、拒否反応なのだ。
彼らは、ことばの扱い方をよく知っている。
「くだらない」は、「くだら+ない」で、「くだら」が「ない」といっているのではない。
「くだら+な+い」。
「な」は、「きれいな」の「な」、そういう「感じ」、ということ。
「い」は、強調の語尾。「い」によって「くだらな」を強調しているのであり、だから、「軽蔑」のニュアンスになる。
それは、「はしたない」とか「もったいない」とか「はかない」というのと同じで、「はかない」は、「はかな」ともいう。だから、「くだらな」でいいのであり、いわば古風な言い回しなのだ。
「くだらな」の「く」は、「組(く)む」「苦(くる)しい」の「く」。「交錯」「複雑」「苦痛」の語義。この場合は、「面倒くさい」というようなニュアンス。
「だ=た」は、「立(た)つ」「足(た)る」の「た」。「成立」「充足」「確認」の語義。「しんそこそう思う」というようなニュアンス。
「ら」は、「われら」「彼ら」の「ら」。「集合」の語義。
「くだら」は、めんどくさいと思う気持ちが胸にあふれること、つまり「くだらな」とは、「うんざり」ということ。
「くだらない」という論理的な認識ではなく、ただもう気持ちがげんなりしてしまうこと、それを「くだらな」という。
それは、現在の若者の、現在を生きている気分だ。
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「現在」は、「くだらな」と思うことがあふれている。
何より、自分自身に対して「くだらな」と思う。
彼らは、そこから生きはじめる。
「俺たちバカだから」という彼らは、賢いことや偏差値が高いことを「くだらな」といっているのではない。賢いことや偏差値が高いことをアイデンティティとしていること、そうやってアイデンティティに執着していることを「くだらな」といっているのだ。
賢いことや偏差値が高いことは、社会にフィットして生きてゆくための有利な材料になる。それはそれでけっこうなことだが、それをアイデンティティとして自分に執着していることの、その他者に対するときめきを失った鈍感さと差別意識を「くだらな」という。
「俺たちバカだから」というのは、彼らの自己処罰である。そしてその自己処罰のタッチを共有しながらときめき合っているものたちにとって、みずからのアイデンティティを後生大事に抱えている大人たちの態度には、どうしようもなくうんざりしてしまうし、何か圧迫感を感じてしまう。
彼らは、幼いときからすでに、「自分はここにいてはいけないのではないか」という思いを芽生えさせ、自己処罰しながら生きてきた。彼らは、かんたんに自己処罰してしまう。自分を上手につくろうことのできる自我が希薄だから、かんたんに傷ついてしまう。自己処罰してしまう習性を持っているから、自分で自分を傷つくところに追い込んでしまう。
同じことをいわれても、傷つく人と平気な人がいる。自己処罰の衝動を持っているから傷ついてしまうのだ。
「俺たちバカだから」といって、低いところに立って人を見上げているから傷ついてしまう。
傷ついて、「くだらな」という。
それは、アイデンティティが壊れて傷ついているのではない。彼らに、アイデンティティなどない。アイデンティティが希薄だから傷つくのだ。
彼らは、アイデンティティ(自我)を獲得することによって救われるのではない。アイデンティティ(自我)が消えてゆくことによって救われる。だから、ときには、手首を切ってしまう。彼らは、傷つくまいとする自我が希薄だから、かんたんに傷ついてしまう。
自己処罰して消えてゆくことが、彼らの救いなのだ。
それに対してみずからのアイデンティティを後生大事に守ろうとしているものたちは、傷つかない。傷つくまいとして混乱し、サディスティックになっているだけのこと。そうして、傷つかないで自我を守ろうとしながら、「くだらない」という。彼らは、自己処罰をしない。それは、自我を守ることに汲々として、世界や他者にときめいていない、ということだ。
彼らの「知能」よりも、「俺たちバカだから」という若者たちの自己処罰のほうが、ずっと人間として高度で根源的なのである。