祝福論(やまとことばの語源)・「かわいい」21・くはし3
古代人が「くはし」といった感慨は、一般的にいわれている「こまやか」というようなことじゃない。
「くはし」という音声がこぼれ出るカタルシスがあったのだ。そしてそれは、もっと単純で具体的な体験であると同時に、もっと深く豊かな感慨や意味がこめられている。
ただ単純に末広がりで先が細いかたちをしたものを「くはし」といったときにでも、そこには、それなりにせっぱつまった彼らの世界観がこめられている。
いまどきのやまとことば研究の学者たちが、古代人のそういう心の動きに推参できているだろうか。
彼らのようなIQの高い連中には無理だ。
言葉が生まれてくる契機は、「おれたち頭悪いから」と嘆き、「自分はここにいてはいけないのではないか」と問いつつみずからの「けがれ」を自覚しているものたちにしかわからない。
中西進氏らの学者たちはことばをもてあそぶことは達者だが、だからこそ、「うっ」と息がつまるような、ことばが生まれてくる契機としてのものぐるおしい体験はない。そういうことは、われわれ頭の悪い人間の領分なのだ。
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「かはゆし」の「ゆ」は、「なってゆく」こと。「なる」というかたちで終わるのではなく、なってゆくひとつの状態のこと。
古語としての「かはゆし」は、かわいそうになってゆくこと、恥ずかしくなってゆくこと。
水が湯(ゆ)になってゆく。「湯になる」のではない。「湯になってゆく」のだ。「なってゆく」ものを、「ゆ」という。
温まってゆく水という意味での「湯(ゆ)」ということばは、世界中のどこにもない。中国の「湯(たん)」は、「スープ」という意味である。中国人も西洋人も、温まってゆく水のことは、温まってゆく水(ボイルド・ウオーター)という。「ゆ」という名称はない。彼らは、温泉の「湯(ゆ)」とはいわない。温泉の「水」という。
「なってゆく」という感慨は、遠い水平線を眺めてだんだんわからなくなってゆき、ついにはその先はもう何もないと納得してゆく心の動きからから生まれてきた。地平線の向こうから人がやってきて地平線の向こうに出かけてゆくことのできる歴史を歩んできた大陸の人々には、そういう体験がない。だから、「なってゆく」=「消えてゆく」という感慨もない。
彼らは、永遠に「なり続ける」ものを美しいと思う。したがって、「なってゆく」という感慨が生まれにくい。「なり続ける」ものは、「なってゆく」とはいわない。やがて終わるから、「なってゆく」というのだ。 この国では、消失点のある「なってゆく」ものを美しいと思う。
「湯」は、百度以上にならないし、百度になったら蒸発して消えてゆく。そういう「くはし」のかたちに対する感慨から、「湯(ゆ)」ということばが生まれてきた。
「かはゆ」ということばは、やがてはかなく消えてゆくものに対する愛惜から生まれてきた。
われわれは、そういう「愛惜」をこめながら、「どうせ」といっているのであり、そこのところが、外国人はわかってくれない。
未来を忘れて「今ここ」を愛惜する感慨から、「くはし」という言葉が生まれ、「どうせ」というつぶやきになっていった。
末広がりで先が細い富士山のかたちこそ、もっともみごとに「くはし」というこの国の美意識を体現している。だから、日本一の山だという。風呂屋のペンキ絵といっしょじゃないかと強がっても、じっさいに新幹線の窓から眺めれば、すでに心は圧倒され浄化されてしまっている。
ちなみに、正月に食う「慈姑(くわい)」という芋も、三角錐の先が細くなっているかたちからそう名づけられたのだろう。あんなもの、美味くもなんともない。ただかたちがめでたいだけなのだ。
姑(しゅうとめ」を慈しむ、と書いて「慈姑(くわい)」という。先に死んでゆく人を慈しんでまいとし正月になると嫁が煮るのだろうか。
古代の「くはし」という感慨は、先が細くしだいに(物性が)消えてゆくかたちを「くはし」と呼ぶというかたちで、ずっと今日まで受け継がれている。「末広がり」ということばは、われわれでも使う。
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中西進氏は、古代人の「くはし」という美意識は現代人とは無縁のものだといっておられるが、そんなことはない、それは、今なおこの島国の住民の美意識として、その痕跡をとどめている。
いまどきの若いギャルたちのあいだに広がる「消えてしまいたい」という自傷行為だって、ひとつの「くはし」という美意識の痕跡なのだ。
富士山が日本一の山だといったり、ギャルが「かわいい」といってはしゃいだり、正月に「くわい」という芋を食ったりすることも、みな古代人の「くはし」という感慨の痕跡にほかならないのであり、日本列島の住民がそんなにもその姿に愛着するのは、それほどに深く「自分はここにいてはいけないのではないか」という感慨を心の底に抱えているからだ。
若者たちのそういう心の動きに気づかずに、というか、彼らのそういう心の動きをさげすみながら「ここ」に居座って自分の正当性ばかり吹聴して自我の安定に躍起になって生きている大人たちが、しかしまああまりに多すぎる。
彼らは、アイデンティティの危機に陥ると、とたんにサディスティックになって自分を守ろうとしてくる。彼らには「自分はここにいてはいけないのではないか」という思いはなく、自分こそ「ここにいてもいい」存在であると居直ってきやがる。
大人たちのそういうサディズムが、いまどきの若者たちを追いつめている。
サディズムとは、アイデンティティを守ろうとする衝動である。だから、西洋にはサディストが多く、自我の薄い日本列島の住民には少ない。西洋(近代)かぶれしたいまどきの大人たちは別にして。
いまどきの自我の薄い若者たちは、「自分はここにいてはいけないのではないか」という問いからついに逃れることができないまま、ときには「消えてしまいたい」と思ったりしながら、ひたすら「かわいい」とときめいて生きている。
それでいいのだ。それこそが、「くはし」の美意識であり、人間はそのように思うようにできている。
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行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず……子供が大好きだったおもちゃを捨ててべつの遊びに熱中してゆくのは、おもちゃを捨てると同時に、そのおもちゃが好きな自分を捨てる(壊す)という心の動きでもある。
そうやって人は変わってゆく。そうやって人の心は流れてゆく。
子供は、自分を壊しながら成長してゆく。
「自我(アイデンティティ)を確立せよ」などといってはいけない。子供は、自我が薄いからこそ、自分を壊しながら成長してゆくことができるのだ。
それに対して大人たちは、自分を壊す、ということができない。
いまだにビートルズが好きだった自分を壊せないでいる。いまだにガンダムに熱中していた自分にしがみついていやがる。いまだに吉本隆明やら柄谷行人を卒業できないでいる団塊世代もたくさんいる。団塊世代でなくとも、知識自慢の大人たちはたいてい、フーコーやデリダを語れば自分の知性を披瀝できるつもりでいやがる。
あなたたちが吉本隆明や柄谷行人やフーコーやデリダを得意満面に解説してみせるということは、そうした知識人の言説にに熱中していた自分を後生大事に抱え込んでいる、というだけのことだ。あなたたちは、自分を壊しながら思考を先に進める、ということができない。
そんなふうにあれこれの知識人の言説を引用し解説することばかりやりながら自分の文章を飾り立てている人たちがいる。
そんなことをして気取って見せても、自分を壊せない肥大化した自己意識が透けて見えるばかりだ。
そんな肥大化した自己意識の持ち主どうしが寄り集まり、そのリーダーにおさまっているのが、いまどきの知識人という人種らしい。
フーコーだろうとガンダムだろうとビートルズだろうと、同じことだ。あなたたちは、いまだにそういうものに熱中していた自分に執着しているだけで、自分を壊して生きるということをしてこなかった。いまどきの大人なんか、おおかたそうした自我意識の肥大化した連中ばかりだ。
自分を壊しながら生きてきた、という「喪失感」がないのだ。
いまどきの若者たちのような、壊れながら生きてきた、という「喪失感」がないのだ。
大人たちが若者と共有できるものがあるとすれば、そういう「喪失感」しかないはずだ。
そういう「喪失感」のない大人たちが、彼らを追いつめている。
リストカットとか人格障害とか、いまどきの子供たちが病んでいるとすれば、そういうところに大人たちが追いつめているからだ。
精神を病んだ若者に対して、生まれつき脳に欠陥があったとか、そんな非科学的で虫のいいことをいうな。おまえたちが追いつめたのだ。それはもうどうしようもなくそうなのであり、その過失は、受け入れるしかない。自分を壊して受け入れるしかない。
自分を壊して受け入れることを避けながら、そうした子供は生まれつき脳に欠陥があったからだ、などといって自分を守ろうとするな。
精神を病んだ当の若者だって、けんめいに大人や親を受け入れようとしているのだぞ。幻滅しつつ、それはもうしょうがないことだと和解しようとしている。いったん大人に幻滅している自分を壊して、受け入れ和解しようとしている。
子供は、親を受け入れ和解しなければ生きられない。自分がブスであることや病弱であることや家が金持ちでなかったことなどはつまるところ親のせいなのに、それでも自分に与えられたその事実を受け入れ和解しようとしている。
大人だけが、勝手な理屈をこねて自分を守ることばかりしている。
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子供がだめになってしまった、と嘆く資格なんか大人にはない。嘆く前に、子供はかわいい、とときめいてゆくことがなぜできない。
子供がだめになったと嘆いて、子供を追いつめるな。
正しくないものや賢くないものは何もかも否定しにかかるおまえらのほうが、はるかに醜悪だ。
正しくなくったって、かわいければそれでいいではないか。
いまどきのコギャルが「かわいい」とときめいている「なんちゃってファッション」は、そういうコンセプトなのだぞ。それは、おまえらよりずっと志が高い精神なのだ。
彼女らは、正しさや賢さにひれ伏す自分を壊しながら生きている。
「自分を壊す」とは、「くはし」といって消えてゆくことだ。
いまどきの大人たちは、すっかりそういうタッチを失ってしまっている。やつらの、正しさや賢さにひれ伏しながら自分も正しさや賢さを振りかざしてゆく態度なんて、志の卑しさが丸見えではないか。
子供が鬱病や統合失調症になったっていいではないか。それは、おまえらが追いつめた結果なのだ。それだけのことさ。生まれつきの脳の欠陥なんかではない。そうやって自分たちが追いつめた結果だとかんねんし、自分を壊せば、そこからかわいいとときめく心の動きも生まれてくる。
それだけのことだとかんねんすることを、志(こころざし)、という。
われわれ大人たちは、バカなコギャルの「なんちゃってファッション」に潜む志の高さから学ぶべきことがある。
やまとことばの歴史の水脈は、そこにある。