祝福論(やまとことばの語源)・「かわいい」26・「おに」3・やつ

スピッツ草野正宗君のことばを借りれば、かわいいものとは「にせもののかけら」のことだ。
少女漫画の主人公は、現代の代表的な「かわいいもの」のひとつかもしれない。
「秘密のあっこちゃん」から「キューティ・ハニー」まで、その系譜は、「変身する」ことがセールスポイントになっている。
変身するとは、「にせもの」になる、ということだ。にせものであることのかわいさ、というのがある。
古代の神は、鬼や乞食に身をやつして人間のところにやってきた。変身の系譜は、そこからはじまっている。
身をやつすこと、すなわち変身することは、日本列島の美意識の水脈である。
そして身をやつすとは、まさに、「にせもの」になる、ということだ。
「にせもの」であることは、かわいいものであることの大切な要素である。
そして因果なことに、近ごろの主婦がパチンコに狂ったり不倫に走ったりするのも、身をやつし人間の「にせもの」になろうとする衝動であろう。
人間は、人間の「にせもの」になろうとする。そうやって人間であることから「逸脱」してゆくのが、人間なのだ。
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変身するとは、逸脱すること。
逸脱することは、人間の属性である。
生きものであることは、自然から逸脱することだ。
人間だけが自然から逸脱するのではない。啄木鳥(きつつき)が木に穴を開けて巣をつくることだって、猿が群れをつくってボス争いをしたり邪魔な個体を群れから追い出したりすることも、自然からの逸脱である。
もちろん人間は、もっと本格的に逸脱する。
家やビルを建て、朝起きたら電車に乗って会社や学校に行き、お金で買い物をし、夜になって家に帰ってきたら風呂に入ってふかふかの布団で寝る。結婚式や葬式をする。そんなこともぜんぶ、自然から逸脱する行為だろう。
しかし、そういう人間としてまっとうな行為が、「かわいい」のではない。それは、たしかに自然からの逸脱ではあるが、人間はそこからさらに逸脱して、自然に戻ってゆくということをする。
部屋の掃除もせず、風呂にも入らず、道端で寝たりするのは、自然に戻ってゆく行為である。縄文人や古代人はそうやって旅をしていたし、現代人でも、キャンプとかスポーツとか、さまざまな形でまっとうな人間の暮らしから逸脱して自然に戻ろうとしている。
ハンバーガーや牛丼などのジャンクフードの店がはやるのも、まっとうな人間生活から逸脱しようとする衝動を根源において抱えているからだろう。
「お菓子」という食い物だって、まっとうな食生活からの逸脱である。
酒を飲んで酔っ払うのも、まっとうな人間から逸脱したいからだ。
ときに人間は、まっとうな人間であるというアイデンティティを打ち捨てて、身をやつすということをする。まっとうな人間であることばかりしていたら、かわいいものも美しいものも楽しいものも生まれてこない。
人間は、人間であることから逸脱してゆく。人間のにせものになる。そうやって身をやつすことは、自然に戻ってゆくことであり、そこにこそ、かわいいものや美しいものや楽しいものがある。
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「かわいい」とは、人間のにせものになることであり、にせものにときめくことだ。
人間は、人間のにせものになろうとする。だから、セーラー・ムーンは変身する。
「自分はここにいてはいけないのではないか」と思うものは、人間のにせものになろうとする。人間が人間から逸脱しようとするのは、「自分はここにいてはいけないのではないか」と思う存在だからである。たとえ幼稚園の子供でもそういう思いを抱いて生きているから、変身する「セーラー・ムーン」や「ウルトラマン」に熱中するのだ。
人間が人間のにせものになろうとするのは、人間の自然である。まっとうな人間であり続けるのはとても不自然なことであり、そのような人間であり続けることはとてもしんどいことだし、顔つきも性格もゆがんでくる。彼らは、「自分はここにいてはいけないのではないか」と思う人間の自然を喪失している。
人間は自然から逸脱しているとか、本能を喪失しているとか、そのていどの理屈で人間を規定することはできない。人間であることから逸脱して「身をやつす」こと、すなわち「人間として」ではなく「鬼として」生きようとするのはこの国の歴史的な美意識であり、われわれは、「自分はここにいてはいけないのではないか」と思う民族である。
いや、人間なら、誰だって根源においてそういう思いを抱えながら生きている。
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ホームレスは、現代の「鬼」である。
変身するセーラー・ムーンだって、「鬼」である。
「鬼」として生きようとする衝動は、誰の中にもある。
「身をやつす」ということ。
いまどきの若者が「俺たちバカだから」といい、擦り切れたジーンズをはいたりするのは、まさに「身をやつす」態度であり、「鬼」として生きようとする態度にほかならない。
「やつす」「やつれる」というやまとことば、その「やつ」という音声の中に、人間から逸脱して「鬼」になることの感慨がこめられている。
「やつす」の「す」と「やつれる」の「れる」は、能動と受動の違いをあらわしているだけだろう。
「やつはいやな人間だ」とか「なかなかいいやつじゃないか」とか「やつら」とか、とにもかくにも逸脱している人間のことを、「やつ」という。
「や」は、「弓矢」の「や」。矢は、遠くまで飛んでゆく。遠く離れていることを「や」という。「山(やま)」の「や」。「やれやれ」の「や」。「追いやる」といえば、遠くに追い払うこと。
「つ」は「着(つ)く」「付(つ)く」の「つ」。「接着」「到達」「完了」の語義。
「やつ」とは、遠く離れてしまっていること。すなわち「逸脱」の語義。これが、語源のかたちだ。
「身をやつす」とは、人間であることや社会から逸脱することをいう。
「やつれる」とは、健康な状態から逸脱してしまうこと。
人間や社会から逸脱して鬼や乞食になることを、「身をやつす」という。それは、神の行為であると同時に、人間の根源的な衝動でもある。
人間は、人間であることから逸脱してゆく。
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1980年代に登場した「コム・デ・ギャルソン」というファッションブランドは、当時「プアルック」などとも呼ばれていた。スカートの裾をわざとほつれさせたり、擦り切れたジーンズをはいたりする傾向は、そのころからすでにはじまっている。
90年前後の「やまんばギャル」というムーブメントも、その延長上のもっともラディカルな「プアルック」として登場してきた。彼女らは、人間の「にせもの」になろうとした。にせものはかわいい、と気づいた。
とにかく、色あせたジーンズは昔から若者にはかっこいいとされていたし、もっと昔には「ばんから」などということばもあった。
若者には、社会から逸脱して身をやつそうとする衝動がある。
まっとうな社会人として「人間」になれば、それでめでたしめでたしというわけにはいかない。
「人間になる」とは、「人間であることから逸脱する」ことだ。
まっとうな人間でありまっとうな社会人であることにうしろめたさを持っていない大人は、若者と共有できるものがない。
平和で豊かな社会は、まっとうな人間やまっとうな社会人をおびただしく生産する。そうした大人たちがマジョリティになって、まっとうな人間やまっとうな社会人になることが人間であることの証しのようにされる世の中になれば、そこから逸脱してしまう若者はもう追いつめられるほかない。
とにかく、まっとうな人間であることやまっとうな社会人であることのうしろめたさを持っていない大人が多すぎる世の中なのだ。
自分がまっとうな存在であると自覚することは、まっとうでない存在を排除しようとするサディズムを持ってしまっている、ということを意味する。
大人たちが持っているそういう無意識のサディズムが社会の共同幻想となって、いまどきの若者たちを追いつめている。
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いまどきの大人たちには、「自分はここにいてはいけないのではないか」といううしろめたさがない。平和で豊かな社会は、人間から、人間であることの根源的な心の動きであるはずのそうしたうしろめたさ、すなわち人間であることから逸脱しようとする「身をやつす」衝動を奪ってしまう。
いや、げんみつには、西洋の近代合理主義に染め上げられた平和で豊かな社会では、というべきだろうか。
平和で豊かな立場に身を置くものたちに「うしろめたさ」がなければ、「うしろめたさ」を持って生きている貧しいものたちと共有するものがなくなって、社会は、どんどん階層化してゆく。
西洋社会が階層化しやすいのは、「自分はここにいてはいけないのではないか」という思いを共有する文化がないからだろう。
「ここにいてはいけないのではないか」と思うところから、神に赦されながら「ここにいてもいい」存在になろうとするのが西洋の文化であるらしい。
しかしそんな絶対的な「神=ゴッド」を持たない日本列島では、あくまで「ここにいてはいけないのではないか」と思いつつそれを共有してゆく文化の歴史を歩んできた。かつては、平和で豊かな立場に身を置くものにもそういう思いがあり、誰もがそういう思いを共有していた。
いまどきの若者たちの「ここにいてはいけないのではないか」という思いを大人たちと共有できない悩ましさや狂おしさは、「ここにいてもいい」存在であることを自覚している大人たちにはわからない。
西洋のように、若者も「ここにいてもいい」存在になることを目指す社会ならまだいい。しかしこの国の若者たちは、そんな存在になることを目指していない。日本列島の歴史の水脈に浸されて、ひたすら「こにいてはいけないのではないか」という思いを生きようとしている。そういう思いで生きることの醍醐味をすでに知ってしまっている。日本列島には、知ってしまうような歴史の水脈がある。そういう思いで生きるほかない若者が、どんどんあらわれてきている。
そういう思いで、「俺たちバカだから」といい、「かわいい」とときめいている。
それは、「にせもの」の人間になろうとする衝動だ。
にせものはかわいい、と気づいてしまった世代。
「やまんばギャル」の残したものは、今なお引き継がれている。
彼らは、人間から逸脱した「鬼」として生きようとしている。