祝福論(やまとことばの語源)・「かわいい」27・おそれ

「自分はここにいてはいけないのではないか」という思いは誰もがどこかしらに抱えている……といえば、ほとんどの女がうなずくに違いない。
男は、半分くらいだろうか。そしてその半分も、そう深くうなずいているわけではない。
男は、そういう思いを胸の底に押し込めて生きている。押し込めて忘れなければ、まっとうな社会人になれない。男として、子供のときから忘れてしまうように訓育されてきた。そういう社会の構造になっている。「男らしさ」とは、いわばそのような自尊感情にほかならない。強いとかたくましいとか賢いとか、そういうことだけじゃない、「自分はここにいてはいけないのではないか」と思わない自尊感情を持つことを「男らしさ」というのだ。社会制度的に、しらずしらずそう訓育されてゆく。大人の男であることは、そんな倒錯した自尊感情の上にアイデンティティを確立していることだ。
とすれば「女らしさ」は、「自分はここにいてはいけないのではないか」という思いを深く抱いていることにある。
「男らしさ」の制度性と、「女らしさ」の自然性。「自分はここにいてはいけないのではないか」という思いは誰の中にもあるはずなのに、まるで女の専売特許であるかのように世間ではいわれている。
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たいていの女が、男として生まれてくることをうらやましいという。男たちは、「自分はここにいてはいけないのではないか」という思いから逃れることができている。女は損だ、と思う。
しかし男たちは、「逃れることができている」のではなく、人間としての根源であるその思いを社会の制度性から奪われてしまっているのだ。
人間として生きることの醍醐味は、その思いからカタルシスをくみ上げてゆくことにある。女は、その思いを抱えているからこそ、男よりもずっと深く世界や他者にときめくことができるのであり、セックスの快楽も深い。さらには、男よりも死を怖がらない。
現代社会に生きる男は、人間がほんらいそなえているはずの「自分はここにいてはいけないのではないか」という思いを奪われてある存在なのだ。
原始人や古代人は、男も女も、そういう思いを深く抱いて生きていた。
共同体(国家)が生まれて、男たちはしだいにそうした去勢された存在になっていった。
何より、現代社会ほど人々が死を怖がっている時代もない。それは、それほどに共同体の制度性が発達した社会だからであり、「自分はここにいてはいけないのではないか」という思いが疎外されてしまう社会だからだ。
そういう思いを抱えて生きてこなかったから、またそういう思いからカタルシスをくみ上げてゆくタッチを持っていないから、いまどきの男たちは、早々とインポになったり、かんたんにうつ病になったり、死を前にして大いにうろたえなければならなくなるのだ。
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「自分はここにいてはいけないのではないか」という思いは、ひとつの「おそれ」である。
生きてあることそれ自体に対するおそれ、それは、男も女もないだろう。人間は、死ぬことの自覚を持ってしまっている。持ってしまったその瞬間から、生きてあることの「おそれ」を抱く存在になった。その「おそれ」から、「自分はここにいてはいけないのではないか」という問いが生まれてきた。
人間の根源的な「おそれ」は、大きなものとか強いものとか凶悪なものとか、そんなものに対してはたらいているのではない。自分がやがてこの世からいなくなってしまう存在であることを悟り、「自分はここにいてはいけないのではないか」と思うことにある。
人間がこの世にいてもいい存在であるのなら、死ぬはずがない。
いてはいけない存在であるのなら、生まれてくるはずがないし、誰もが今すぐ死のうとするはずである。人間は、この世にいてもいい存在でも、いてはいけない存在でもない。「いてはいけないのではないか」と問う存在なのだ。「おそれ」は、その「問い」の中にある。
いてもいい存在であっても、いてはいけない存在であっても、「おそれ」はない。答えがあるのなら、「おそれ」はない。
答えがなくて宙に浮いてしまっている存在だから、「おそれ」を持つのだ。
生きてあることは、宙に浮いてしまっている状態である。死ぬことも怖いが、生きてあるこの状態だって、そうとう気味悪い。ときどきそんな「おそれ」に耐え切れなくなって、生きてあることにさっさとけりをつけてしまいたくなる。「おそれ」に耐えてそこからカタルシスをくみ上げてゆく体力や気力を失ったら、そりゃあ、さっさとけりをつけてしまいたくなる。
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人間の根源的な感慨としての「おそれ」は、この世界の大きいものや凶悪なものに気づいて起きてきたのではない。それは、体の内がわから起こってくる感慨であり、自分が生きてあることそれ自体に対する「おそれ」なのだ。
はじめに「おそれ」があり、大きいものや凶悪なものは、その内なる「おそれ」を呼び覚ます。
われわれは、生まれてから死ぬまでのこのささやかな生にときめいて生きている。しかし大きなものや凶悪なものは、この生のスケール超えて、われわれの心をこの生の外に引きずり出す。そのとき、「ときめき」を失い、「おそれ」がむき出しになってしまう。
われわれの生は、「ときめき」を失うと、「おそれ」ばかりになってしまう。
人間は、内なる「おそれ」を飼いならして生きてある。
「おそれ」を抱えているから、「ときめき」もある。深くおそれるものでなければ、深くときめくこともない。
「おそろし」は、人間の歴史のはじまりから体験されていた感慨であり、このことばも、遠い昔からあったのだろう。
「おそれ」は、「恐れ」「怖れ」「懼れ」「畏れ」などと書く。「怖がる」とか「不安になる」とか「心配する」とか「かしこまる」とか、それぞれ微妙なニュアンスの違いがあるらしい。
「教(おそ)わる」「襲(おそ)う」「おそらく」「おぞまし」、などともいうが、これらのことばも、すべて「おそれ」の感慨の上に成り立っている。
「おそ」という音声がこぼれ出てくる感慨がある。
「お」という音声は、「おお」という驚きの表出。あとに続くことばを強調する機能にも使われる。
「そ」は、「反(そ)る」「削(そ)ぐ」の「そ」。「逸脱」「欠損」の語義。反(そ)り返ることは、もとのかたちを「逸脱」することだ。削(そ)ぎ落とされた破片は、もとのものから「逸脱」してしまっている。
「そま山(やま)」とは、木が伐採されて削げ落ちている部分がある山のこと。
「そま道(みち)」とは、山の中の木と木のあいだがまばらになっているところにできた道のこと。
「楚々(そそ)とした」の「そそ」は、目立たないとかでしゃばらないとか、存在感の薄さをあらわしている。「存在感の薄さ」というかたちで「逸脱」している。「そろりそろり」の「そ」も、「存在感の薄さ=逸脱」をあらわしている。
「おそ」とは、おおいに「そ=逸脱」していること。あるいは、逸脱していることに驚くこと。
「おそ」という音声は、ふだんの気持ちが削ぎ落とされておそれおののく感慨からこぼれ出る。平常心からの逸脱。
「襲(おそ)う」とは、相手を削ぎ落とし、逸脱させてしまうこと。
「おそらく」とは、今ここにはないよくわからないものを推測すること。
「おぞまし」とは、逸脱して尋常でないさま。
「教(おそ)わる」とは、対等の関係から逸脱して教えられる立場になること。
「おそれ」という音声は、逸脱してしまうことの恐怖や不安からこぼれ出てきた。「おそれ」とは、「逸脱」の語義。
なんにせよ、古代人の、この生が何かから「逸脱」してあることに対する感受性は、「やつす」とか「おそれ」ということばにこめられている。その心の動きに推参できなければ、やまとことばの語源には届かない。
この生は、生まれる前の無の状態からも、死んだあとの無の状態からも逸脱して、宙に浮いてしまっている。そして、死もまた、この生から逸脱してしまっている。逸脱してしまっていることの恐怖や不安から、「おそれ」ということばが生まれてきた。これが、語源のかたちだ。
また、人間なら誰しも、「わたし」自身が、この世界のたしかな「存在」から逸脱して宙に浮いてしまっている、という「おそれ」もある。
生きてあることは、そのように「逸脱」して宙に浮いてしまっていることの不安や気味悪さや恐怖を抱え込んでしまうことである。
それはもう、人間であるかぎり避けられない事態なのであり、しかしこの世界や他者にときめくという生きてあることの醍醐味も、そこから生まれてくる。
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それにしても、この不安と気味悪さに耐えて懸命に生きてある人間が、この上まだ、どうして追いつめられなければならないのか。
パチンコ狂いをしたりニートやフリーターになるなんて人間のくずだと、どうして追いつめられなければならないのか。
弱い人間、だめな人間は、耐え難いほどにこの不安と気味悪さに浸されている者たちだ。言い換えたら、本当は弱い人間でもだめな人間でもなく、耐え難いほどにこの不安と気味悪さに浸されてしまっているだけだ。人間として、生きてあることに率直過ぎるだけだ。
もっと言い換えたら、彼らほどにこの不安と気味悪さに浸されたら、誰だって弱い人間・だめな人間になってしまう。
おまえら、そういう人間になるのが怖くてまっとうな人間をやっているだけのことじゃないか。「身をやつす」というこの国ほんらいの文化を持っていないだけのことじゃないか。
人間なら、誰の中にもこの不安と気味悪さはある。この「おそれ」が息づいている。
この不安と気味悪さに追いつめられて、途方にくれたり身をすくめてしまったりしている人間は、どうして病気だとあわれみさげすまれねばならないのか。
この不安と気味悪さと「おそれ」を持っていないとしたら、おまえらこそ病気なのだ。
生きてあることの「おそれ」は、誰の中にもある。「おそれ」を感じないことが解決になるのではない。この「おそれ」からどのようにしてカタルシスをくみ上げてゆくことができるか、と問われねばならない。
直立二足歩行をはじめた原初の人類は、この「おそれ」を引き受け、そこからカタルシスを汲み上げてゆく生き方を選択した。
人間にとって生きてあることは、ひとつのギャンブルなのだ。パチンコ狂いしたりニートやフリーターになって何が悪い?それをさげすむおまえたちの頭のほうが狂っているのだ。パチンコ狂いの主婦やニートやフリーターの若者たちが抱えている生きてあることの「おそれ」は、おまえたちにはわかるまい。
弱い人間やだめな人間のこの「おそれ」は、おまえたちにはわかるまい。
自我にしがみついてばかりいてこの「おそれ」とともに生きる能力もないくせに、えらそうなことばかりいうな。
せめて、その自我=アイデンティティの危機くらい、自分の中だけで始末をつけろ。この「おそれ」とともに生きている人間をさげすむことで解決しようとするな。少しは、まっとうな人間であることの「うしろめたさ」を持て。
古来、日本列島の住民は、この「おそれ」とともに、この「おそれ」からカタルシスを汲み上げてゆく文化を育みながら生きてきた。
まっとうな人間であることのうしろめたさを持つことが、日本列島の歴史の水脈なのだ。だからわれわれは、深くお辞儀をして、つまらないものですが、といいながら贈り物を差し出す。
まっとうな人間であってはいけない、などとはいわない。しかしそのえげつないサディズムくらい、自分でなんとか始末しろ。日本列島の住民であるのなら、少しは「うしろめたさ」を持て。
弱い人間やだめな人間に向かって深くお辞儀をしてゆくたしなみが、なぜもてない、日本列島の住民のくせに。
強い人間・立派な人間・賢い人間に擦り寄っているばかりじゃないか。
このブログのコンセプトは、強い人間・立派な人間・賢い人間を「くだらな」とさげすみ返すことにある。彼らの薄っぺらな脳みそや、自我=アイデンティティにしがみついていないと生きられないそのいじましさを気の毒に思う気持ちも、多少はあるのだけれど。