祝福論(やまとことばの語源)・「かわいい」28・はにかむ

ゴルフ選手の石川遼君は、「はにかみ王子」という愛称を与えられて、現在のゴルフ人気を支えている。
そのはにかむ表情が「かわいい」と、みんながいう。
「はにかむ」ということばは、今なお有効であるらしい。
それはちょっと意外であるが、同時にとうぜんだとも思う。それはきっと、「癒し」とか「萌え」ということばとも通じているのだろう。
人間はあいまいな存在だから、そんなあいまいなニュアンスに癒されたりする。
「はにかむ」の語源をネットで検索してみたら、じつにくだらない解釈が通説になっていた。
「はにかむ」の「はに」はもともと「歯がむき出しになること」をあらわすことばで、その笑っているようないないようなあいまいな表情と似ているところからそういわれるようになったのだとか。
歯をむき出しにして恥ずかしさを噛み殺しているから「はにかむ」というんだってさ。
じゃあ、出っ歯はみんな「はにかみ王子」なのか。「にっ」と歯をむき出す恥知らずな表情だから「はに」といったのではないのか。その恥知らずな態度を噛み殺すから、「はにかむ」というのではないのか。
そういうわけで、「恥じ噛み」が転化したことばだともいわれている。
どちらにせよ、学者たちの底の浅い思考によるこじつけめいた言葉遊びにすぎない。
「はじかみ」という植物(生姜・山椒のこと)の名はあったが、「恥じ噛み」というしぐさの表現がどの文献にあるのか、あったら教えていただきたい。
生姜や山椒は、噛むとピリッとくる刺激があるから「はじかみ」といったのだろう。「はじ」とは、「いたたまれなさ=刺激」のこと。
「はにかむ」ことは、恥をそそごうといたたまれなくなることではない。「はにかむ」は、最初から「はにかむ」だったのだ。「はじかむ」が「はにかむ」に変わってゆく必然性など、何もない。べつに「はにかむ」のほうが発音しやすいわけでもあるまい。いつも「はじかむ」といっていたらいつのまにか「はにかむ」というようになっていたというなら、生姜や山椒のことも「はにかみ」というようになってゆくだろう。生姜や山椒のほうがもっと生活に密着していて、それをことばにする機会も多いはずなのに。
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「はに」という古語は、陶器の原料になる赤い土のことあらわすことばだった。
埴輪は最初、小さな煙突のようなただの円筒形のものだったのであり、「はに=赤土」でつくった「輪(わ)」だから「はにわ」といった。
ではなぜ、赤土のことを「はに」といったのか。
「は」は、「原(はら)っぱ」の「は」、「空間」「場所(スペース)」の語義。
「に」は、「煮(に)る」「似(に)る」の「に」、「沸騰」「接近」の語義。
「はに」とは、「沸騰している場所(スペース)」のこと。古代人は、陶器の原料になる赤土の場所を見て、そこだけ土が煮え立っているように感じたのだろう。顔を真っ赤にして興奮する、顔を真っ赤にして恥ずかしがる……その赤い土に、そういう気配を感じたのだろう。
陶器をつくる専門家は、土を食べて(噛んで)唾液と混ぜながらその土の粘り気を確かめる。おそらく、陶器づくりのエキスパートだった縄文人だって、そうやって陶土の質を調べていたのだろう。
というわけで、陶土の赤土を食べて(噛んで)調べることを「はにかむ」といった。
その、土を食べることの居心地の悪さに耐えて何かをじっと思っている表情が、恥ずかしさに耐えてはにかんでいる表情に似ているから、それもまた「はにかむ」というようになっていったのだ。その「はに」という音声に「恥ずかしさがこみ上げてくる」というニュアンスを感じていたから、恥ずかしさに耐える表情のことも「はにかむ」というようになっていったのだ。
「はに」ということばには、「赤土」という意味のほかに、すでに「恥ずかしさがこみ上げて顔が赤くなる」という意味もあったのだろう。いや、「はに」とは、もともと「恥ずかしさがこみ上げて顔が赤くなる」という意味のことばで、そこから派生して「赤土」のことも「はに」というようになっていったのかもしれない。
「は」は「恥ずかしい」の「は」。このときの「は」は、気持ちのよりどころを失うことの「たよりなさ=空間性」をあらわしている。「はかなし」の「は」でもある。「に」は「煮る=こみ上げる」。「はに」とは「恥ずかしさがこみ上げること」、これが語源のかたちなのだ。
その「はにかむ」という音声の語感に、そういうニュアンスがみごとにあらわれているから、この社会に定着していったのだ。語感がしっくりこなければ、ことばはどんどん変わってゆく。しっくりくるまで変わってゆく。「はにかむ」ということばが今なお使われているということは、語感のニュアンスが、しっくりと最終的なかたちになっているからだ。
歯をむき出しにすることなんか、ぜんぜん関係ない。そんな表情がはにかんでいる表情であるのでもない。あなたたち研究者が勝手にこじつけているだけの話じゃないか。
「はにかむ」という心の動きは、あなたたちが考えているよりずっとデリケートなのだ。昔の人は、あなたたちていどの雑駁な感受性で「はにかむ」ということばを生み出していったのではない。
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「はにかむ」ということばは、「恥ずかしい=SHAME」とはちょっとちがう。恥ずかしさを噛み殺す、といっても、まだ正確ではない。そこのところは、いわくいいがたい曖昧模糊としたニュアンスがある。そういうニュアンスを、われわれは無意識のうちに共有している。日本列島の住民なら、誰もが、そのあいまいなニュアンスを考えなくてもたちまち了解してしまう。
われわれは、その「はにかむ」ということばの向こうに何を共有しているのだろう。
「恥ずかしい」という感情が、恥ずかしくてここにいたくないという感情だとすれば、「はにかむ」は、その居心地の悪さに耐えている態度である。
「はにかむ」とは、今ここにあることの居心地の悪さに耐えているもののしぐさのことをいう。そのいじらしさを「かわいい」というのであり、じつはわれわれが生きてあることの根源はそういうかたちになっている。
この世の中は、死んだら楽になれるといってさっさと死んでゆく人間ばかりではない。そう思いながらもこの世にとどまっている人のほうがずっと多い。人間は、しんどい思いをしながら生きているくせに、なかなかさっさと死んでゆくことができない。それは、そのしんどさから「楽になった」という「安堵=カタルシス」をくみ上げるタッチも持ってしまったからだ。
「はにかむ」しぐさに「かわいい」とときめくとき、人は、人間であることのそういう根源のかたちが癒される体験をしている。まあささやかに、「楽になった」という「安堵=カタルシス」をくみ上げている。
人間は、さっさと死んでゆくことのできない存在だから、「はにかむ」しぐさに「かわいい」とときめいてしまうのだ。
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定住民は、ここにいたくないと思っても、ここにいるしかない。
生きてあることはしんどいことで、ときには「ここにいたくない」と思ってしまうが、さりとてそうかんたんに死ぬことが実行できるわけではない。
死んだら楽になれるが、死んだあとに「楽になった」という安堵を味わえるわけでもない。
「楽になった」という安堵を味わいたければ生きているしかない。
「楽になった」という安堵を味わいたいから、苦しくなってしまうのだ。
われわれはもう「楽になった」という「安堵=カタルシス」を知ってしまった。
息をすることは、息苦しさから楽になることだ。二本の足で立ってじっとしていれば不安定でとても居心地が悪いが、そこから歩き出せば、その居心地の悪さなんかすっかり忘れて、足が勝手に前に進んでいってくれる。
生れ落ちた人間の赤ん坊は、この世界の不可解さとみずからの無力性におそれおののいて、「おぎゃあ」となく。だからこそ、お母さんのおっぱいにありつけたときの「安堵=カタルシス」もひとしおのものが体験される。
生まれてすぐに自分からおっぱいにしがみついてゆくことのできるほかの動物の赤ん坊は、人間の赤ん坊ほど無力ではないからこそ、人間の赤ん坊ほどの「安堵=カタルシス」は体験できない。
人間は、そういう「楽になった」という「安堵=カタルシス」をすでに知ってしまった存在だから、なおさらに苦しさを感じ、苦しさに耐えられなくなる。
人間を生かしているのは「楽になった」という「安堵=カタルシス」であって、生き延びようとする「本能」などというものではない。生きものの生に、「本能」などというものはない。生き延びようとする衝動、などというものはない。
「楽になりたい」という願いがあるだけだ。
だから、息苦しければ息をするのだし、死んでしまうことが楽になることだと思えば、みずから死んでしまおうともする。この生の中ではもう楽になることがえられないと絶望してしまえば、そうするしかない。
しかし、死んでしまえば、「楽になった」という「安堵=カタルシス」は体験できないのである。そのことがわかるから、かんたんには死ねない。そして、ときに体験できるかのような倒錯した思いに浸されるから、その行為が実行できる。
あの世とか、天国とか、極楽浄土とか、輪廻転生とか、そんなものがあるのなら、そこできっと「楽になった」という「安堵=カタルシス」を体験できるにちがいない。
とはいえ、われわれ日本列島の住民に、そんなものを無邪気に信じていくことのできる心の動きがあるだろうか。われわれの「かみ」は、天国など約束してくれない。死んだらわけのわからない「黄泉の国」に行くだけだ、と教えてくれているだけである。縄文人や古代人はもう、まるごとそう思っていたし、その思いは今なおわれわれの心の底に痕跡をとどめている。
死んだら「黄泉の国」にいくだけだ、と思っているものたちは、生きてあることのかなしみや苦しみとともに、それでもなお今ここに生きてあるしかないし、そこから「かわいい」とときめいてゆくカタルシスも知っている。そういう体験を共有しながら日本列島の住民は、「かわいい」や「はにかむ」ということばを生み出してきたのだ。