祝福論(やまとことばの語源)・「かわいい」29・いたたまれない

われわれは、どこかでこの生にけりをつけて死んでゆかねばならない。
「けりをつける」というトレーニングは、しておいたほうがよい。
「生き延びる」技術や意欲ばかりで生きていたらあとで痛い目にあうし、その今を生きる姿そのものが醜悪になってしまう。
現在は、そうした醜悪な大人がたくさん寄り集まって自分たちを正当化してゆく社会が出来上がっている。
彼らは、自分たちの醜悪さに気づいていない。醜悪なものどうしが寄り集まって自分たちを正当化し合っていれば、気づくはずもない。
たとえばサッカー日本代表の岡田何某という監督が、チームの状態がこんな体たらくになって圧倒的多数のサポーターからのブーイングを浴びてもいまだにやめようともせず、サッカー協会側もやめさせようとしないのは、現在のこの国の象徴的な現象である。
小沢とか鳩山とかいう権力者がいっこうにやめようとしないのも同じこと。
彼らは、自分たちがいかに醜悪かということに気づいていない。自分は正当であると信じ、必死で自分の正当性を守ろうとしている。
共同幻想とは、自分のことばかり考えている連中が、自分のことばかり考えていることを正当化しあってゆく心の動きをいう。そこでは誰もが、お国のためチームのためというスローガンを掲げている「自分」に執着し、そういう態度を正当化しあっている。
とくにあの監督は、正気とは思えないくらいすでに自分の正当性に憑依してしまっているから、あきれるくらい自分の醜悪さに気づいていない。まわりのサッカー協会の連中も、気づくまいとしている。なぜなら、あの監督の醜悪さに気づくことは、自分自身の醜悪さに気づくことだからだ。
サポーターという第三者だけが、もううんざりしている。
監督が意地汚く自己正当化して人格者ぶることばかりしているから、選手だって、たいして上手くもないくせにスターぶることだけはいっちょまえでいやがる。そんなところから、ゲームに対するひたむきなプレーなんか生まれてくるはずがない。
ここにも、自分の醜悪さに気づいていないものたちの集団がある。
監督も選手も自分を正当化してよく見せようとすることばかりしているから、ゲームに負けることに対する「おそれ」がない。負けりゃいいわけすればいいと思っていやがる。
あの監督は、チームが負けそうになると、ゲームのことなんかもう上の空で、試合後のインタビューのいいわけばかり考えているんだぜ。だから、終盤のあの采配の下手くそなこと、試合後のあのいいわけコメントのお上手なこと。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
大人たちの醜悪さは、若者や子供という第三者が気づいている。
若者や子供がいかに深く大人たちに幻滅しているかということを、大人たちは気づいていない。気づこうとしない。
子供たちの学ぼうとする意欲が希薄になり学力が低下している、と嘆いている大人たちは多い。
大人たちは、自分たちの子供のころに比べて現在は子供の質が劣化している、という。
そうやって自分を正当化するしか能のない大人ばかりだ。
子供が学ぼうとしないのは、それだけ深く大人たちに幻滅しているからだ。それだけのことさ。いつの時代でも、人は、敬愛する相手からしか学ぼうとしない。
おまえらがそうやって、自分を正当化することばかりに固執して、子供をさげすむことばかりしているからだ。
おまえらがそんな態度をとるなら、子供だってさげすみ返すしかないじゃないか。
自分がいかにろくでもない人間かということに対する自覚がなさ過ぎるんだよ。
この生がいかにあいまいでろくでもないものかという自覚がなさ過ぎるんだよ。
おまえらが、「誰もがかけがえのない命を生きている」などといいながら人間の生そのものを正当化したがるのは、それほどに「自分」を正当化したがっているというだけのことなんだぞ。
人間の生なんかろくでもないものだし、ろくでもない命を生きているといういたたまれなさは、人間なら誰だってどこかしらに抱えている。
そういう「いたたまれなさ」を人と共有できないのなら、そりゃあ子供や若者に幻滅されるさ。
人と人がときめき合うとは、生きてあることの「いたたまれなさ」を共有しあう、ということでもあるのだ。
おまえらが賢い人格者であることなど、子供にとっては、なんの値打ちもないのだ。
この「いたたまれなさ」は誰の中にもあるのだと納得できたとき、はじめておまえらのとの関係を生きようとするのだ。
おまえらにそういう自覚がないから、彼らは、それを共有している同世代の者たちとしか関係できなくなってしまうのだ。
おまえらが、子供に対してときめいていないから、幻滅し返されるのだ。
自分を正当化することなど忘れて他者にときめいてゆくということが、なぜできない。そうやって、自分をよく見せようとすることばかりしているのだもの、幻滅されるはずさ。
というか、そういう態度で追いつめてこられると、子供たちははもう、幻滅することでしか自分を守るすべがない。
その、自分をよく見せようとする態度が、子供たちを追いつめ、子供たちから幻滅されているのだ。
彼らがなぜそんなにも自分をよく見せることにあくせくするかといえば、「自分にけりをつける」ということができないからだ。「この生にけりをつける」というトレーニングができていないのだ。
自分にけりをつけて他者にときめいてゆく、という体験ができない人たちなのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
われわれは、「自分はここにいてはいけないのではないか」という「いたたまれなさ」を抱えて生きている。
人間を生かしているのは、「楽になりたい」という願いである。
「生き延びようとする本能」などという俗っぽいスケベ根性ではない。
われわれは、必ず死んでしまう。そういう生き延びることの不可能性を背負って、現世という宙ぶらりんの世界におかれている。
だからわれわれはもう、たえず「自分はここにいてはいけないのではないか」と問いながら生きてゆくしかない。
そういう生きてあることのいたたまれないような思いは、誰の中にもあるだろう。人間とは、そういう生きものだ。
人間という猿にとって、二本の足で立ってじっとしているのは、いたたまれなさを抱え込んでしまう姿勢である。
しかし、そのいたたまれなさを味わいつくすことによって、歩いてゆくことが「楽になる」というカタルシスになる。
もしも原初の人類が、そのいたたまれなさを味わいつくさなかったら、人間特有の「歩き続ける」という直立二足歩行の醍醐味を獲得することもなかった。
日光猿軍団の調教師に聞いてみればいい。猿は、立ち続けることのできる姿勢を獲得することによって、はじめて歩き続けることができるようになるのである。
種の習性としてこの姿勢を持っているのは人間だけであり、人間だってこの姿勢を後天的に獲得してゆく。
這うことも立つこともできない無力な存在として生まれてくる人間の赤ん坊は、無力な存在であることのいたたまれなさを味わわいつくしたのちに、ようやく這い這いを覚え、二本の足で立って歩くことを覚えてゆく。
人間の歴史も、われわれの人生も、「いたたまれなさ」を味わいつくすことからはじまっている。
いたたまれなさを味わいつくせば、世界は輝いて見える。
生まれてはじめて二本の足で立ち上がった赤ん坊は、ほんとにうれしそうな顔をする。
人間の赤ん坊が二本の足で立ったままでいる姿勢を自然に自発的に獲得してゆくことができるのは、それまで無力であることのいたたまれなさを味わいつくしてきたものとして、その視界の変化に世界の輝きを体験しているからである。
立ち上がったことがうれしいのではない。世界の輝きにときめいているのだ。
立ち上がったことの不安定感は、それなりにいたたまれないことでもあるが、彼はすでに、いたたまれなさとともに生きることと和解している。
小学生が二輪車に乗ることに何度も何度も失敗しながらその絶望的な状況からやがてなんとか乗りこなせるようになってゆく過程は、まったく感動的である。
人は、若ければ若いほどいたたまれなさと和解している。
若さとは、生きてあることのいたたまれなさと和解していることである、と言い換えてもよい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
若者は、家族の中に置かれてあることのいたたまれなさを味わいつくしたのちに、家族から離れ、恋や友情にときめいてゆく。
いたたまれなさを味わい尽くせば、世界は輝いて見える。腹が減れば、何を食っても美味い。
腹が減る体験を忘れて食うことばかり考えるようになったらもう病気だろうし、老人ボケのはじまりだ。いや、若くても過食症というのはあるわけで、いずれにせよそれは、「いたたまれなさ」を心の奥に封じ込めてしまったことの結果だ。
「いたたまれなさ」を封じ込めて生きさせる社会なのだ。
「かけがえのない命」などというスローガンにこだわっていたら、空腹のいたたまれなさも感じることができなくなってしまう。すなわち「自分」という幻想を生きるためには、「いたたまれなさ」は感じないようにしなければならない。
「いたたまれなさ」は、自分を忘れるための装置である。それによって意識が自分から離れ、世界の輝きに気づいてゆく。
「いたたまれなさ」を味わいつくしてそれにけりをつけてゆくことが、生きてあることの醍醐味である。赤ん坊が二本の足で立って歩きはじめるとは、そういうことだ。
「いたたまれなさ」を感じないようになることではない。そんなになって過食症やボケ老人になってもしょうがない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この生のいたたまれなさを感じていないから、いまどきの大人たちは醜悪なのだ。
そしてそういう醜悪な大人たちや、そういう社会的な合意という制度性から追いつめられて、年間3万人もの人がみずから死んでいっている。
自殺にもいろいろあろうが、いい気になってこの生の「いたたまれなさ」を否定して生きている大人たちの、やれ「かけがえのない命」だの「自我の確立」だのというスローガン(社会的合意)から追いつめられている人たちがいる。
それは、若者たちだけの話ではない。自分自身が、そういうスローガンで生きてきて、病気とか借金とか人間関係とかの最後の段階になって、みずからのそのスローガンに追いつめられれてしまうという場合がある。
いたたまれなさとともに生きてあるものは、いたたまれなさを否定して生きているものたちのその自分をよく見せたがるというスケベ根性に追いつめられている。そのエゴイズム、そのサディズムから追いつめられている。
自分をよく見せたいとは、ようするに相手が劣等感を抱くほかない状況をつくろうとする態度であり、そうやって人を追いつめてゆこうとするサディズムにほかならない。「他者の承認を得たいからだ」ときれいごとをいいながら、そのじつそうやって相手をいたぶっているのだ。
社会が安定し停滞してくると、いたたまれなさを否定して生きている人たちのエゴイズムやサディズムがあからさまになってくる。
そうして、自殺が増える。
ほんとに体の機能が絶望的な状況になってしまったら、みずから死を選ぶのもやむをえない。しかしその場合でも、「いたたまれなさ」と和解している人間としての意識も解体しなければ、その行為を実現することはできない。
解体している人は、あんがいかんたんに死んでゆける。
いい気になって解体して生きている連中のこれ見よがしの態度から、追いつめられ解体させられてしまうのだ。
安定して停滞した社会では、この生の「いたたまれなさ」と和解している心が解体されてしまう。それさえ解体できれば、あなたもいい気になって生きてゆけるし、あんがいかんたんに自殺してしまうこともできる。
安定して停滞した社会では、いい気になってこの生の「いたたまれなさ」を否定し生きている人間のエゴイズムとサディズムが顕在化してくる。彼らの生き延びようとする意欲の強さは、生き延びる能力の希薄なものたちを追いつめる。「いたたまれなさ」とともに生きているものたちは、存在そのものにおいて、彼らのアイデンティティを侵害している。彼らのアイデンティティが正当化され生き延びるためには、「いたたまれなさ」とともに生きている者たちのその態度を責めて抹殺しなければならない。つまり、社会全体がそのような構造になってきて、自殺者が増えてゆく。
生きてあることの「いたたまれなさ」と和解しているかぎり、人間は、そうかんたんにみずから死を選ぶということができない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人間がどこまでこの生の「いたたまれなさ」を味わいつくすことができるのか、ということは、僕のようなのうてんきな人間にはわからない。
だから、いたたまれなさの果てにみずから死んでゆく人を否定することはできないし、どれほどいたたまれなさを味わいつくしてもまだ死んでゆくことができなかったりするのも人間だろうと思う。
言い換えれば、この生の「いたたまれなさ」を感じているあいだはまだ大丈夫だ、ということだろうか。それこそが、生きてあることの、人間であることの証しなのだから。
「いたたまれなさ」を忘れて呆けてしまった瞬間に、自死が決行されるのかもしれない。
僕は、「楽に生きている」人間よりも、「楽になりたい」という願いを持っている人間を尊敬する。
人間は、楽に生きてゆくことなんかできない。人間にとって「楽になる」ことは楽になれない生の「はざま=裂け目=すきま」における体験にほかならない。
2月14日は、旧正月元旦であったらしい。
日本列島の住民は、冬と春のはざまの「正月」という祭りに盛り上がってゆく。
「自分はここにいてはいけないのではないか」といういたたまれなさとともに生きている民族だからこそ、そうした「はざま=裂け目=すきま」に浄化作用(カタルシス)を見出してゆくことができる。
それは、たんなる一年のはじまりではない。去年一年のこの生の「けがれ」にけりをつけて新しく生まれ変わる「みそぎ」なのだ。
そのへんが、「ハッピー・ニュー・イヤー」とはちょっと世界観も身体感覚も違う。
この国では、どこかのバカギャルだって、正月になれば何か生まれ変わったような気分になっている。
そうやって、この生にけりをつけている。この生にけりをつけることが、生きることであり、生きることのカタルシスなのだ。
ある種の人々にとっては、生き延びようとする衝動がみずから死を選ぶ契機になっている。その「殉死」という行為は、天国まで生き延びるためのもっとも有効なパスポートになる。
生き延びようとする生命力という名の制度的欲望よりも、生まれ変わったような気分のカタルシスが、この国の人間を生かしている。
「かわいい」とときめくとき、彼女らは、生まれ変わったような気分になっている。
人間を生かしているのは、「みそぎ」のカタルシスであり、生まれ変わったような気分になれれば、ひとまず死を選択することは回避されている。
言い換えれば、生まれ変わった気分になれなければ、生きてゆくことはできない。
なんにせよ、このいたたまれない生における「楽になりたい」という願いが、人を生かしもし、死に向かわせもしている。