祝福論(やまとことばの語源)・「かわいい」30・けりをつける

「けりをつける」という心の動きは、日本列島の歴史の水脈である。
さっぱりと忘れてしまうこと、終わってしまうこと、消えてしまうこと。
「けりをつける」とは、「楽になる」ということ。
「楽になりたい」という願いが人間を生かしている。
人間は、勝手にしんどいことの中に身を投げ入れ、そこから「楽になりたい」という願いをつむいで生きてゆく。
「楽になる」ことのカタルシスが人間を生かしている。
「けりをつける」ことは、相手を抹殺してしまうことか、相手のことなんか忘れてしまうことか、自分がさっさと消えてしまうことか。
抹殺することも忘れてしまうこともできないなら、自分が消えてゆくしかない。
だから昔の人は、深く深くお辞儀をした。
日本列島における「けりをつける」ことは、「消えてゆく」ことだった。
何はともあれ自分も世界も「消えてゆく」ことにカタルシス(浄化作用)があった。
そして「消えてゆく」ことは、新しいものが「出現する」ことでもあった。
季節も自分も消えてゆき、そして生まれ変わる。
日本列島の住民は忘れっぽい民族だ、という。しかし忘れるということは、新しい何かに気づく、ということなのだ。
新しい何かに気づく醍醐味を知っているから、忘れっぽいのだ。
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まあ団塊世代は新しい何かに気づく醍醐味を知らないから、やれビートルズだ、やれ自分たちの青春はすばらしかった、あの時代はよかっただのと自慢したがる。
自分にうんざりするということを知らないから、生まれ変わる醍醐味も知らない。
いつまでたっても生まれ変わることのできない連中なんだよね。
つまり彼らは、自分や時代を対象化して乗り越えてゆくということをけっきょくできないまま死んでゆく人たちだ、ということ。
今の子供たちより「三丁目の夕日」を眺めていた子供のほうが純粋だった、てか?
笑わせるんじゃないよ。
子供は、いつの時代も子供さ。
若者は、いつの時代も若者さ。
優劣なんかあるものか。ただ、「自分よりも他者のほうがたしかな人間のかたちをしている」という問題があるだけだ。
そうやって差別的な目で見ることばかり熱心で、「自分よりも他者のほうがたしかな人間のかたちをしている」という視線を持っていないから、思考停止に陥って、いつまでたっても生まれ変われないのだ。
誰にとっても、「自分」なんかみすぼらしい存在なのだ。
日本列島の深くお辞儀をする文化は、「自分よりも他者のほうが人間としてたしかなかたちをしている」という感慨とともに「消えてゆこうとする」文化である。
団塊世代はそういう「消えてゆく」というタッチを持っていないから、子供や若者から幻滅されるのだ。
おまえらは、歴史上もっとも若者や子供から幻滅された世代なんだぞ。
そんな大人たちへの幻滅から、いまどきのギャルの「かわいい」とときめいてゆく心の動きが生まれてきた。
自分の青春を熱く語っている場合じゃないだろう。自分の魅力を自慢している場合じゃないだろう。
自分をよく見せようとすることばかりに勤勉な、そんなご立派な大人たちとの関係にけりをつけて、新しい「にせもののかけら」の出現にときめいてゆくこと、それが、彼女らの「かわいい」というタッチである。
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海に閉じ込められてあるこの狭い島国では、閉塞感はいつもついてまわる。われわれは、海の上を歩いてゆくことはできない。死を知ってしまった人間にとって生きてあること自体に閉塞感はともなうものだが、日本列島の住民は、この閉塞感から逃れるすべとして、この島国から出てゆくイメージを持つことを禁じられている。縄文時代以来、われわれはそういう無意識を抱えて歴史を歩んできた。われわれの解放感は、広い世界に出てゆくことではなく、今ここの新しいものの出現にときめいてゆくことにある。この狭い島国に閉じ込められて生きていれば、そういうかたちでしか解放感を得るすべはなかった。
新しいものは、冬が終わって春が来るように、世界が完結し終息する(けりをつける)ことによって出現する。
今ここの世界が完結し終息することと新しい世界の出現と出会うこと、日本列島においては、時間と空間の裂け目におけるこの二つの体験がセットになってカタルシスがもたらされる。
春の終わりがそのまま夏のはじまりであるように、老人が死んでゆくことと赤ん坊が生まれてくることは、ひとつのセットになっている出来事である。これが、日本列島の歴史的な世界観である。
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原初の人類が二本の足で立ち上がったという事態は、四足歩行の姿勢で体をぶつけ合って行動していたときのうっとうしさと停滞した気持ちが終息し、目の前に新しい世界が出現していることを感じる体験だった。
二本の足で立ち上がれば、他者の身体とのあいだに隙間の空間が生まれて、体をぶつけ合わずにすむ。そうして不安定な姿勢のままたがいにに弱みをさらし合うことによって、他者に対するときめきが生まれた。つまり四本足で自分の領分を主張しあっていたのが、二本の足で立って、誰もが自分の領分を狭くしていった。そうして、他者や世界にときめくという新しい事態が出現した。
そのときまで人類は、直立二足歩行するような体型へと徐々に進化してきていたのではない。四足歩行の猿の体型のまま、二本の足で立ち上がったのだ。
そのとき人類は、密集しすぎた群れの中にあることのうっとうしさにけりをつけ、新しい事態の出現にときめいた。
それは、「進化」ではなく、「事件」だったのだ。
今でも人類は、直立二足歩行の種として進化してはいない。われわれはその姿勢を、後天的に獲得するのだ。
つまりその能力は、時間の流れとともに進化してきたのではなく、時間の「はざま=裂け目=すきま」から出現するひとつの「出会いのときめき」として獲得されたのだ。
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何度でもいう。
人間を生かしているのは、「生き延びようとする衝動」ではない。
人間を生かしているのは「楽になりたい」という願いであり、「楽になった」というカタルシスなのだ。
人間は、根源的に「けがれ」を負って存在している。
直立二足歩行とは、四足歩行の「けがれ」をそそぐ行為だった。そして二本の足で立っている姿勢そのものが「けがれ」を負ってゆく姿勢であり、原初の人類は、その「けがれ」をそそぐ行為として、歩き続けるという習性を身に付けていった。
「けがれ」を自覚し、それをそそいでゆくのが生きるといういとなみなのだ。
「楽になりたい」という願いは、「けがれ」の自覚である。
原初の人類の直立二足歩行は、「終わり」と「はじまり」、あるいは「(けがれの)消失」と「(みそぎの)出現」が同時に起こっている「裂け目」において見出されていった。人間は、根源的にそういう視点を持っている。
生きるとは、そういう「裂け目」を見出してゆくいとなみなのだ。
正月は、冬と春の「裂け目」の祭りである。収穫祭は、秋と冬の裂け目である。
人類の「祭り」は、そういう「裂け目」を祝福してゆくいとなみとしてはじまった。
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つまり僕は、こういいたいのだ。
「かわいい」とは、「終わり=消失」と「はじまり=出現」が起きている「裂け目」に気づくことだ、と。
そしてそれこそが、日本列島の住民のカタルシスのかたちであり、そういうタッチをいまどきのギャルは無意識のうちにそなえているし、そういうこの国固有の歴史的な感性だから、異質な文化風土の西洋のギャルがそれに憧れつつも今ひとつ体得できないでいるのだろう。
しかしじつは、そういう何かかが「消失」して何かが「出現」するカタルシスこそが人間を生かしているのだ。
人間は、根源的にそういう視点を持っている。
だから、西洋のギャルも、「かわいい」に憧れる。
「ポスト・モダン」とか「グローバリゼーション」とか、そうした現代世界のスローガンが行き詰まりを見せているのは、もう、生きものは「生き延びようとする衝動」で生きている、という理解ではこの生を説明できなくなってきているからだろう。
「命は大切(=価値)である」という社会的幻想では、人間の根源は説明できない。
そうしたスローガンより、いまどきのコギャルの「なんちゃって」精神のほうがずっと人間の根源に届いている。
人間は、「楽になりたい」のであって、「価値を欲望する」のではない。価値から逸脱して、「楽になりたい」のだ。「生き延びたい」のではなく、「楽になりたい」のだ。
そうした「社会的価値」から逸脱してゆく彼女らの「なんちゃって」精神から学ぶべきことがある。
「命の大切さ」とか「知能」とか「人格」とか、大人たちが抱いているそんなあれこれの「社会的価値」にけりをつけてしまうこと、そこから新しい何かが出現して、彼女らは「かわいい」とときめいている。