祝福論(やまとことばの語源)「かわいい」31・日本辺境論だってさ

文体がどうのといっても、口先だけで人をたらしこんでいるだけじゃないか。そういう人間に、いっぱしの人格者ぶったきれいごとを並べられると、ほんとにうんざりする。
そういうかっこつけたもの言いに、ころりとだまされる人間がたくさんいる。
社会=共同体とは、人がそうやってかんたんにだまされる集団のことをいうのかもしれない。この世に中はそういう土壌になっているから、ヒットラーが登場してくるし、鳩山人気がつくられるし、流行という現象も生まれてくる。
そういう共同性を利用して人をたらしこんだやつが勝ちの世の中になっている。
われわれ庶民がそのことに嫉妬してもしょうがないが、われわれ庶民にだって守るべき真実はある。その真実を口先だけでこね回してかっこつけられると、そのときだけは、ちょっと待ってくれよ、と言いたくなる。
おまえらがそんなことをいっても板に付いてないんだよ、と。
「日本辺境論」の内田樹先生が、自分のブログでこんなことを言っておられた。
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人は無動機的に何かをするということはない。私は人間が「どんなことがあっても主観的には合理的に生きようとする」その努力を「可憐」だと思うのである。おのれを合理化する努力をやめることができないという人間の根本的趨勢のうちにわたしは知性の最終的な可能性を見出す。
私は「おのれの外部にある精神」に対して、つねに(でもないけど)ささやかな敬意と深い好奇心を持って立ち向かうのである。
人間の知性は定型に飽きるところからしかはじまらない。
自分が自分でしかないことの常同性に対する嫌悪からしかはじまらない。
そこからしか「外部にある精神」に「触れたい」という思考は生まれない。
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「その努力を可憐だと思う」のなら、どうして働こうとしないニートや学ぼうとしない今どきの子供をさげすむような言い方をするのか。さげすんで、自分の若者時代や子供時代のほうが人間として健全ですぐれていた、というような言い方ばかりするのか。
それが、「おのれの外部にある精神に対してささやかな敬意と深い好奇心を持って立ち向かう」態度なのか。
あなたは、今どきのニートや学ばない子供たちに、「ささやかな敬意と深い好奇心」を抱いているか。たださげすんで、彼らを働かせ学ばせようと画策しているだけじゃないか。
悪いけど、彼らは、あなたたちのような下品な大人の下で働くことも学ぶことも、絶望的なほどにうんざりしているのですよ。
あなたは、彼らの「どんなことがあっても主観的には合理的に生きようとするその努力を可憐だと思う」となんか、あなたの著作のどこにも言っていないではないか。そんなこと、ぜんぜん思っていないんだろう?
やつらはまだ人間の範疇に入っていないからそんな対象ではない、とでも言いたいのか?おそらく、そんなところだろう。
そうやって、あなたは、いつだって口先だけなんだよ。どこから仕入れてきたのか知らないが、そんなことが、あなたが腹の中でしんそこ思っていることだとは信じられないんだよ。
あなたなんか、ニートや学ばない子供たちに対して、気味悪くなるくらいこれでもかこれでもかとさげすんだ視線で書き散らしているだけじゃないか。
少なくともあなたよりは僕のほうがずっと、そうした若者たちに対して、その生きようとする努力を「可憐だ」と思い、「ささやかな敬意と深い好奇心を持って立ち向か」っている。
あなたなんか、口先だけじゃないか。
あなたは、本当に僕よりもそうした態度でものを考えていると、僕の前でいえる自信があるか?
あるなら、言ってこいよ。
「人間の知性は定型に飽きるところからしかはじまらない」とか「自分が自分でしかないことの常同性に対する嫌悪からしかはじまらない」とか、言ってることは確かにそうだが、だったら、「自尊感情を守りなさい」とか「自分を愛するように他者を愛しなさい」とか「生き延びようとする意欲が人間を生かしている」とか、「自分の未来をイメージできる人間になりなさい」とか、そんなくだらないことを言ってくるな。その程度の陳腐な思考しかできないくせに、どこからパクってきたかしらないけど、そんなかっこつけたことを言うな。
「自分が自分でしかないことの常同性に対する嫌悪」があるなら、「自分を愛する」ことも「自分の未来をイメージする」こともできないだろうが。イメージしていたら、いやになるだろうが。そんなこともわからないのか。
日本があなたの言うように「出口のない辺境」であるということは、生き延びようとする意欲なんか捨てないと生きられなかった、ということなんだぞ。そういうところから日本的な「無常観」が生まれ、乱世の戦国時代が生まれ、「わび・さび」の茶の湯の芸術が生まれてきたんだぞ。
「辺境」ということばを、おまえみたいな薄っぺらな思考しかできない学者にもてあそばれたくはないんだよ。
ある知り合いに、僕のこの「かわいい論」が「日本辺境論」みたいだといわれて、ものすごく嫌な気分になった。僕は、あんな思考停止したレベルの低いことを言っているんじゃない。あんな横着な口から出まかせを言っているんじゃない。
この「かわいい論」の主題は、内田氏の言うような、人間の「根本的趨勢」や「知性の最終的な可能性」が「おのれを合理化する努力をやめられない」ことにあるのではではなく、「おのれを、非合理的な、人間の<にせもの>にしてしまおうとする衝動を避けることができない」という「逸脱の精神」として考えることにある。そしてそれこそが、日本列島の歴史の水脈としての「辺境性」なのだ、ということにある。
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追伸
僕は、フィギュアスケートは、小塚君を応援していた。
その競技が、氷の上を滑ることの美しさと喜びを表現することにあるのなら、彼ほどそれを高い次元で表現していた選手はいなかった。
優勝したアメリカ選手なんか、小塚君に比べたら、ぜんぜん野暮ったかった。
彼は、身のこなしや姿そのものが心にしみるように美しく端正で、しかも、ひと滑りのストロークの長さやなめらかさは誰れよりも際立っていた。神が舞い降りたような滑りをする。
僕はもう、見ていて泣けてきた。
8位であることなんかどうでもいい、その滑っている姿を見ているだけでよかった。